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2024年1月15日月曜日

【西国街道】荏原駅、七日市宿、神辺宿、横尾駅

(尾道宿から三原宿まで瀬戸内を眺めながら歩く)


京都から歩き始めた西国街道歩きも通算13日目で広島県の手前までやってきました。

今回は2泊3日で前回の終着点である井原鉄道の荏原駅からスタートして三原宿まで歩きました。

今回のルートの全体の感想ですが、国道2号線の車道の脇を歩くことは少なく、ほぼ旧街道の道を歩けたのは良かったです。

ただ地域が積極的に宿場町を保存しようとしていないようで、順当に住宅化されたので前回の矢掛宿のような江戸時代にタイムスリップみたいな感動はほぼありませんでした。

印象に残ったのは尾道宿から三原宿までの行程で左手に瀬戸内の島々を眺めながら歩けたのがとても良かったです。

3日間をまとめるとこんな感じです。

2日目の午前中はしまなみ海道ドライブを兼て大三島(おおみしま)にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)で甲冑コレクションを見学に行ったので午後から街道歩きでした。

  • 1日目:荏原駅、七日市宿、神辺宿、横尾駅 約20km、3万歩
  • 2日目:横尾駅、今津宿(松永駅) 約16km、2万6千歩
  • 3日目:今津宿(松永駅)、尾道宿、三原宿 約21km、3万4千歩

宿は2泊とも福山駅そばのホテルに泊まりましたが、西国街道は福山駅から北へ離れているので少し不便ではあります。



こちらが一日目の記事で紹介しているマップです。



前回の終点であった荏原(えばら)駅まで新幹線、山陽本線と乗り継いで清音(きよね)駅で井原鉄道に乗ってようやく到着。

荏原駅の正式名称は「早雲の里 荏原駅」となっていますが、これは北条氏の初代である北条早雲の出目が荏原領であったらしいということが由来です。

早雲は室町時代にはるか遠くの小田原城を奪取して相模一帯を支配するまでに出世した武将ですが、正直、いままで知りませんでした。もっとも北条氏を名乗ったのは早雲の死後だったそうです。


相田嘉三郎旧邸と書いてある。調べてみると明治から戦前までの人で東日本で学んだ養蚕業をこの地に広めた人でした。



井原大橋を渡ったところにある七日市宿の本陣跡。


よく見ると南無大師遍照金剛と書いてあるが、これは金剛大師、つまり弘法大師に帰依しますという意味。上段に祀られているのも弘法大師のように見える。

今回の旅では瓦葺きの屋根のついた小規模なお堂(大師堂)を度々見かけましたが、これらは四国八十八所と関係があるような気がします。



道が大きくカーブしていて大曲跡と書いてある。単調な旅に変化をつけるため、と書いてありますがそんな理由はどうも疑わしい。



高屋川からはまだ随分離れているのに備中大橋跡の碑がある。名前からして大規模な橋のようですが、明治時代の地図を見ても「大橋」と書いてあるだけで実際の川も橋もない。先の大曲と合わせてこのあたり随分大きく地形が変わったように思えます。



高屋駅があるあたりは高屋宿という宿場町であったようです。正式な駅名が「子守唄の里 高屋駅」になっていて山田耕筰編曲の唄「ねんねこしゃしゃりませ」というのはお眠りなさいませの方言。

ここまでが岡山県(井原市)で、ここから先がいよいよ広島県の福山市に入ります。



民家の軒先に咲いている蠟梅。



上御陵八幡神社。子守唄の歌詞に三十日の宮参りに行くとあるのはこの神社らしい。この歌詞、どうやら子守をする乳母の唄のようですが、乳母の本音が出ていて少し恐ろしくもある。寝ている子はかわいいけれど、起きて泣くと憎たらしい(つらにくい)、まな板にのせて青菜を切るようにじょきじょき、と親には聞かせられないような歌詞です。

右の石燈籠がとても大きくて目立ちますが、今回の旅では屋根付きのお堂と同じく、この簡素で大ぶりな燈籠が印象的でした。

注連柱(しめばしら)には和やかな風が吹き、めでたい気に溢れるといったようなことが書かれていて運気がつきそうな神社です。



境内に登ったところからの景色。



一里塚跡に菅茶山先生の漢詩が彫ってあります。菅茶山(かんちゃざん)は江戸時代このあたり神辺の出身の漢学者だったそうです。



寛政9年(江戸時代中後期)外ヶ島弥五郎と書いてあるので調べてみると、地元で人気の怪力の力士でしたが若くして亡くなってしまったそうな。その横には大日如来、陸軍一等兵の石碑、そして馬頭観音碑。



ここにも大きな石燈籠がある。傘の部分が大きくて火を灯す部分(火袋)が小さいので不安定な感があります。象山夜燈と書いてありますが象頭山のことでしょうか。このあたり御野村という名前で御陵という地名もあり古墳も見つかっているようなので、天皇家に関係しているのかも知れません。



高屋川を渡ります。地蔵菩薩の石像。



川沿いのデニムの会社。前回の旅で矢掛宿手前の備中呉妹(くれせ)の由来が朝鮮から絹織物が伝えられたとありましたが、今回の旅でも織物や染料の会社が幾つかありました。

広島の呉の港など瀬戸内海に上陸した呉の時代(西暦200年代)の秦氏など朝鮮人たちが絹織物を伝えたのが発端なのではないかと思います。

一方で綿織物が日本に伝わったのは中世以降になります。カイコから絹糸を採るより、綿花から糸をつむぐ方がよっぽど簡単に思えますが、綿花そのものが知られてなかったからでしょう。

大昔からの織物技術の知恵が蓄積されて児島に代表される高級ジーンズを生み出したわけですね。



ここは先ほど漢詩の石碑で出てきた管茶山が開いていた学校で簾宿(れんじゅく)があった場所。

このあたりで中学生が体育の授業でマラソンをしていました。走りながら挨拶をしてくれました。管茶山が残した教育への想いは今にも生きているかもしれません。



案内版にあった絵。江戸時代なので朱子学などを教えていたのでしょう。



酒屋さんになっている古そうな家屋は小早川文吾旧宅と石碑があります。文吾は上の管茶山の弟子で簾塾で学んだそうです。



神辺(かんなべ)宿の本陣です。



なまこ壁の変則で花柄になっています。こちらの歯医者さんは福山市で今でも開業されているようです。

このあと横尾のバス停から20分ほど乗車して福山駅に行きました。

福山駅は西国街道のルートよりはずいぶん南にあるのですが、街道沿いに良い旅館がなく、食事の利便性等を考えて福山駅近くのホテル(リッチモンドホテル)にしました。



まだ少し時間と体力があるので、福山駅に隣接している福山城を訪ねます。これは案内版の見取り図ですが、思っていたよりも規模がおおきくて天守が立派なのに驚きました。



江戸幕府になってから建てられた城で福山市のサイトでは最高到達点と言われています。
城が建つまでの福山は田畑があっただけで、町の中心部はさきほど訪れた神辺(かんなべ)宿周辺であったそうです。

なぜわざわざ街道から離れた場所に建てたのか疑問に思いましたが、どうやら理由は福山城は瀬戸内海と運河で通じていたからというのが理由のようです。

豊臣勢を大坂の陣で滅ぼしたあと、江戸幕府から見た時の脅威は四国や九州の残存勢力なので、いつでも水軍を出せるようにしたかったのではないかと思いました。

明治の地図を見ると、お城から福山湾へつながる運河がまだはっきりと残っています。たいして現在の地図を見ると道路になっています。

(今昔マップon the webより)


背の高い立派な石垣です。これら櫓の建物は京都の伏見城を廃城にしたときに建築物資を移転して作られたそうです。



明治初期の廃城令で取り壊しの予定だったものを地元福山からの願いでなんとか潰されずにすんだそうですが、こんな立派なお城を潰そうとは明治政府はよっぽど古い日本文化をゴミ扱いしていたのしょうか。



お城の西側にゴシック建築の立派な教会というかカテドラルがありましたが、調べてみると最近建てられた結婚式場だそうです。さぞかしオシャレな結婚式ができることでしょう。



2023年2月17日金曜日

【西国街道】吉備真備駅、矢掛宿、荏原駅

 西国街道の岡山の旅の3日目、最終日です。

2日目のブログはコチラです。

岡山駅近くのスーパーホテルで起床し温泉に入って朝食を食べてホテルを出たのが8時過ぎ、平日の朝なので時刻表を気にせず岡山駅に行くと、次の伯備線が1時間近く先でした。

ローカル線はちゃんと確認すべきだったと後悔。

しかたがないので8:25の山陽本線に乗って倉敷駅で下車、タクシーに乗って昨日の終着点の井原(いばら)鉄道の吉備真備(まきび)駅まで行ってもらいました。タクシー代3800円かかりましたが時間の節約にはなりました。

3日目の詳細ルートを示します。


タクシーを降りて歩きだしたのが9時です。

駅から西国街道を歩き始めたすぐのところに「まびき公園」がありますが、平成までの地図には「吉備大臣の墓」と書いてあります。なぜ今の地図には書いていないのだろうか。

吉備真備大臣については後に銅像がでてくるのでそこで紹介します。

まびき公園にあるいくつかの神社の一つが八田神社。以前の八田村の村社が合祀(ごうし)されたもので、吉備真備とは関係はないようです。



「熊埜権現宮」、埜の字は「の」と読むので熊野神社です。階段を登ると古墳が出てきました。



「黒宮大塚古墳」と書いてある中を見ると石棺があったような方形のくぼみがありました。勾玉などが出土したそうで弥生時代から古墳時代の誰かの墓のようです。



耕地整理というのはバラバラに開発された耕地を全体的に牛馬や資材が通りやすいように矩形に区切った形に整理することで、明治の終わりに法整備されたそうです。

地図を見るとこのあたり、昭和の初めまでは真っ白な田んぼだったのが、山陽道(西国街道)にそって長方形に均等に区切られているのがわかります。



備中呉妹(びっちゅうくれせ)駅から鳥ケ嶽へ登山コースがありました。

姫路あたりからずっとこのような200m弱の小山が並んだ地形なのですが、地質学的にどうやって形成されたのか知りたい。

駅名の「呉妹」はここの村名で、中国の呉の国から来た人が絹織物を伝えたことが由来だそうです。呉の国は三国志にでてくる孫権が王の国ですが、西暦200年代の話です。そう言えば、呉服というのも呉から伝わった服という意味なのですね。



鳥ケ嶽(164m)には4メートルの石造毘沙門天立像があるようです。室町時代末期の作品。

(くらしき地域資源ミュージアムより)


ふと横を流れる小田川を見ると、寒い中、3人ほどの人が川に入って何かをしています。普通に立てるほどの浅瀬で何か長い棒を使っています。

調べてみると、このあたりではシジミ採りができるそうです。シジミのオルニチンが肝臓にいいので、飲んだ翌日なんかシジミ汁がおいしく感じられますが、自分で採るのもいいですね。



歩道のガードレールの外の下ギリギリに地蔵菩薩像がありました。以前は街道沿いにあったのが邪魔なので外に出されたのでしょうか。可哀想な気がしますが、ちゃんとお供えされています。



小田川沿いの歩道が整備されていて気持ちよく歩けます。看板にある「おかやまアダプト」とは、自分が担当する地区を自分の養子(Adopted Child)のように可愛がるという活動団体とあります。とても素晴らしい地域の活動かと思います。

やはり公共は行政に任さず自分たちで作ることが大切です。自分はなかなか出来ていませんが。



このあたり三谷村で徴兵された人々の戦没者碑です。100~200人の名簿が一人一人彫られています。働き盛りの男たちが全員いなくなったわけです。どこに送られたのでしょうか。



吉備大神宮です。



吉備真備(きびまきび)の銅像。吉備津彦と同じ孝霊天皇の系列ですが、時代はずっと後の奈良時代の人です。

遣唐使で唐に18年もの間、文化や技術を学んだそうです。帰国後はその成果を評価され10階級昇進したというからすごい出世です。吉備地方の人というより吉備出身の奈良朝廷の中心人物の一人のようです。



このあたり一帯が公園になっていて、桃畑もありました。



阿弥陀如来とお地蔵さん。第7番(?)と書いてあるようですが、吉備四国八十八箇所霊場というのがあるようで、その中の一つなのかも知れません。



ここから先が、下道(しもつみち)氏の墓で、国指定重要文化財と書かれてあるので上に登って行きます。下道氏というのは吉備氏の先祖にあたる家系のようです。吉備真備も以前は下道氏を名乗っていたと書かれています。



50段ほどの石段の途中にはトイレもありました。どんな墓があるのだろうと期待して登っていった先にあったのが、簡素な石臼のようなモノ。

「何故コレが国指定重要文化財?」と思い、調べてみると江戸時代にこの場所で銅製の骨臓器(骨壺)が発見され、容器のフタに吉備真備の祖母の骨が収納されていると書かれてあったからだそうです。吉備真備は下道家出身なので下道氏の墓となっているわけです。

石碑には「右大臣真吉備公の墓」と書いてあります。吉備真備は71歳にして右大臣まで昇りつめたのですが、吉備真備自身の遺品は見つかってはいないようです。



写真は国立歴史民俗博物館に保存されている複製です。

(Wikipediaより


井原鉄道の三谷駅を過ぎます。井原鉄道は福山市の神辺(かんなべ)駅まで続いていて、西国街道沿いを走ってくれているので、街道歩きをする身には大変重宝します



井原鉄道の路線を見ていて不思議に思ったのは、何故のどかな田舎を走る電車なのに高架にしているのだろうということです。無数の橋脚が立っている割には、車両は1つか2つ。本数も1時間に1,2本です。

井原鉄道の会社設立は1986年。バブルの真っ盛りの頃です。川に鉄橋をかけ、トンネルで山をぶち抜いて、直線最短距離で岡山と福山の内陸部を接続してまえ!というノリじゃなかったのかなぁ。

でも気になったのが無数の橋脚、コンクリートの耐用年数が一般に50年と言われているので、建築が1990年とすれば、2040年には橋脚を全部大規模修繕しなければならない計算になりますが、ICカードシステムさえ導入できない状況を考えるとかなり心配にはなります。



いよいよ矢掛宿にやってきました。大変人気の宿場町なので楽しみです。旧街道でこんな看板が出ているところは、ほとんどありません。



想像以上の美しさです。道は石畳で舗装されていて、両側の家々はとてもよく宿場町の面影を残しています。



なまこ壁に虫籠窓、街道好きにはたまりません~。



矢掛ビジターセンター問屋の横の屋敷の間の小路。



ビジターセンター内部。内部の梁も再現されています。江戸時代には因幡屋という屋号で馬や物資の手配などを行っていたそうです。



12時半なのでランチにします。ご飯屋さんも色々あって迷いましたが、「満点茶屋」に入りました。ランチメニューも6種類ほどありますが、エビマヨランチに。とても美味しい。店内は80~90年代のハリウッド映画のメモラビリアとポップミュージックが。




石井家住宅。案内してもらって内部を見学できます。石井家は酒造業をやりながら大名など高位の客を泊める本陣を経営していた。

矢掛宿の家々が細かく記された地図がありました。全部で200ほどの京町屋のような長細い家々がびっしりと立ち並んでいます。



大名が宿泊、休憩した上段の間。VIPルームです。



欄干のクローズアップです。ブドウのツルと実が彫られています。




矢掛宿を過ぎて荏原駅まで歩いて行く途中には、このように集落の名前を示す案内板がところどころにありました。地域を愛する心を感じます。




一里塚跡。



井原市に入ります。岡山県の最後の市です。井原市は国指定重要無形文化財である備中神楽(びっちゅうかぐら)で知られています。元々は神職による神事だったものを江戸時代に民俗芸能として完成され今に伝わっているそうです。

ただ、ここに立っているのは備中神楽ではなくて歌舞伎の名優を題材にした井原市出身の彫刻家による作品だそうです。



井原鉄道の荏原駅です。6時間半、3.2万歩ほど歩きました。



帰りの井原鉄道の車両は2両で、うち1両はこのような新しくて落ち着いた内装になっていました。田園風景を見ながらゆっくり電車にのるだけの旅も楽しそうです。

この後、岡山駅から山陽新幹線で帰宅しました。

次回はいよいよ広島県入りです!