2026年4月16日木曜日

【東海道】JR豊田町駅、見付宿、袋井宿、掛川宿

 東海道の舞阪宿から島田宿までの2泊3日の旅の2日目です。(まとめと1日目はコチラ)。

下図が、2日目のルートになります。ほぼ国道1号線沿いを歩く道のりですが、見付宿の明治レトロな町並み、袋井宿の松並木、そして掛川城の趣きが良かったです。


今回の宿は掛川駅近くのドーミーインでしたが、最上階13階に露天風呂があり、掛川城が見えて大変良かったです。無料の朝食がない代わりに、風呂上りのアイスと夜鳴きそばがサービスになっています。

掛川駅から昨日の終点である豊田町駅に8時前に到着し、再び歩き始めます。

道路脇を飾るツツジの生垣が大変美しい。


昨日は一日中曇りでしたが、今日は快晴で最高25度まで気温が上昇しました。おかげで顔が酷く日焼けしてしまいました。



宮之一色秋葉常夜燈。街道沿いの常夜燈は普通は石燈が多いのですが、これは珍しく祠のような形態です。よく見ると上部がスリット状になっていて、なかの灯りが外に漏れるようになっています。

石燈だと浜風に吹き消されてしまうからなのでしょうか。



「くろん坊様」と書いてある。このあたりでインドから来た旅僧が、物盗りに遭って殺されたのを村人が丁寧に埋葬したそうです。

旅に出るとこういう危険もあった時代だったのですね。



静岡県に入ると、平野が広がりますが高山は遠い。田んぼはあまり見かけません。土が稲作に適していないので、徳川家康は茶、そして綿花の栽培を推し進めたと言われます。

宅地造成で見える土は赤土で、筆者もトマトの土づくりで赤玉土を混ぜたことがありますが、原産地は関東だったことを思い出しました。



古さを感じさせる酒屋さん。筆者の好きな京都の銘酒「英勲(えいくん)」を広告してします。江戸時代は伏見や伊丹からの「下り酒」が重宝されたといいますが、やはり良い米が採れなかったのでしょう。



見付宿の中心部のはずですが、本陣跡などの代わりにジュビロ磐田のキャラクター、ジュビロ君と、ジュビィちゃんが立っていました。

筆者はサッカーはワールドカップの時くらいしか見ないのでわかりません...

見付宿は、京都から来た旅人が初めて富士山を「見付ける」ことが名前の由来だそうです。天竜川を控えた川越宿で、旅籠56軒の中規模の宿場町でした。



府八幡宮に立ち寄る。見付宿があった場所は、遠江国の国府であり、この神社は遠江国の国司が建立したとされています。

遠足らしき中学生たちがタブレット端末で写真を撮っていました。時代ですなぁ。



道路の愛称が「栄光への道」となっている。これは2020年の東京オリンピックにおいて卓球ダブルスで金メダルをとった水谷隼(じゅん)と伊藤美誠(みま)の栄光を讃えてのこと。

水谷さんも伊藤さんも磐田市出身で、伊藤さんは11歳年上の水谷さんのお父さんが代表を務める豊田町卓球スポーツ少年団で卓球の腕を磨きました。

サッカーといい卓球といい、磐田市はスポーツ選手輩出の地ですね。



旧見付小学校。明治6年開校の日本最古の擬洋風建築の小学校です。

5階は時報のための鐘楼かと思いきや、太鼓楼だったそうです。始業の合図が太鼓というのはなかなか気合いが入りますね。




歩道には明治時代を思わせる美しい絵入りタイルが埋め込まれています。



今之浦川にかかる見事な鯉のぼりの列。まだ4月の後半で子供の日には少し早い。



歩き始めて2時間ほどたったところで、いい感じのコーヒー屋さんをみつけて一休み。

帰りにレジの女の子が会計を10倍間違えて笑っていたのが可愛いかった。



阿多古山を左手に見ながら白いツツジの坂を登ります。



この辺りが富士見町。と言うことは富士山が見えるスポットがあるということですね。



行人坂。「行人」というのは山伏のことで、このあたりで村を手助けしていたらしい。25mほどのちょっとした坂です。



明治29年に建てられた疫病の身代わりになってくれt北向き地蔵。コレラの最大の被害は明治19年だそうですが、10年遅れてこの地を襲ったのでしょうか。



アヤメ、ショウブ、カキツバタもようやく見分けることができるようになってきた。いちばん派手な模様はアヤメです。



太田川を越えて磐田市から袋井(ふくろい)市へ入ります。袋井市は南アルプスが湿った空気を遮るので全国的に日照時間が長いことで有名だそうな。どうりで日焼けが酷かったわけです。

木原畷(なわて)の古戦場。ここは信玄と家康の前哨戦が行われた場所で、信玄の軍の力に押された家康はここから浜松城まで撤退していきます。信玄軍の追撃をかわしてしんがりをつとめたのが本多忠勝。

ちなみに畷とは田んぼのあぜ道のことを言います。



木原畷古戦場にある許禰(こね)神社。ご神木のクスノキが見事な風格を見せている。説明板によると、遠江国は熊野新宮の造営を支援していて、この神社も熊野の神を祀っている。



同じく木原畷古戦場そばにある木原の一里塚。いかにも一里塚らしい旧跡を見るのは久しぶり。



ちょうどお昼になったので国道沿いの吉野家で牛丼を食べて再び歩きだすと、いよいよ袋井宿。

高札場があって、ちょっとした公園のようになっています。JR袋井駅はすぐそば。



「どまん中ふくろい」というのが袋井市のキャッチコピーになっているようです。勿論東海道、京と江戸のど真ん中という意味。



宿場町跡に噴水があるのは長い街道歩きでも初めて見ました。

袋井宿は四方を丘に囲まれたなかに井戸があったから、その名前がついたと言われていて、噴水は袋の中の井戸を意味しているのでしょう。

旅籠の数50軒で本陣が3軒あったというので大きめの宿場町です

遠州三山と言われる有名なお寺を多くの人が参拝にきたことも宿場町が栄えた理由だそうですが、三つのお寺は筆者には馴染みがありません。

ちなみに法多山尊永寺、萬松山可睡斎、医王山油山寺。当然ながらいずれも袋井市のお寺。


袋井宿の東端。



広重の袋井。出茶屋の図とありますが、出茶屋とは宿場町のはずれにある簡易的な茶屋のこと。松の木にぶら下げたやかんを石を並べたかまどで茶を沸かしています。



上の広重の絵にあるような松並木。



美しく剪定された松が建ち並ぶ日本庭園のような校庭。袋井東小学校ですが、前身は尋常小学校で、さらにそれ以前は慶應義塾に触発されて出来た用行義塾だったという。



東小学校創立100年記念で復興された一里塚。



ここも立派な松並木。



富士浅間宮の赤鳥居。このあたりから富士山信仰の社が増えてくるのでしょう。楽しみです。



自然の景観の残る原野谷川。太田川に合流します。



国道1号横の歩道を歩いていると、なんとミニバンが地下歩道入り口に衝突しています。警察官が現場をあらためていました。

仕方がないので迂回して地下歩道に入り国道の向こう側へ渡る。



袋井宿と掛川宿の間にあった原川の間宿(あいのしゅく)。休憩所だけで旅籠は許可されていなかったと書いてある。薬師餅が名物だった。




静岡に来てから初めて見た田んぼ。筆者の滋賀ではそろそろ田植えの時期ですが、袋井では全国一の日照時間だけあって、すでに田植えを済ませています。



しばらく歩いていると山の上に奇妙な建物が...ブログを書きながら調べてみると掛川市役所の庁舎でした。



GoogleMapで見ると、山の中に庁舎の建物がめり込んだような形になっています。山の反対側から見たので、屋上のドームだけが浮き上がって見えたというわけです。

このドーム部分が議場だそうで、掛川市議会が使っているのでしょう。

ドームだけでなくて、庁舎の内部もお茶の段々畑をモチーフにした設計になっていてとても近代的に見えます。



筆者はこの山上に浮かぶ銀色の物体を見た時、すぐにウルトラセブンのボーグ星人が頭に浮かびました。似てますね。大きさもボーグ星人の頭と同じくらいでは?



逆川を渡る。遠くに見えるボーグ星人の頭がやっぱり気になる。



上の川にかかる大池橋を広重の五十三次が描いています。下方に描かれているように常夜燈が秋葉街道の入り口になり、そこから先に秋葉大権現を祀る秋葉山本宮があります。

右上に描かれている山が秋葉山。実際地図で見てみると、ここから北へ歩いて9時間もかかる場所にある866mの山なので江戸時代でも絵のようには見えなかったと思います。

街道歩きをしていると度々秋葉神社を見かけます。火防の神であったことから町や村では特に大切にされたのだと思いますが、この秋葉本宮は全国の秋葉神社の中心だったというから、その存在の大きさがわかります。

大池大橋を渡る旅の僧もこれから秋葉山をお詣りにいくのでしょうか。



掛川宿に入ってきました。掛川城周辺の町並みが江戸の雰囲気をうまく残しています。清水銀行のレリーフは掛川城城主だった山内一豊が夫人の内助の功による蓄財で馬を買ってもらった場面だと書いてある。

山内一豊は、信長、秀吉とボスに恵まれて掛川城主となり、関ケ原ではまっさきに家康について、その後土佐一国の領主となりました。

掛川宿ですが旅籠30軒と中規模な宿場町ですが、先の広重の絵でも描かれていた秋葉大権現のお詣りの人々で賑わったそうです。



掛川城にたどり着きました。掛川城は今川勢が建てた城で、その後、徳川家康のものとなり、信玄の軍に進撃された際も守り通しました。そして山内一豊が城主となったのは前述です。

中規模なサイズの城で景観と溶け合ってとても良い佇まいだなと感じました。



天守閣へと続く階段が意外に長く、20km以上歩いた脚には堪えます。



内部を見ると木造による復元であることがわかります。平成6年に市民や地元企業から10億円の募金をあつめて復元されたそうですが、実に立派な建築でガッシリとしています。




北側の山々の景色。




天守閣の最上階はとても気持ちの良い風が吹いて旅の疲れが少しとれたような気がしました。

今回の宿である掛川ドーミーインはここから歩いて10分ほど。

行程の終わりが鉄道駅ではなく宿というのは、歩き旅の気分が上がります。翌日もそのまますぐに旅を開始できるのが素晴らしい。

夕方に駅の近くのしゃぶしゃぶ屋で晩ご飯にしました。ちょっと居酒屋も飽きてきたかなぁ。

➡3日目はコチラ。






2026年4月15日水曜日

【東海道】JR舞阪駅、浜松宿、天竜川、JR豊田町駅

 東海道歩きシリーズです。前回は浜名湖を越えて舞阪宿まで歩きましたが、今回は島田宿までの道のりを2泊3日で歩きます。東海道の道のりもいよいよ半分を超えてきました。

全体の行程はこのようになりました。全体的にほぼ国道1号線沿いを歩く旅となり、旧街道の雰囲気は少なめでしたが、天竜川と大井川という大河が印象的でしたし、日坂宿から大井川にかけての高台の道は緑に輝く茶畑の間の道のりが続いて、静岡県らしさを満喫できました

2泊とも掛川駅前のホテルに宿泊しました。

  • JR舞阪駅、浜松宿、天竜川、JR豊田町駅 23km、6時間
  • JR豊田町駅、袋井宿、掛川宿 26km、7時間40分
  • 掛川宿、日坂宿、金谷宿、大井川、島田宿、JR六合駅 24km、7時間



これが1日目のルートと記事で示した場所です。ほぼ国道1号線を歩く行程だったのであまり面白味はなく写真も少なめ。



京都から新幹線で浜松駅まで行き、そこからローカル線で10分ほど戻ると前回の終着地点の舞阪(まいさか)駅に戻りました。9時40分です。今日の天気予報は曇りのち雨で、空模様はいつ降ってきてもおかしくない様子。




JR舞阪駅の前が舞阪宿があった場所で、浜名湖の舟便である今切りの渡しを、向こう側にある新居(あらい)宿とはさんでいる形になっています。宿場町は旅籠28軒で、新居宿と同じくらいの中規模の大きさです。

名物は海苔の養殖でした。鰻の養殖は明治時代からです。



静岡県に入ると国道沿いにしばしば見かけるのが炭焼き「さわやか」。お肉の鮮度が落ちないように静岡県内に限定しているらしい。



JR高塚駅を過ぎたあたりにある可美(かみ)村の合併記念碑。明治半ばからの歴代村長の名前と、可美村にいたるまでの数々の合併の歴史がびっしりと書いてあります。

この奥に可美小学校がありますが、昔あった「みたらしの池」を埋め立てて建てられたので、運動会の日に雨が降ると古池の祟りだ、と言われると書いてある。



左が「秀衡の松」で後ろにあるのが「二つ御堂」。名前の通り二つのお堂があり、一つは病に伏していた秀衡が死んだという知らせを聞いた愛妾が立てたお堂です。実はその知らせは誤報で、病気から回復した秀衡が愛妾の優しさに感謝してもう一つのお堂を建てた。

松については、秀衡が側室の亡骸を埋めた場所に植えた木だと書かれている。

藤原秀衡は、義経をかくまって頼朝に対立した奥州の国守ですが、側室との間の子供が国衡で、家督を継いだ正室の子供の泰衡と衝突しないように、自分の正室を国衡の妻とし、泰衡と無理やり親子関係にしてしまいます。



浜松駅が近づき、線路近くの道がきれいな歩道になっているので、旧東海道から外れて歩きます。



今回の旅の主役の花はツツジです。毎年、ツツジとサツキの違いを覚えた気になって忘れますが、ツツジの方が先に咲き始めます。どっちもツツジ科なので似ていて当然なのですが、見分け方は葉っぱの質感で、ツツジの葉は柔らかいのが、サツキの葉はしっかりしていて光沢がある。



浜松駅前には多くの鰻屋さんがあって、評判の良い高級店は予約でいっぱいのようで、比較的お手頃の「中ノ庄」というお店で、うな重をいただきました。

とても美味しかったけど、前回の旅の終わりに食べた舞阪の「うな慎」の方が美味しかったかな。



うな重を食べて東海道ルートに戻ってしばらくして、なんと浜松宿を通らなかったことに気がついた。ツツジの歩道とうな重のお店を通ったので、本来の国道1号を歩かなかったからです。

チェックして見ると国道沿いの浜松宿本陣跡には看板が立っているだけのようなので「まっいいか」とそのまま進みました。いままでの街道歩きの歴史で、本陣跡を通らなかったのは初めてです。

江戸時代の名残りも消えてしまった浜松宿ですが、旅籠の数94軒に本陣が6軒と、浜松城の城下町だけあって規模の大きな宿場町でした浜松城は前回の旅の際に訪ねましたが、小さな天守が意外でした。家康はきっと三方ヶ原の大敗の苦い思い出を引きずっていたのでしょう。

広重の浜松。宿場町から離れた場所を描いています。当時は「ざざんざの松」という有名な松の木があったそうで、旅人が焚火をしています。海からの潮風で松の葉が「ザザーン」と音をたてたのでしょうね。

遠景のように浜に多くの松が生えていたことが浜松の名称の由来になっています



浜松のランドマークであるアクトタワー。前回の旅の最後に訪れた館山寺の展望所から見えました。

この辺りが、浜名湖の今切の渡しを通らず、浜名湖を迂回するルートである姫街道と合流する地点です。



このあたりも松並木があるが、背が高くなりすぎたのか切られている。



天竜川の治水に私財を投げうったという金原明善(きんぱらめいぜん)の正家。

金原は明治維新の頃の人で、浜松に大被害をもたらした天竜川の治水を明治新政府に訴えたが、聞き入れてもらえず、仕方がないので私財で治水工事を始めた。

ところが、ちょうど明治天皇の東京行幸が決まり、金原が整備した天竜川を明治天皇が無事に渡河することができると、以前は金原の願いを却下していた明治政府から大変褒められて苗字帯刀を許されたといいます。



天竜川の堤防へと続く坂。

このあたりは東海道において江戸と京の中間地点になるので、中野町(なかのまち)という町名がついています



堤防すぐ近くにある六所神社。伊勢神宮や熱田神宮など全国6カ所の神様を集めて天竜川の氾濫や渡しの事故から人々を守った由緒ある神社です。まるでアベンジャーズですな。



江戸時代の天竜川はずっと渡し舟でした。

その後、先に通った金原明善の話で、明治元年に明治天皇による東京行幸の際に、舟を並べて板を敷いた舟橋が2日間だけ掛けられただけで、ちゃんとした木橋が建てられたのは明治9年になってからです。



木曽三川(揖斐川、長良川、木曽川)に続く、大河の天竜川を渡ります。天竜川は諏訪湖からほぼ真っ直ぐ南へ流れているイメージですね。八ヶ岳から西へ落ちてくる水流も合流しています。

天竜川を渡ると浜松市が終わって、磐田市に変わります。



広重の天竜川の図。天竜川は大きく二筋に分かれていて、この図は二筋の間の中州で客を待つ船頭。「見附」は次の宿場町です。



明治天皇が天竜川を控えて休憩された記念碑。休憩だけでこれだけの石碑が建てられるのがすごい。これは明治11年の碑で、すでに東京が皇居になっていて、東海道や北陸道を廻る還幸の際の石碑です。

さっきの金原明善の話は明治元年でその時はまだ京都御所が天皇のお住まいで、いつの間にか東京皇居が正式なお住まいになってしまったのは明治2年のことです。



今日は23kmほど歩いたところでJR豊田町駅で一日の終わりにします。ここから掛川駅まで20分ほどローカル線に乗り、今回の旅の宿であるドーミーインに宿泊しました。

夕食は掛川駅近くの焼き鳥屋さんでした。