東海道歩きの岡崎から浜名湖までの3日目最終日です。(2日目はコチラ)。
下図が3日目20kmのルートです。今回の旅のシメは浜名湖のうな重で、その後、タクシーで舘山寺ロープウェイまでいって展望所で浜名湖を眺めて楽しみました。
2泊したルートイン豊橋で、朝湯に入って朝食を食べて、豊橋の街に別れを告げて、JR豊橋駅から昨日の終点のJR新所原駅まで行きます。
新所原駅を降りてホームを振り返ると、何やらレトロな駅舎が見える。「天竜浜名湖線」と書いてあります。
天竜浜名湖鉄道を調べてみると、ちょうど新所原駅から浜名湖沿岸を北に進み天竜川を越えてJR掛川駅までつながっていました。
全く知りませんでしたが、昭和の終わりに開通した鉄道だそうです。新所原から掛川まで約2時間の鉄道ですが風情がありそうです。
少し存続が危ぶまれる路線ではありますね。ちなみにJRで行くと25分。
新所原駅から国道1号線の面白くない道を歩いて行くうちにいつのまにか三河国から遠江国(とおとうみ)へ入りました。現在の静岡県です。
滋賀県は律令制では、近江(おうみ)国でした。これは都のあった奈良や京都から見て、近い淡海(あうみ)の琵琶湖が近江国で、遠い淡海の浜名湖が遠江国というわけです。
白須賀宿に近づいたところにある庚申堂にあるユーモラスな猿たち。このコは見ザル。
言わザルと、聞かザル。無難に世渡りするための鉄則ですな。
いい感じの街道筋。
白須賀(しらすか)宿に入り、近江屋という旅籠のあったところにはマキの木がある。看板の案内によると、以前、白須賀の宿場町は海沿いにあったのが津波で壊滅してしまい、江戸前期に、高台になっているこの地に移設した。
ところが、高台(海抜70mほど)になっているので風が強く、火事が起きると火の手が速いため、このマキの木と土壁を作ったそうです。
マキの木は水分が多く、葉が緊密に茂るので防火に適しているそうです。
本陣跡は看板だけがありました。白須賀宿の旅籠は27軒で小ぶりの宿場町です。本陣のあるあたりが標高の最高地点で海抜75mくらい。
この先から浜名湖に向けて下り坂になります。
潮見坂公園跡にある見晴らし台です。
曇っていますが、太平洋の海が良く見えます。ここは、徳川家康が織田信長に茶でもてなした場所だと書いてありました。
また、東海道を通って東京へ行幸する明治天皇が、東海道で初めて太平洋を眺めた場所として立派な記念碑が立っています。
遠江八景の一つがココだそうですが、遠江八景って平成になって言われたそうなので、近江八景の真似だなと、滋賀から来た筆者は思いました。
広重の白須賀宿でも潮見坂からの海の景色を描いています。
潮見坂を海抜10mくらいまで下って行きます。
浜名湖に向かってズンズン歩いた所にあった明治天皇御野立所跡。明治天皇に関する石碑は西国街道も東海道も、着替えた場所とか休憩した場所などなど大変多いのですが、「野立ち」とは、天皇が野外で休憩するという意味だそうです。知らなかった。
浜名湖に続く街道沿いに続く松並木は昭和の終わりに植えられたもので、それ以前はマツクイムシで全滅したそうです。
東海に来てから立派な松並木が多いのですが、マツクイムシ対策が本格的に機能してきて本当に良かったです。
街道の端を棒鼻というのは藤川宿で初めて見ましたが、ここでも棒鼻です。ここから
新居(あらい)宿に入ります。
新居宿は旅籠が資料館になっています。このあたりの宿場町はどこも資料館が充実しています。やはり東海道ルネッサンス事業のおかげですかね。
新居宿は旅籠の数が26軒と渡し舟手前の宿場にしては小規模なわりには、本陣が3つもありました。これはすぐ横が関所になっていて役人が多くて大名が足止めされるからです。
またすぐ横が関所のせいで、御油宿や吉田宿と違って風紀が厳しく飯盛女がいなかったのが旅籠の数が少なかった理由でしょう。一般の旅人は偉そうな大名一行の近くに泊りたくはないのです。
資料館にあった大正時代の写真。自転車があるので大正時代なんだとわかります。
2階の部屋。新居の旅籠は全般的に部屋数が少なくて相部屋が多かったそうですが、ここの紀伊国屋の旅籠は比較的高級の旅籠だったようです。
旅籠名物のうなぎの蒲焼。広重の絵です。串にさす蒲焼スタイル。蒲焼とは、蒲(ガマ)の穂に形がにているのが名前の由来です。
養殖は明治時代からなので、広重の時代の蒲焼は全て天然うなぎ。
資料館にあった東海道五十三次宿場名物一覧。名物ナンバーワンである自信の表れ。
浜名湖に面した新居の関所。今切(いまぎれ)の関所とも言われます。
関所は全国にありましたが、新居は、箱根や木曽福島と並んで特に厳しい関所でした。
新居の関所も、白須賀宿で記した江戸前期(宝永年間)の地震による津波で、跡形もないほど流されてしまい、複数回移転しています。
戦国時代(明応年間)の地震では、それまで淡水湖であった浜名湖が太平洋とつながり、塩水湖(汽水湖)になりました。そのおかげで現在、鰻や牡蠣が食べられるわけです。
この細長い建物が取り調べを受ける面番所で、無事に抜けられれば松の先にある渡船場から渡し(今切の渡し)にのって浜名湖を渡ることができるというわけです。
ただし、女性は背中側にある別棟の女改之長屋(おんなあらためのながや)に連れていかれて別に取り調べが行われます。
女改之長屋では、関所の役人の奥さんやお母さんが取り調べをする役をしていたそうです。
今の空港の税関ですね。ただ空港と違って夜は6時になると閉まってしまうので、遅れた旅人は、旅籠で蒲焼を食べましょうと。
これは歌川豊国の荒井(新居)の関所の女改めの図。「改め婆」が「あんた、男の恰好してるけど、女じゃあないか?」と股のモノを「確認」している。ニヤっと笑っているところを見るとやっぱり男だったのか。
資料館にあった関所と浜名湖の全体図。
いよいよ浜名湖を陸路で横断します。橋ができたのは明治14年なので、明治維新で関所が廃止されてもしばらくは今切りの渡し舟はあったということになりますね。
陸路を歩くと太平洋側はよく見えますが、肝心の浜名湖側はほとんど見えません。
明応年間の地震の前までは砂州で陸路が繋がっていただけあって、橋の部分は500mくらいでしょうか。今切りの渡し舟も一里程度の距離だったようです。
地震で砂州の陸路が切れたのが、今切の地名の由来です。
広重の五十三次「荒井(新居)」。浜名湖は温暖なので舟の旅人が大あくび。浜名湖でウナギが育つのも水温が高いことがあります。
浜名湖を横断して舞阪宿にやってきました。
舞阪宿に何軒がある堀江商店で、しらす干しを買いました。帰宅してからご飯にかけて食べたらすごく美味しかった!
再び街道の松並木が並びます。
ちょうどJR舞阪駅を越えたあたりで今回の東海道歩きは終わりです。体力的にはまだ歩けるのですが、鰻を食べずに帰れないので、ここを左に曲がって線路を越えたところの鰻屋さんに嬉々として向かいます。
「うな慎」に到着。ラストオーダー10分前の13時20分でした。
上うな重です。京都の価格と比べれば安い。
鰻料理の話は飯野亮一さんの本がとても面白いのですが、もともと、芝居小屋で鰻の蒲焼が冷めないように、熱いご飯に挟んで出したのが鰻丼のはじまりです。
鰻丼にすると、焼いた鰻が蒸されてふっくらするので鰻の美味しさを再発見することになりました。今では白焼きにした鰻を蒸し器で蒸すのが調理の定番になっています。
うな重は、安っぽく見られがちな鰻丼を体裁よく見せるために明治になってから考案されたメニュー。肝吸いは昭和からです。
ウナギの稚魚がマリアナ海溝からやって来ることがわかったのは2000年頃ですが、なぜ何千キロも離れた場所を行き来するのかはまだ判明していません。
せっかく浜名湖に来たので浜名湖を展望できる舘山寺ロープウェイに行きます。「うな慎」からGOアプリでタクシーを呼んで、はまゆう大橋を渡ります。タクシー料金は4500円でした。アプリサービスは便利です。
ロープウェイ乗り場は浜名湖パルパルという遊園地のそばにあります。立派な観覧車やジェットコースターもある本格的な遊園地です。
ロープウェイから見えるのが舘山寺で上には16メートルの観音菩薩像が立っています。
ロープウェイを下りてさらにエレベーターで3階ほどあがると展望所です。
ここからの景色は浜名湖の東から南西の太平洋側に向かう眺望になります。
筆者が住んでいる近くの琵琶湖大橋から南部分を南湖といいますが、浜名湖全体を眺めて見ると、見慣れた南湖と同じくらいの大きさかなぁと感じました。
調べてみると南湖は53平方キロ、浜名湖は65平方キロなんでやっぱり大体同じですね。
ちなみに琵琶湖全体は670平方キロなんで浜名湖の約10倍。やっぱり琵琶湖はデカい!
Google Earthで確認するとこんな感じ。
舘山寺門前街の拡大。鰻屋さんがたくさんあるようです。
登ってくるロープウェイ。
これは南東側の浜松市の眺めです。次の東海道歩きは浜松市を越えて行くでしょう。
この後、大変時間がかかりましたが路線バスでJR浜松駅まで行って、そこから新幹線こだま、のぞみ、と乗り継いで京都、滋賀まで帰路につきました。