2026年3月12日木曜日

【東海道】名鉄国府駅、吉田宿、二川宿、JR新所原駅

 東海道歩きの岡崎から浜名湖までの2日目です。(まとめと1日目はコチラ)。

これが2日目の24kmのルートです。一番の見どころは二川(ふたかわ)宿の本陣資料館でした。


豊橋駅のルートイン豊橋は、大浴場もあり快適でした。豊橋は中規模の都市といったところで、若者も多くて飲食店などの商店街も活気があるけれどゴチャゴチャしていなくてとても良い街でした。

愛知県内で豊橋市が一番人気なのもうなずけます。

豊橋駅から名鉄で昨日の終点の国府(こう)駅まで10分ほど電車で戻ります。豊橋は名鉄名古屋本線の東端で、そこから東への東海道の旅はしばらくJR駅を利用することになるのでしょう。

8時過ぎから歩き始めますが、しばらく何も見どころのない国道1号線沿いを進みます。


今回の旅で頻繁に見かけたのが水仙の花でした。


伊ノ奈一里塚跡そばの小さな祠。きれいに咲いているのは早咲きの河津桜(カワヅサクラ)でしょうか。



1時間半ほど歩いたので兎足(うたり)神社参道の脇に腰かけてサーモスで煎茶を飲む。兎足は古墳時代のこの地の豪族の名前が由来。


兎足神社から少し歩いた所は、かつて「子だが橋」という橋がかかっていたそうですが、恐ろしい話が書いてあります。

1千年前頃には兎足神社には人身御供の習慣があり、毎年春に最初に街道を通りがかった若い女性を生贄にした

ある年の春、生贄を見つける贄狩(にえがり)の男が、若い女を見つけると、故郷に戻ってきた自分の娘だったが、神様との約束を守るため生贄にしたと書いてある。

生贄の儀式は今でも行われているが、今は代わりに雀を12羽お供えしているという。


豊川放水路を渡ります。豊川の水を逃がして豊橋を水害から守るために昭和40年に開削された。

放水路を越えると豊川市から豊橋市へ変わります。



黄色の水仙もよく見かけました。



豊川を渡る前に堤防沿いを少し歩きます。白く咲き誇っているのはユキヤナギ。



豊川にかかる豊橋を渡ったところ。ここの町名は船町で伊勢や江戸への水運のある三河最大の湊だったと書かれています。


広重の五十三次、この先にある吉田宿の吉田城からみた豊川橋です。「豊橋市」はこの橋が由来です。

吉田城には立ち寄りませんでしたが、三方ヶ原の戦いの前に三河に侵攻してきた武田信玄が攻めた城ですが、家康配下の酒井忠次が500人の死者を出しながら守り抜きました。


本陣跡といった案内板は見かけませんでしたが、このあたりが吉田宿の中心のはず。JR豊橋駅は少し南西にあります。

吉田宿は旅籠65軒ある中規模の宿場町で、昨日歩いた赤坂宿、御油宿と同様に飯盛女が多いことで有名だったようです

城のそばの宿場町は風紀が厳しい印象を持っていましたが、吉田宿は湊で働く若い男が多くて、城主も見て見ぬふりをしていたようです。吉田宿の東には明治まで続いた遊郭もありました。



お昼時になったので「江戸ずし」という名前の地元のお寿司屋さんに入りました。かなり高齢の大将で、少しヨロヨロされていましたが、ちらし寿司は美味しかったです。

赤だしにコーヒーゼリーまでついて千円でした。周りに倣って値上げしても十分許されますよ。。



ここから旧東海道は、国道1号をはなれて岩屋山の北側を迂回します。岩屋山古道と言われていたようです。



二川(ふたがわ)宿に入ってきました。



二川宿の本陣が資料館になっています。二川宿は旅籠36軒の小ぶりな宿場町でした。



この資料館は有料だけあって、かなり本格的です。中山道、西国街道と歩きましたが、本陣がこれだけ立派な資料館になっているのは記憶にありません。100台停められる駐車場があり、観光客の人達がいました

旧東海道を通して、当時の本陣がほぼそのまま保存されている場所は、この二川宿と草津宿の2箇所だけだと書いてあります。

この宿場町のジオラマはビデオと連動していて、このビデオがプロの役者さんらしき人達が演じていてなかなか面白い。

平成3年開館なので、昨日藤川宿で知った東海道ルネッサンス(東海道400年記念)の一連の事業の一つなのでしょう。国土交通省が入っているだけあってまとまった予算が投入された感があります。




門幕や提灯があると本陣らしさが出ますね。


三月なのでひな人形が展示されていました。


宿場町全体のジオラマ。藤川宿のジオラマより大掛かりです。


宿場町の手伝いに駆り出される助郷はよく聞きますが、掃除丁場(そうじちょうば)という仕事の説明がありました。

各村ごとに街道の部位に細かい担当が分かれていて、松並木や道路の掃除や維持管理の仕事が課せられていたのですね。

百姓の仕事があって年貢を取られた上にさらにこういう無償の仕事に駆り出されて、江戸時代の百姓は大変だったと思います。



大名が泊る本陣に隣接している清明屋という旅籠も資料館の一部になっています。


旅人たちの人形もよく出来ています。


二川宿を過ぎて、JR御所原駅で今日の旅を終えることにします。

タマネギ畑の向こうに見えている岩山は、立岩という名前がついていてロッククライミングをする人がいるらしい。

筆者の畑のタマネギもちょうどこれくらいの育ち具合です。タマネギは肥料をやり過ぎて育ちすぎると良くないのです。


みかんより大きいけど何かな?



JR御所原駅から、豊橋駅まで戻って宿へ帰ります。

これは豊橋駅のキオスクで買った豊橋名物のブラックサンダー「あん巻き」。見た目はフツーっぽいけど、中にアンコとザクザクのチョコがミックスした具が入っていて、とても美味しい。

これはおススメです



2026年3月11日水曜日

【東海道】名鉄美合駅、藤川宿、赤坂宿、御油宿、名鉄国府駅

 3月に入って再び冬のような寒さが戻ってきました。世界ではアメリカとイスラエルがイランに攻撃を仕掛けて再び大混乱になっています。

1月からの東海道歩きの続きです。今回は岡崎宿を過ぎた名鉄美合(みあい)駅をスタートして、いつものように二泊三日の旅で、遠海国(とおとうみ)に入り浜名湖を越えた舞阪宿まで歩きました。

3日の行程は以下のようになりました。1日目は街道歩きの後に浜松城を見学、3日目は浜名湖展望のロープウェイに乗ったので、いつもよりは少し歩いた距離が短いです。

今回の街道の印象は、一部松並木の美しい旧道もありましたが、全体的に国道一号の道路沿いが多かったです。ただ、宿場町には充実した資料館があり少しは江戸時代の気分に浸ることができました。また、最後に食べた浜名湖の鰻はやっぱり美味しかったです。

今回の宿は豊橋駅前に2泊しました。

  • (名鉄美合駅)、藤川宿、赤坂宿、御油(ごゆ)宿、(名鉄国府(こう)駅) 18km、4時間40分
  • (名鉄国府駅)、吉田宿、二川(にのかわ)宿、(JR新所原駅) 24km、7時間
  • (JR新所原駅)、新居(あらい)宿、白須賀(しらすか)宿、舞阪宿 20km、5時間



1日目の詳細ルートと記事で紹介した場所です。



京都駅から新幹線で名古屋駅まで行き、名鉄に乗り換えて30分強で前回の旅の終着点である美合(みあい)駅に到着。名古屋駅の乗り換えも前回の旅ですっかり覚えたのでもう迷うことはありません。

交通の便が良いので、9時過ぎからのスタートです。やはり東海地方は筆者の住む滋賀県よりも温暖で、歩き始めてすぐにパフジャケットを脱ぎました。



街道筋に入ると前回歩いた松並木が再び現れました。前回の旅の際も思いましたが、以前はマツクイムシ被害で弱った松が多かったのに、最近は対策の効果が出てきてこういった元気な松が見れて良いことです。



藤川宿に入ってきました。右の石碑は黒くて何やらわかりませんが、芭蕉の句碑です。三河名物の「むらさき麦」を詠んだ句です。

むらさき麦は穂先が紫色の珍しい大麦の一種で、芭蕉の時代は街道沿いに赤く実っていたのですね。



これも句碑ですが、珍しく浮世絵の歌川豊広の歌です。

「藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」

調べてみると「棒鼻」というのは宿場町東西の出入り口を言い、出入り口の標識(傍示杭)のことを「杉のしるし」といい、道沿いに赤い穂を垂れている藤のことを、ゆで蛸の足と言っています。花より団子の豊広のユーモアです。



これが広重の描いた藤川宿「棒鼻の図」。広重は豊広の弟子なので、師匠の歌に合わせて描いたんじゃないかな。中央に立っているのが「杉のしるし」かと思います。

この場面は朝廷に献上される馬を連れた行列に頭を下げる人々。



藤川宿本陣跡。この横が資料館になっています。藤川宿は本陣が1つ、旅籠が35軒ほどだったので比較的小規模。となりの岡崎宿が商店も多くて栄えていたので、藤川宿の泊り客が少なくて経営が苦しかったと書いてある。



本陣跡の裏で、むらさき麦が栽培されています。芭蕉の時代を過ぎて戦後になると、むらさぎ麦の景色が消えてしまい、地域の人たちが、平成年間に再び、むらさき麦の栽培を始めたと書いてあります。赤い穂が見れるのは5月だそうです。

筆者の畑でも土づくりを目的にエンバクを育てますが、なんとなく似ています。ただ、5月に実がなるにしてはちょっと小さいような気がしますが。筆者のエンバクは120cmくらいになって2月頃に枯れてくるので刈り取って緑肥にしています。



本陣裏が傾斜面になっているので石垣にして敷地を拡げています。こういう本陣も珍しい。



資料館の中には立派なジオラマや音声ガイドもありました。写真はジオラマを撮ったのですが、なんだかリアルな写真になりました



本陣近くにあったレンガ風壁4階建ての建物は、人形屋さんです。立派なホームページもあります。



インドの蛇使いがコブラを踊らせる笛。そういえば昔、ゼンジー北京って奇術師がいたなぁと思って調べると、コブラ使いは東京コミックショーでした。



藤川宿の東の端の出入り口を東棒鼻といいます。案内板によると江戸時代の棒鼻を再現したのは東海道400年を記念した東海道ルネッサンスという名の復興活動があったそうです。国土交通省の中部、関東が音頭取りをやっていたようです。

立派な資料館があったのはそういうわけか。



本宿村があったと書かれている。旅籠が2軒と茶店があったようですが、53次の宿場町ではない。間宿(あいのしゅく)ですね。麻縄が名物だったとか。




法蔵寺。「家康御手習いの寺」と書いてあります。お手習いとは子供のころの読み書きの勉強のこと。室町時代初期の松平家の始祖の松平親氏(ちかうじ)が帰依していたという由緒あるお寺です。

家康はずっと松平の姓を名乗っていましたが、三河守の称号を朝廷からもらうために徳川の姓を名乗ります。



さて、この法蔵寺、近藤勇の首塚があると書いてあるので、境内に入っていくことにします。




総髪の近藤勇像がありました。新選組については子母澤寛(しもざわかん)さんの「新選組始末記」が明治の生き証人たちの話が載っていて大変面白いのですが、それによると、鳥羽伏見の戦いで幕府軍とともに敗れた新選組は、甲陽鎮撫隊に名を変えて甲州へ転進したけれど、近藤勇は「甲州城をとったら十万石の大名じゃ!」と芸者遊びをしながらボツボツ進んだので、先に板垣退助に入城されて城攻めに失敗したそうです。

その後、近藤勇は大久保大和の名を名乗り身を隠していたのが、捕縛されて断首、京都三条河原に晒されました。享年33歳。

「始末記」によれば胴体は掘り出されて鳥羽伏見の戦いの前に撃たれた左肩の銃創で本人と確認され、丁寧に埋葬されたと書かれてありますが、首については特に記述はありませんでした。

案内板によると、近藤勇の首塚はずっと土の覆われて忘れられていたのが、昭和33年に寺の記録を調べていたときに、ここに近藤の首が埋葬されているとわかったそうです。

「新選組」って何やら改革のイメージがあって変な政党名にも使われていますが、幕府の傭兵なので改革を邪魔する側で、そもそも隊士たちは特にイデオロギーを持っていたわけでもない。




首塚のそばには、徳川家康が武田信玄に敗れた三方ヶ原の戦いの際の徳川側の戦死者が祀られていました。



赤坂宿に入ってきました。梅の花がきれいです。このあたりから岡崎市から豊川市へ変わります。



赤坂宿の陣屋跡の休憩所。陣屋とはお役所みたいな場所のこと。ここから豊川市で人気の宮路山(361m)のハイキングコースが続いています。紅葉の写真が飾ってありました。



赤坂宿の一般の旅人向けの旅籠だった大橋屋が資料館になっています。62軒の旅籠があったと書いてあるので中規模の宿場ですが、次の御油(ごゆ)宿がすぐそばなので、2宿がつながったような宿場町になっていました。

2宿とも飯盛女が多かったそうです。


2階は旅籠の部屋らしい雰囲気があります。


天上の立派な梁。



東海道五十三次の36番目、御油宿。



副題が「旅人留女」ですが、強引に引っ張って首が締まっています。右が飯盛女でしょうか。



浜名湖が近いので、うなぎ屋さんがチラホラ出てきます。ここは「うなぎ屋」といううなぎ屋さん。お昼時だったので入ろうかと思ったのですが、ちょっと店の感じを見てパスしました。



赤坂宿から御油宿間の松並木も見事なものです。国の天然記念物で「日本の名松百選」の一つと書いてある

赤坂宿ー御油宿間は東海道五十三次でも最も短かった。



「1 1/3」(イチとサンブンノイチ)という面白い名前のうどん屋さんがあったのでお昼にしました。海老の天ぷらは食べ応えがありましたが、値段が1600円。

そういえば土山宿のカレーの2000円だった。物価高のご時世ですねぇ。



このあたりが本陣のはずだけど、御油宿は特に復元、保存はしていないようです。



音羽川を渡ります。この先で東海道から姫街道に分岐します。



姫街道は、浜名湖を舟で横断する今切の渡しを避ける内陸側のルートです。舟が苦手な人や、今切の関所での女性に対する厳しい取り調べ(入り鉄砲に出女)を避ける行路になっていました。

桑名宿から七里の渡しを避ける佐屋街道と似ていますね。

(Wikipediaより)


ソメイヨシノかと思うような梅に続く参道の先は大社(おおやしろ)神社で、三河国府鎮守社。



美合駅から歩いて18km。まだ歩けるのですが、駅の場所を考えて今日はここで終了。でもまだ時間が2時前なので、浜松駅まで行って浜松城を見学することにします。

さっきの大社神社が示す通り、ここは三河国の国府があった場所ですが、駅名の「国府」は「こう」と読みます。



浜松駅までまだ意外に遠くて1時間もかかりました。そこから路線バスに乗って浜松城。

徳川家康が武田信玄と闘った三方ヶ原の舞台となった古い城なので、石垣は野面積み。「石を引き抜かないで」と注意書きがある。



天守は思っていたよりも随分と小さい。考えてみれば家康が天下を取るずっと前の城だし、天下を取った後も、負け戦のイヤな思い出の城なので手をかけずにいたのでしょうか。

城内部の案内によれば、当時の天守は現在の復興天守閣の1.5倍あったそうですが、それでも決して大きい城ではありません。




天守内部の映像案内。

三方ヶ原の戦いは、老齢と労咳の病の中、上京の夢をかなえるために遠江に侵攻してきた武田信玄(53歳)を迎え撃つ徳川家康(30歳)との戦いでした。

浅井、朝倉戦で余力のない織田信長から十分な援軍をもらえない家康は、浜松城に籠城しますが、信玄は城攻めをせずに無視するように素通りして西へ軍を進めます。

侮辱された家康は、血気にはやって城を出て北方の三方ヶ原で信玄の軍に襲い掛かりますが、実はこれは信玄の策であり、軍を急転回させ、武田勝頼の騎馬隊が家康軍の後ろに周った時点で勝負がつきました

戦さに勝利した信玄ですが、真冬の寒さのなかの戦いが労咳を悪化させて、その4ヶ月後に病死してしまいます。

このまま信玄が上京を続けて、織田信長と相まみえていたら...?というのは戦国時代ファンがわくわくする想像ですね。


天守の最上階。


太平洋まで見渡せます。


家康像。右手に持っているのは浜松城周辺に自生していたといわれるシダ。シダは丈夫で形もよいので「勝草」と呼ばれ、家康は兜の前飾りにしていました。

浜松城を観光した後、JRで豊橋駅に戻り、駅前の焼き鳥屋でビールを飲んでルートイン豊橋で泊まりました。