2026年4月15日水曜日

【東海道】JR舞阪駅、浜松宿、天竜川、JR豊田町駅

 東海道歩きシリーズです。前回は浜名湖を越えて舞阪宿まで歩きましたが、今回は島田宿までの道のりを2泊3日で歩きます。東海道の道のりもいよいよ半分を超えてきました。

全体の行程はこのようになりました。全体的にほぼ国道1号線沿いを歩く旅となり、旧街道の雰囲気も少なく面白味の少ない印象でしたが、天竜川と大井川という大河が印象的でしたし、日坂宿から大井川にかけての高台の道は緑に輝く茶畑の間の道のりが続いて、静岡県らしさを満喫できました

2泊とも掛川駅前のホテルに宿泊しました。

  • JR舞阪駅、浜松宿、天竜川、JR豊田町駅 23km、6時間
  • JR豊田町駅、袋井宿、掛川宿 26km、7時間40分
  • 掛川宿、日坂宿、金谷宿、大井川、島田宿、JR六合駅 24km、7時間



これが1日目のルートと記事で示した場所です。ほぼ国道1号線を歩く行程だったのであまり面白味はなく写真も少なめ。



京都から新幹線で浜松駅まで行き、そこからローカル線で10分ほど戻ると前回の終着地点の舞阪(まいさか)駅に戻りました。9時40分です。今日の天気予報は曇りのち雨で、空模様はいつ降ってきてもおかしくない様子。




JR舞阪駅の前が舞阪宿があった場所で、浜名湖の舟便である今切りの渡しを、向こう側にある新居(あらい)宿とはさんでいる形になっています。宿場町は旅籠28軒で、新居宿と同じくらいの中規模の大きさです。

名物は海苔の養殖でした。鰻の養殖は明治時代からです。



静岡県に入ると国道沿いにしばしば見かけるのが炭焼き「さわやか」。お肉の鮮度が落ちないように静岡県内に限定しているらしい。



JR高塚駅を過ぎたあたりにある可美(かみ)村の合併記念碑。明治半ばからの歴代村長の名前と、可美村にいたるまでの数々の合併の歴史がびっしりと書いてあります。

この奥に可美小学校がありますが、昔あった「みたらしの池」を埋め立てて建てられたので、運動会の日に雨が降ると古池の祟りだ、と言われると書いてある。



左が「秀衡の松」で後ろにあるのが「二つ御堂」。名前の通り二つのお堂があり、一つは病に伏していた秀衡が死んだという知らせを聞いた愛妾が立てたお堂です。実はその知らせは誤報で、病気から回復した秀衡が愛妾の優しさに感謝してもう一つのお堂を建てた。

松については、秀衡が側室の亡骸を埋めた場所に植えた木だと書かれている。

藤原秀衡は、義経をかくまって頼朝に対立した奥州の国守ですが、側室との間の子供が国衡で、家督を継いだ正室の子供の泰衡と衝突しないように、自分の正室を国衡の妻とし、泰衡と無理やり親子関係にしてしまいます。



浜松駅が近づき、線路近くの道がきれいな歩道になっているので、旧東海道から外れて歩きます。



今回の旅の主役の花はツツジです。毎年、ツツジとサツキの違いを覚えた気になって忘れますが、ツツジの方が先に咲き始めます。どっちもツツジ科なので似ていて当然なのですが、見分け方は葉っぱの質感で、ツツジの葉は柔らかいのが、サツキの葉はしっかりしていて光沢がある。



浜松駅前には多くの鰻屋さんがあって、評判の良い高級店は予約でいっぱいのようで、比較的お手頃の「中ノ庄」というお店で、うな重をいただきました。

とても美味しかったけど、前回の旅の終わりに食べた舞阪の「うな慎」の方が美味しかったかな。



うな重を食べて東海道ルートに戻ってしばらくして、なんと浜松宿を通らなかったことに気がついた。ツツジの歩道とうな重のお店を通ったので、本来の国道1号を歩かなかったからです。

チェックして見ると国道沿いの浜松宿本陣跡には看板が立っているだけのようなので「まっいいか」とそのまま進みました。いままでの街道歩きの歴史で、本陣跡を通らなかったのは初めてです。

江戸時代の名残りも消えてしまった浜松宿ですが、旅籠の数94軒に本陣が6軒と、浜松城の城下町だけあって規模の大きな宿場町でした浜松城は前回の旅の際に訪ねましたが、小さな天守が意外でした。家康はきっと三方ヶ原の大敗の苦い思い出を引きずっていたのでしょう。

広重の浜松。宿場町から離れた場所を描いています。当時は「ざざんざの松」という有名な松の木があったそうで、旅人が焚火をしています。海からの潮風で松の葉が「ザザーン」と音をたてたのでしょうね。

遠景のように浜に多くの松が生えていたことが浜松の名称の由来になっています



浜松のランドマークであるアクトタワー。前回の旅の最後に訪れた館山寺の展望所から見えました。

この辺りが、浜名湖の今切の渡しを通らず、浜名湖を迂回するルートである姫街道と合流する地点です。



このあたりも松並木があるが、背が高くなりすぎたのか切られている。



天竜川の治水に私財を投げうったという金原明善(きんぱらめいぜん)の正家。

金原は明治維新の頃の人で、浜松に大被害をもたらした天竜川の治水を明治新政府に訴えたが、聞き入れてもらえず、仕方がないので私財で治水工事を始めた。

ところが、ちょうど明治天皇の東京行幸が決まり、金原が整備した天竜川を明治天皇が無事に渡河することができると、金原は明治政府から大変褒められて苗字帯刀を許されたといいます。



天竜川の堤防へと続く坂。

このあたりは東海道において江戸と京の中間地点になるので、中野町(なかのまち)という町名がついています



堤防すぐ近くにある六所神社。伊勢神宮や熱田神宮など全国6カ所の神様を集めて天竜川の氾濫や渡しの事故から人々を守った由緒ある神社です。まるでアベンジャーズですな。



江戸時代の天竜川はずっと渡し舟でした。

その後、先に通った金原明善の話で、明治元年に明治天皇による東京行幸の際に、2日間だけ舟を並べて板を敷いた舟橋が2日間だけ掛けられただけで、ちゃんとした木橋が建てられたのは明治9年になってからです。



木曽三川(揖斐川、長良川、木曽川)に続く、大河の天竜川を渡ります。天竜川は諏訪湖からほぼ真っ直ぐ南へ流れているイメージですね。八ヶ岳から西へ落ちてくる水流も合流しています。

天竜川を渡ると浜松市が終わって、磐田市に変わります。



広重の天竜川の図。天竜川は大きく二筋に分かれていて、この図は二筋の間の中州で客を待つ船頭。「見附」は次の宿場町です。



明治天皇が天竜川を控えて休憩された記念碑。休憩だけでこれだけの石碑が建てられるのがすごい。これは明治11年の碑で、すでに東京が皇居になっていて、東海道や北陸道を廻る還幸の際の石碑です。

さっきの金原明善の話は明治元年でその時はまだ京都御所が天皇のお住まいで、いつの間にか東京皇居が正式なお住まいになってしまったのは明治2年のことです。



今日は23kmほど歩いたところでJR豊田町駅で一日の終わりにします。ここから掛川駅まで20分ほどローカル線に乗り、今回の旅の宿であるドーミーインに宿泊しました。

夕食は掛川駅近くの焼き鳥屋さんでした。

➡2日目はコチラへ。



2026年3月13日金曜日

【東海道】JR新所原駅、白須賀宿、新居宿、舞阪宿

 東海道歩きの岡崎から浜名湖までの3日目最終日です。(2日目はコチラ)。

下図が3日目20kmのルートです。今回の旅のシメは浜名湖のうな重で、その後、タクシーで舘山寺ロープウェイまでいって展望所で浜名湖を眺めて楽しみました。


2泊したルートイン豊橋で、朝湯に入って朝食を食べて、豊橋の街に別れを告げて、JR豊橋駅から昨日の終点のJR新所原駅まで行きます。


新所原駅を降りてホームを振り返ると、何やらレトロな駅舎が見える。「天竜浜名湖線」と書いてあります。


天竜浜名湖鉄道を調べてみると、ちょうど新所原駅から浜名湖沿岸を北に進み天竜川を越えてJR掛川駅までつながっていました。

全く知りませんでしたが、昭和の終わりに開通した鉄道だそうです。新所原から掛川まで約2時間の鉄道ですが風情がありそうです。

少し存続が危ぶまれる路線ではありますね。ちなみにJRで行くと25分。



新所原駅から国道1号線の面白くない道を歩いて行くうちにいつのまにか三河国から遠江国(とおとうみ)へ入りました。現在の静岡県です。

滋賀県は律令制では、近江(おうみ)国でした。これは都のあった奈良や京都から見て、近い淡海(あうみ)の琵琶湖が近江国で、遠い淡海の浜名湖が遠江国というわけです


白須賀宿に近づいたところにある庚申堂にあるユーモラスな猿たち。このコは見ザル。

言わザルと、聞かザル。無難に世渡りするための鉄則ですな。

いい感じの街道筋。



白須賀(しらすか)宿に入り、近江屋という旅籠のあったところにはマキの木がある。看板の案内によると、以前、白須賀の宿場町は海沿いにあったのが津波で壊滅してしまい、江戸前期に、高台になっているこの地に移設した。

ところが、高台(海抜70mほど)になっているので風が強く、火事が起きると火の手が速いため、このマキの木と土壁を作ったそうです。

マキの木は水分が多く、葉が緊密に茂るので防火に適しているそうです。



本陣跡は看板だけがありました。白須賀宿の旅籠は27軒で小ぶりの宿場町です。本陣のあるあたりが標高の最高地点で海抜75mくらい。

この先から浜名湖に向けて下り坂になります。


潮見坂公園跡にある見晴らし台です。



曇っていますが、太平洋の海が良く見えます。ここは、徳川家康が織田信長に茶でもてなした場所だと書いてありました。

また、東海道を通って東京へ行幸する明治天皇が、東海道で初めて太平洋を眺めた場所として立派な記念碑が立っています。

遠江八景の一つがココだそうですが、遠江八景って平成になって言われたそうなので、近江八景の真似だなと、滋賀から来た筆者は思いました。



広重の白須賀宿でも潮見坂からの海の景色を描いています。



潮見坂を海抜10mくらいまで下って行きます。



浜名湖に向かってズンズン歩いた所にあった明治天皇御野立所跡。明治天皇に関する石碑は西国街道も東海道も、着替えた場所とか休憩した場所などなど大変多いのですが、「野立ち」とは、天皇が野外で休憩するという意味だそうです。知らなかった。



浜名湖に続く街道沿いに続く松並木は昭和の終わりに植えられたもので、それ以前はマツクイムシで全滅したそうです。

東海に来てから立派な松並木が多いのですが、マツクイムシ対策が本格的に機能してきて本当に良かったです。



街道の端を棒鼻というのは藤川宿で初めて見ましたが、ここでも棒鼻です。ここから新居(あらい)宿に入ります。



新居宿は旅籠が資料館になっています。このあたりの宿場町はどこも資料館が充実しています。やはり東海道ルネッサンス事業のおかげですかね。

新居宿は旅籠の数が26軒と渡し舟手前の宿場にしては小規模なわりには、本陣が3つもありました。これはすぐ横が関所になっていて役人が多くて大名が足止めされるからです

またすぐ横が関所のせいで、御油宿や吉田宿と違って風紀が厳しく飯盛女がいなかったのが旅籠の数が少なかった理由でしょう。一般の旅人は偉そうな大名一行の近くに泊りたくはないのです。



資料館にあった大正時代の写真。自転車があるので大正時代なんだとわかります。





2階の部屋。新居の旅籠は全般的に部屋数が少なくて相部屋が多かったそうですが、ここの紀伊国屋の旅籠は比較的高級の旅籠だったようです。



旅籠名物のうなぎの蒲焼。広重の絵です。串にさす蒲焼スタイル。蒲焼とは、蒲(ガマ)の穂に形がにているのが名前の由来です。

養殖は明治時代からなので、広重の時代の蒲焼は全て天然うなぎ。


資料館にあった東海道五十三次宿場名物一覧。名物ナンバーワンである自信の表れ。




浜名湖に面した新居の関所。今切(いまぎれ)の関所とも言われます。

関所は全国にありましたが、新居は、箱根や木曽福島と並んで特に厳しい関所でした。

新居の関所も、白須賀宿で記した江戸前期(宝永年間)の地震による津波で、跡形もないほど流されてしまい、複数回移転しています。

戦国時代(明応年間)の地震では、それまで淡水湖であった浜名湖が太平洋とつながり、塩水湖(汽水湖)になりました。そのおかげで現在、鰻や牡蠣が食べられるわけです。

この細長い建物が取り調べを受ける面番所で、無事に抜けられれば松の先にある渡船場から渡し(今切の渡し)にのって浜名湖を渡ることができるというわけです

ただし、女性は背中側にある別棟の女改之長屋(おんなあらためのながや)に連れていかれて別に取り調べが行われます。

女改之長屋では、関所の役人の奥さんやお母さんが取り調べをする役をしていたそうです。



今の空港の税関ですね。ただ空港と違って夜は6時になると閉まってしまうので、遅れた旅人は、旅籠で蒲焼を食べましょうと。



これは歌川豊国の荒井(新居)の関所の女改めの図。「改め婆」が「あんた、男の恰好してるけど、女じゃあないか?」と股のモノを「確認」している。ニヤっと笑っているところを見るとやっぱり男だったのか。


資料館にあった関所と浜名湖の全体図。


いよいよ浜名湖を陸路で横断します。橋ができたのは明治14年なので、明治維新で関所が廃止されてもしばらくは今切りの渡し舟はあったということになりますね。


陸路を歩くと太平洋側はよく見えますが、肝心の浜名湖側はほとんど見えません。

明応年間の地震の前までは砂州で陸路が繋がっていただけあって、橋の部分は500mくらいでしょうか。今切りの渡し舟も一里程度の距離だったようです。

地震で砂州の陸路が切れたのが、今切の地名の由来です。



広重の五十三次「荒井(新居)」。浜名湖は温暖なので舟の旅人が大あくび。浜名湖でウナギが育つのも水温が高いことがあります。


舞阪の手前の弁天島にある弁天神社。



浜名湖を横断して舞阪宿にやってきました。



舞阪宿に何軒がある堀江商店で、しらす干しを買いました。帰宅してからご飯にかけて食べたらすごく美味しかった!


再び街道の松並木が並びます。



ちょうどJR舞阪駅を越えたあたりで今回の東海道歩きは終わりです。体力的にはまだ歩けるのですが、鰻を食べずに帰れないので、ここを左に曲がって線路を越えたところの鰻屋さんに嬉々として向かいます。



「うな慎」に到着。ラストオーダー10分前の13時20分でした。


上うな重です。京都の価格と比べれば安い。

鰻料理の話は飯野亮一さんの本がとても面白いのですが、もともと、芝居小屋で鰻の蒲焼が冷めないように、熱いご飯に挟んで出したのが鰻丼のはじまりです。

鰻丼にすると、焼いた鰻が蒸されてふっくらするので鰻の美味しさを再発見することになりました。今では白焼きにした鰻を蒸し器で蒸すのが調理の定番になっています。

うな重は、安っぽく見られがちな鰻丼を体裁よく見せるために明治になってから考案されたメニュー。肝吸いは昭和からです。

ウナギの稚魚がマリアナ海溝からやって来ることがわかったのは2000年頃ですが、なぜ何千キロも離れた場所を行き来するのかはまだ判明していません。



せっかく浜名湖に来たので浜名湖を展望できる舘山寺ロープウェイに行きます。「うな慎」からGOアプリでタクシーを呼んで、はまゆう大橋を渡ります。タクシー料金は4500円でした。アプリサービスは便利です。

ロープウェイ乗り場は浜名湖パルパルという遊園地のそばにあります。立派な観覧車やジェットコースターもある本格的な遊園地です。


ロープウェイから見えるのが舘山寺で上には16メートルの観音菩薩像が立っています。


ロープウェイを下りてさらにエレベーターで3階ほどあがると展望所です。


ここからの景色は浜名湖の東から南西の太平洋側に向かう眺望になります。

筆者が住んでいる近くの琵琶湖大橋から南部分を南湖といいますが、浜名湖全体を眺めて見ると、見慣れた南湖と同じくらいの大きさかなぁと感じました。

調べてみると南湖は53平方キロ、浜名湖は65平方キロなんでやっぱり大体同じですね。

ちなみに琵琶湖全体は670平方キロなんで浜名湖の約10倍。やっぱり琵琶湖はデカい!


Google Earthで確認するとこんな感じ。


舘山寺門前街の拡大。鰻屋さんがたくさんあるようです。


登ってくるロープウェイ。


これは南東側の浜松市の眺めです。次の東海道歩きは浜松市を越えて行くでしょう

この後、大変時間がかかりましたが路線バスでJR浜松駅まで行って、そこから新幹線こだま、のぞみ、と乗り継いで京都、滋賀まで帰路につきました。