2026年6月11日木曜日

【東海道】興津宿、由比宿、蒲原宿、JR富士駅

 東海道歩き、島田宿から富士川までの3日目の最終日です。2日目はコチラ

これが3日目のルートになります。3日目の見どころ、というか今回2泊3日の最大の見どころが薩埵(さった)峠で、そこから由比港の漁港集落へと下りていく道程はとても情緒を感じました。



前日と同様、静岡駅そばのホテル オーレインで朝食をすませてチェックアウト、JR興津駅に到着後、8時前から街道歩きを再開します。

宗像(むなかた)神社は九州の筑前から遷座(移設)された神社で、お祀りしている三柱の神々がいずれも女神であることから、神社にそびえる黒松を目印に「女体の森」という名がついたとのこと。

海上航行の守護神なので九州から来ていただいたということのようですが、遠方の土地との信仰のつながりという意味で、昨日の西宮恵比寿神社の勧請と共通するものがあります。



薩埵峠に登るのに、前方の丘陵を左に迂回して進みます。あとで良く地図を見てみると、どうやら迂回せずとも直接行ける抜け道があるようでした。



興津川をこえて上の写真の丘陵を登って行きます。



途中、地元の人による解説板があり、南北朝時代の観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が、この地で起きたことが書かれています。

足利尊氏の話は吉川英治「私本太平記」を昔読んだ記憶しかありませんが、南北朝時代の話は太平記のエピローグ的に描かれていて、大義なき戦いがゴチャゴチャ続いてあまり面白くありません。

観応の擾乱は尊氏が50歳手前で半ば引退していたときに、弟の足利直義が反乱を起こしたのでこれを鎮圧した闘いです。



本当にここ?と思いますが、お墓の中を通って行きます。


登山道のような道を上がる。



右手に海が広がります。案内板に鎌倉時代にたまたま網にかかったのが薩埵地蔵であったことが名前の由来だと書いてあります。「薩埵」とは仏教用語で生命を意味する。

日本海海岸のような切り立った断崖の地形は、1500万年前から北に動いていた伊豆の火山島が次々と衝突したために出来ました。



崖の上の道を歩いていると鹿に遭遇?と思いきや写真を後で調べるとニホンカモシカでした。カモシカって鹿じゃなくて牛の仲間なのですね。知らなかった。



海の向こうにうっすらと見えるのが伊豆半島です



しばらくの間こういう道が続くのがとても楽しい。

この崖の上に道が開かれたのは江戸時代初期のことで、それ以前は崖下を歩くしかなかったそうです。江戸時代に道が切り開かれた時は大名行列を通るので道幅は今より広かったと書かれています。

崖下は岩場に波が打ち寄せるので、波の合間を縫って駆け抜けねばならず「親知らず、子知らず」と言われたとあります。親子でも互いを気遣う余裕もないようなルートだったという意味です。

ですので、さきほどの足利尊氏の観応の擾乱は薩埵峠の戦いと言われていますが、当然その当時は道はなく、実際の戦いはここより北の由比宿方面だったとされています。



標高約100メートルの薩埵峠の展望台。上部にライブカメラが設置されています。カメラに向かってしきりに手を振りましたが、映らないような角度に設置されている。

海岸沿いに国道1号が、この真下のトンネルから海に突き出しながら東名高速道路が走っています。

崖下の陸地部分は江戸時代終わりの安政の大地震による隆起によるもので、それまでは海面から崖が切り立っていました。



向こうに見える山は8kmほど先にある蒲原の野田山で、その後ろには野田山の2倍くらいの高さの富士山が鎮座している...ハズ。



この先の由比宿の五十三次はここからの景色を描いています。



由比宿へむけて100メートル下って行きます。

ここまでの道、左手に多くのビワの実がなっていました。一つ一つ紙で包んでありました。



薩埵峠の東の登り口には10軒ほどの休み茶屋があって間宿になっていたと書いてある。



東海道名所図会の絵がとても良い。「西倉沢茶店」と書いてあるので左下のが多分、さっきの茶店の一つでしょう。かなり大規模な茶店です。右に描かれているのが「薩埵山」。雄大な富士山が海に浮かんだようにたたずんでおり、「東海道第一の風景なるべし」と書かれている通り!



小池邸。集落の年貢の取りまとめをされていた家です。漁港なので米ではなく水産物を納めていたのでしょう。

赤い敷物の上を飾りつけは数多くの桜エビを模しています。



とても気持ちの良い庭があります。この館の管理人の女性が大変親切な方で、庭の水琴窟の音を是非聞いてくださいと、柄杓で水をかけてくれました。



由比駅のそばでトイレを借りる。桜エビは日本では唯一駿河湾の由比港と大井川港でしか採れないそうです

日中は水深200~300mの深さにいて、夜になると水面20mに上がってくる習性があるので漁は夜間に行われる。



お土産に桜エビとしらすの干し物を買いました。



途中、国道の下を通り抜けて由比漁港に立ち寄りました。直販店があったので、ここでも桜エビのお土産を買う。

その後、怖い思いをしながら自動車専用道路のような国道を東に歩き、旧街道に合流できなさそうなので戻って、道なのかなんなのかわからない小川沿いから旧街道に這い上がりました。

国道って時々、歩行者が歩くべきではない箇所がありますが、標識で区別していないので感覚で見極めるしかない。



由比宿は公園と観光案内所になっています。由比宿は旅籠32軒の小規模な宿場町でしたが、手前の由比川の増水時は川留めで旅人たちはここに留まったとあります

由比川は普通サイズの川に見えましたが、当時は色々な川で川留めがあったのですね。今では当たり前のように橋が架かっていますが。



公園の奥に東海道広重美術館があります。観てみようと思っていたのですがリニューアル作業で来年2027年4月まで閉館とのこと。



美術館横にある本陣の離れ座敷「御幸亭」。茶室も備えていたとあるが、こういう本陣は今まで見たことがないように思う。



JR蒲原駅前の蒲原館というお店で少し早めのランチにします。背油のスープが濃厚だけどとても美味しい。



蒲原宿のある旧東海道は蒲原駅から少し山手の坂に入ります。これは良くある宿場町の防犯上のクランクでしょう。



蒲原宿の志田家住宅。米や醤油を扱う商家だった。漁港なので一般庶民は米は金銭で買っていたのでしょうか。蔀戸(しとみど)といわれる上下分割式の扉は神社仏閣以外の民家では珍しいとのこと。



大正時代に建てられた洋風建築の旧五十嵐歯科医院。ちなみに歯医者で麻酔を注射するようになったのも大正時代。それ以前は笑気ガスを吸わせて気分を高揚させていた。



西国街道を歩いていた時、岡山県のあたりでよく見かけたなまこ壁。ここの商家で和菓子の店だったとある。

このあたりに江戸時代の初めには将軍を接待する御殿があったと別の案内板にあったので、よく栄えた宿場町だったのでしょう。

蒲原宿は旅籠42軒の中規模の宿場町です。ここも富士川の川留めの際には多くの旅人が利用しました



これは広重の五十三次。いままでの宿場町で雪景色ってあったかな?特に静岡は温暖で雪のイメージはありませんが。



蒲原宿を過ぎて、標高70mほどの山沿いの道を北に進んでから富士川を越えます。

写真は東名高速を越える道ですが、今でも富士川付近は地盤が脆弱で地すべりなどのリスクがあるので富士川河口を迂回するルートになっています。



一里塚跡。ここも岩淵という間宿になっていたようです。名前からして厳しい地形だったことを思わせます。でも栗の粉餅が名物だったとか。



富士川橋が見えてきました。この時は前方に半分見えているのが富士山か!と思いましたが、後で調べると富士山はずっと左で、全く見えていませんでした。

ちなみにこの山は越前岳(1504m)で富士山のすぐ南東にあり裾野がつながっています。



富士川を渡ります。この左方向に富士山があるハズ...

新幹線はここより河口よりを通りますが、この富士川橋橋梁が富士山の絶景が見れる箇所です。筆者も何度か車内から撮影しました。

富士川は東海道の渡し舟があっただけでなく、さきほどの岩淵からずっと北の上流の甲府までの水運が江戸時代初めに京都の豪商により開削されました。

これで甲斐の年貢米がここへ運ばれ、逆に塩田の塩が甲斐へと運ばれたので、「下り米 上げ塩」と言われました。

富士川の川面を見るとダムのようなコンクリートが横切っています。調べると四ヶ郷頭首工(しかごうとうしゅこう)という名がついていて農業用水の取水設備だとのこと。



取水設備の端は荒々しい自然の景観が残されていますが、これは自然の生態系を保存するためだそうです。よく考えられている。

このゴツゴツした岩場は富士山の溶岩流です。



富士川と言えば平家物語の名場面。

甲斐の地で勢力を高めつつあった源氏を追討するために京都からやってきた平維盛率いる平家の大軍が、富士川から飛び立つ水鳥の大群の羽音を敵の奇襲だと勘違いして、一目散に逃げたという話。

東海道名所図会にも描かれています。

最強とうたわれた東国武士に対して、京都で栄華に身をゆだねてしまった平家の精神力の弱さを象徴するエピソードです。この時点で平家の滅亡は決まったようなものだったわけです。



江戸時代に富士川の堤防を安全に建設できるようにと祈願して建てられた水神社。


富士駅前の商店街はさびれ気味でした。



今日は23kmと短めだったので2時過ぎにはJR富士駅に到着、そこからローカル線で静岡駅で、新幹線ひかり号に乗り換えて帰路につきました。

今日も気温25度以下でしたが湿度が高くて、かなり水分を飲みました。次に富士駅に戻ってくるのは10月か11月か。

今度は絶対に富士山が見える快晴の日に来ることにします。箱根か小田原あたりまで歩けるかな。



2026年6月10日水曜日

【東海道】JR安倍川駅、府中宿、江尻宿、興津宿

 東海道歩き、島田宿から富士川までの旅の2日目です。1日目とまとめはコチラ

2日目のルートと記事で紹介したスポットを下にまとめます。2日目のみどころは、駿府城跡ですが、公園になっていて天守がないのであまり面白くはありません。


今回の2泊3日で利用した静岡駅のホテル オーレインは温泉付きで価格もお手頃なのに加えて、無料の朝食がわびしくなく質も良く開放的で大変良かったです。スケールメリットを効かせるホテルチェーンじゃなくて静岡の一店だけでこのクオリティーが出せるのは驚きです。

昨日の終点の安倍川駅から歩き始めたのが朝7時半です。今日も一日曇天予報。

東海道に戻って安倍川橋を渡ります。雲がなければ右手正面に富士山が見えるハズ。



広重の府中宿は安倍川(安部川)の川越人足を描いています。基本は肩車ですが増水時は絵のように4人がかりで担いだ台(連台)の上にお客を載せて運びました。

後ろに描かれているのは富士山ではなさそう。



東海道名所図会を見ると、連台に2人載せてる場合もあるようです。



安倍川橋を渡ると安倍川餅屋さんが何店かあります。早朝の開店前ですが、廃屋になりかけ(失礼!)なほどの古めかしさ。それでも福山雅治、仲間由紀恵も食べに来たとのこと。

帰りに静岡駅でお土産に買いましたが、安倍川餅は柔らかい餅にきな粉がついたのと、こし餡がついたセットになっています。



食べるとしたらこちらの店かな?でも元祖はさっきの店のような感じがしますが。



静岡駅を右方向に駿府城にむけて東海道を進みます。



筆者の記憶では街道は城の脇を通ることが多いのですが、ここは駿府城を正面に見ながら進みます。家康公の御威光に照らされながら進むわけです。



駿府城跡に立ち寄りますが、途中にあった徳川家康出陣キットのオブジェがプラモデルを模してあって大変面白い。



駿府城の濠に出てきました。このあたりが府中宿の中心部。旅籠43軒の駿河国最大の宿場町。京都の二条城の堀を思い浮かべました。



駿府城跡は広大な公園になっています。



徳川家康像。駿府城は家康が秀忠に将軍職を譲り渡したあとに作った城で、73歳で亡くなるまでの10年間を大御所としてここで過ごしました。

昨日歩いた藤枝宿の天ぷらを食べてお腹を壊して亡くなってしまいましたが、当時としては非常に長生きです。71歳で大坂冬の陣、72歳で夏の陣と東海道を2度往復しているのは驚異的です。しかも大戦争を率いている。

江戸城は息子に任せるという潔さを感じる一方で、隠居の家が巨大な城だというのは、やはり西半分の押さえは自分がやらねば、という意志があったのでしょう。

この像の後ろが天守閣があった場所で、透明なのぞき窓から発掘工事の現場が見れるようになっています。



天守閣発掘工事の様子。大変大掛かりな工事に驚く。駿府城の天守は江戸城の天守よりも大きかったのですが、家康の死後20年足らずで火災により焼失してしまいます。

ここから様子を見る限り、発掘調査にまだまだ何年もかかりそうで、天守の再建にはほど遠いといった感じです。

もとより江戸時代初めに焼失していて設計図もないらしいので再建計画も難しそう。



駿府城跡を出ると静岡県庁。板野友美が県の広告でがんばっていて嬉しい。




途中で見かけた西宮神社。筆者の故郷である兵庫県西宮に関りがあるのかなと思い調べてみると、西宮恵比寿と同じ恵比寿を祀っている。「えべっさん」ではなく「おいべっさん」という愛称らしい。

本宮の西宮恵比寿から、漁業を営む人々の豊漁を願うために恵比寿神を勧請しているそうな。



JR東静岡駅、静岡鉄道の長沼駅そばにあるバンダイの工場兼体験ミュージアム。国内唯一のガンプラ製造拠点。

さっき見た、プラモデルを模した徳川家康出陣キットはここがスポンサーだったのか!

ちなみに静岡鉄道はJR新静岡駅と清水駅をほぼ並走している一路線だけの鉄道会社。それでも人口が多いので経営は成り立っているのでしょう。



上原地区の上原堤といわれるため池の前にある子安地蔵尊。

説明板を読むと、徳川家康が武田勝頼攻めの際に、武田一門である池尻城の城主、穴山梅雪(信君)とここで会見し、梅雪は家康側に寝返ったという。梅雪を失った武田勢にとっては敗北へのターニングポイントだったようです。

穴山信君は武田信玄の甥で駿府進出の際は、反撃してきた北条と徳川の連合軍を池尻城に籠城して食い止めた実績を持つ重鎮でしたが、武田勝頼とはうまく行ってなかったようです。



地蔵尊の拝殿の裏にまわると、上原堤が一望できました。池の上に広がる睡蓮が見事。



江尻宿手前の巴川にかかる稚児橋にはとても良く出来た河童の子供の銅像があります。

由来を読むと、橋が完成した日に突然川から子供が現れて去って行ったので、河童の化身だと言われるようになったとか。




カッパ橋をこえて少しいったところが江尻宿の本陣のあったところです。さきほど出てきた穴山梅雪(信君)の江尻城は後ろ側にありました。

穴山梅雪ですが、家康に寝返った数ヶ月後に勝頼ともども武田家は滅亡、そしてその数ヶ月後には本能寺の変が起きて、家康とともに逃げる途中で地元民の襲撃に遭って殺されています。

江尻宿ですが旅籠50軒の大型の宿場町でした。そばに清水港があり、大坂との中継地になっていたので人の往来が多かったのでしょう。さきほどの西宮恵比寿の勧請の話も西宮港とのつながりを感じさせます。



広重の五十三次も清水港を描いています。



清水港と言えば、思い浮かべるのは「清水の次郎長」です。バクチと喧嘩の親分でしたが、その任侠ぶりが旧幕臣に買われ、明治維新後は清水港の発展のために力を尽くした人物です。

写真を見ると刀で斬りつけられそうな怖さのなかに、どことなく深い人情味を感じさせます。

江尻宿本陣から少し南に行ったところに清水の次郎長の墓があったのですが、気づいた時にはかなり通り過ぎた後でした。

「清水港の名物は お茶の香りと 男伊達」

江戸時代の静岡茶の主力生産地は静岡市の山間部であり、そこから運ばれた茶が江戸時代は和船で国内へ、明治時代は海外へ出荷されていました。



途中、お昼になったので、くら寿司に立ち寄ってお腹を膨らませてから再開です。

国道の脇道ですが、ここは細井の松原という松並木だったと書いてあります。しかし太平洋戦争の昭和19年に松根油(しょうこんゆ)採取の際に伐採されたとある。

そこまでしないと燃料が無かったのですね。知らなかった。

さらに根を掘り返していたときに多数の人骨が出てきて、それはおそらく東海道で行き倒れになった旅人だとして寺に葬ったと。



清水港の北部に来ると興津宿に近づいてきます。

途中に西園寺公望の晩年の住宅、坐漁荘(ざぎょうそう)が見学できるようになっているので入ってみます。

西園寺公望は明治、大正時代に総理大臣を務めた人で京都出身ですが、60歳を過ぎてこの興津が気に入って住宅を建てました。しかし政界を引退したわけではなく、総理大臣の選定や第一次世界大戦のパリ講和会議に出席したりと、活動を続けて90歳まで生きました。



日本庭園のなかにこういうテラスがあるのは大正時代だなと感じます。東京から汽車に乗って西園寺に面会しにやってくる人々は「西園寺詣で」と言ったそうです。




興津(おきつ)宿の中心部は公園になっています。興津宿は旅籠34軒と中規模の宿場町でした。



興津宿そばにあるJR興津駅で今日の行程を終わりにします。今日は27kmと比較的良く歩きましたが、曇天で気温が高くなく快適に歩くことができました。

このあと、再び静岡駅に戻り、2日連続で秋吉に行き、焼き鳥をビールでお腹に流し込みました。