2026年7月18日土曜日

【福井】御嶽山(おたけやま)

 異常気象といわれる昨今、今年は7月初旬まで涼し気な夏で快適だったのですが、7月中旬から猛暑に変わりました。

2026年のワールドカップは寡黙に実力を築き上げたエスパーニャの勝利に終わりました。

今回は若狭湾の山シリーズで、美浜にある御嶽山(おたけやま)に登ります。600m以下の低山なので猛暑でもなんとか登れるだろうという算段です。

御嶽山の中腹の見晴らしのよいところに戦国時代に存在した国吉城跡があるのも見ものです越前朝倉氏の10年にわたる攻勢に耐え抜いた難攻不落の城だと言われています


これが登山ルートです。距離5.4㎞、累積標高570m、時間は休憩30分いれて3時間20分でした。

途中、暑くて大変しんどいので頻繁に休憩を取りましたが、標高が上がってくると日本海からの風もあって随分と楽になりました。


今日は日本海登山のいつもの相棒と一緒です。敦賀から国道を西に進んでいくと向こうに御嶽山が見えてきました。なだらかな尾根の登りやすそうな山です。

この先の国吉城トンネルを抜けると美浜町です。トンネルの名前の通り、これから訪れる国吉城の下を通っています

トンネルがなかった時代は右手の丹後街道の椿峠を越えなければ美浜には行けなかったわけです。中世は国吉城から椿峠を監視して敵の襲来に備えていました。



国道を下りるとすぐに歴史資料館があり、そこの駐車場に停めて登山スタートです。広い駐車場は資料館だけでなく近辺の利用者も駐車OKと書いてあったので登山用でも大丈夫そうです。



資料館手前にあった石仏群。これらは城攻めの朝倉兵に対してぶつけるために、城の上から投げ落としたものを後年拾い集めて供養したものと書かれています。



国吉城歴史資料館。下山後に立ち寄りました。

「難攻不落の国吉城」というキャッチフレーズで紹介されていますが、城を建てたのは若狭国の武田氏で、朝倉軍の10年に渡る侵攻にも耐え抜きました。

隣の敦賀市は中世は越前国で朝倉氏が支配していましたが、美浜から西は若狭国が支配していたので別の国だったのですね。ちょうどここが国境だったわけです

最近、柴裕之さんの「織田信長」を読んだ時に若狭武田氏の存在を知りましたが、甲斐武田氏とは別の家です。

信長の時代に若狭武田氏の内紛で家中の一派が朝倉氏を頼り、別の一派が信長と足利義昭を頼る事態となったので、足利義昭が信長に朝倉攻めを依頼したことが、織田軍と朝倉軍の戦争の発端となったと書かれていました。

しかし朝倉軍が国吉城を攻めたのは織田軍が介入する7年前(1563年)からで、これは越前を支配する朝倉氏による若狭国への侵攻です。



獣害フェンスがありますが、この先も階段が整備されていてとても歩きやすく、ちょっとした散策気分で城跡まで行けます。



二の丸からの眺め。国吉城下町は佐柿と言われました。


本丸跡です。眺めが大変よく監視に最適であり、なるほどここに築城したのも至極もっともなことだと感得しました。



敦賀方面も一望に見渡せます。迫りくる朝倉軍にとっては何も隠すことなど出来ません。

御嶽山の登山はこの場所が頂上よりもずっと景色が良いので、敢えて山に登りたい人(我々!)以外はここで引き返すのも全然アリです。




国吉城跡までの道は非常によく整備されていたのですが、そこから先は普通の登山道になります。



何か所か虎ロープ場があり、砂利場で滑りやすいところはお世話になります。筆者よりも体力がある相棒ですが、普段オフィスワークのせいか今日は少しバテ気味です。



途中にテレビアンテナ設備があり、設備に送電する電柱があります。重機が入ったので歩きやすい道です。



福井テレビとNHKのアンテナ設備がありました。標高400mくらいになるとはっきりと気温が下がったことを感じます。日本海からの風もあって、登り始めとは随分違う。



登り始めて1時間半ほどで頂上に到着。548mの標高ですが、大量に汗をかいたのでもっと高い山と同じくらい疲れた。

頂上からこの先に尾根道がずっと南に滋賀方面へと続いています。



景色を見ながらカレーパンを食べる。頂上からの景色は敦賀方面のみで国吉城跡のほうが開けて見えます。

遠くの高い山は敦賀半島にある西方ヶ岳(760m)です。野坂山地の一部で3年前に登りました



帰り際に気がつきましたが、この場所はひどい土砂崩れの上になっていました。



下山後に立ち寄った資料館のジオラマ。上部の少しハゲているところが国吉城跡で、そこから右上の尾根沿いに登ったところが御嶽山の頂上。



下山後は三方五湖方面へ進み「みかた温泉きららの湯」で汗を流して、すぐ隣にあった「うなぎ食堂吟ちゃん」でうな重を頂きました。

江戸前うなぎや浜名湖のうなぎは太平洋に面していますが、日本海に面した三方五湖には天然うなぎはいないだろうと思っていたら、「口細青鰻(くちぼそあおうなぎ)」という天然種があるそうです。脂の乗りがよくて美味だとか

これは養殖うなぎだと思いますが、疲れた体にうなぎは大変美味しかったです。



2026年6月11日木曜日

【東海道】興津宿、由比宿、蒲原宿、JR富士駅

 東海道歩き、島田宿から富士川までの3日目の最終日です。2日目はコチラ

これが3日目のルートになります。3日目の見どころ、というか今回2泊3日の最大の見どころが薩埵(さった)峠で、そこから由比港の漁港集落へと下りていく道程はとても情緒を感じました。



前日と同様、静岡駅そばのホテル オーレインで朝食をすませてチェックアウト、JR興津駅に到着後、8時前から街道歩きを再開します。

宗像(むなかた)神社は九州の筑前から遷座(移設)された神社で、お祀りしている三柱の神々がいずれも女神であることから、神社にそびえる黒松を目印に「女体の森」という名がついたとのこと。

海上航行の守護神なので九州から来ていただいたということのようですが、遠方の土地との信仰のつながりという意味で、昨日の西宮恵比寿神社の勧請と共通するものがあります。



薩埵峠に登るのに、前方の丘陵を左に迂回して進みます。あとで良く地図を見てみると、どうやら迂回せずとも直接行ける抜け道があるようでした。



興津川をこえて上の写真の丘陵を登って行きます。



途中、地元の人による解説板があり、南北朝時代の観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が、この地で起きたことが書かれています。

足利尊氏の話は吉川英治「私本太平記」を昔読んだ記憶しかありませんが、南北朝時代の話は太平記のエピローグ的に描かれていて、大義なき戦いがゴチャゴチャ続いてあまり面白くありません。

観応の擾乱は尊氏が50歳手前で半ば引退していたときに、弟の足利直義が反乱を起こしたのでこれを鎮圧した闘いです。



本当にここ?と思いますが、お墓の中を通って行きます。


登山道のような道を上がる。



右手に海が広がります。案内板に鎌倉時代にたまたま網にかかったのが薩埵地蔵であったことが名前の由来だと書いてあります。「薩埵」とは仏教用語で生命を意味する。

日本海海岸のような切り立った断崖の地形は、1500万年前から北に動いていた伊豆の火山島が次々と衝突したために出来ました。



崖の上の道を歩いていると鹿に遭遇?と思いきや写真を後で調べるとニホンカモシカでした。カモシカって鹿じゃなくて牛の仲間なのですね。知らなかった。



海の向こうにうっすらと見えるのが伊豆半島です



しばらくの間こういう道が続くのがとても楽しい。

この崖の上に道が開かれたのは江戸時代初期のことで、それ以前は崖下を歩くしかなかったそうです。江戸時代に道が切り開かれた時は大名行列を通るので道幅は今より広かったと書かれています。

崖下は岩場に波が打ち寄せるので、波の合間を縫って駆け抜けねばならず「親知らず、子知らず」と言われたとあります。親子でも互いを気遣う余裕もないようなルートだったという意味です。

ですので、さきほどの足利尊氏の観応の擾乱は薩埵峠の戦いと言われていますが、当然その当時は道はなく、実際の戦いはここより北の由比宿方面だったとされています。



標高約100メートルの薩埵峠の展望台。上部にライブカメラが設置されています。カメラに向かってしきりに手を振りましたが、映らないような角度に設置されている。

海岸沿いに国道1号が、この真下のトンネルから海に突き出しながら東名高速道路が走っています。

崖下の陸地部分は江戸時代終わりの安政の大地震による隆起によるもので、それまでは海面から崖が切り立っていました。



向こうに見える山は8kmほど先にある蒲原の野田山で、その後ろには野田山の2倍くらいの高さの富士山が鎮座している...ハズ。



この先の由比宿の五十三次はここからの景色を描いています。



由比宿へむけて100メートル下って行きます。

ここまでの道、左手に多くのビワの実がなっていました。一つ一つ紙で包んでありました。



薩埵峠の東の登り口には10軒ほどの休み茶屋があって間宿になっていたと書いてある。



東海道名所図会の絵がとても良い。「西倉沢茶店」と書いてあるので左下のが多分、さっきの茶店の一つでしょう。かなり大規模な茶店です。右に描かれているのが「薩埵山」。雄大な富士山が海に浮かんだようにたたずんでおり、「東海道第一の風景なるべし」と書かれている通り!



小池邸。集落の年貢の取りまとめをされていた家です。漁港なので米ではなく水産物を納めていたのでしょう。

赤い敷物の上を飾りつけは数多くの桜エビを模しています。



とても気持ちの良い庭があります。この館の管理人の女性が大変親切な方で、庭の水琴窟の音を是非聞いてくださいと、柄杓で水をかけてくれました。



由比駅のそばでトイレを借りる。桜エビは日本では唯一駿河湾の由比港と大井川港でしか採れないそうです

日中は水深200~300mの深さにいて、夜になると水面20mに上がってくる習性があるので漁は夜間に行われる。



お土産に桜エビとしらすの干し物を買いました。



途中、国道の下を通り抜けて由比漁港に立ち寄りました。直販店があったので、ここでも桜エビのお土産を買う。

その後、怖い思いをしながら自動車専用道路のような国道を東に歩き、旧街道に合流できなさそうなので戻って、道なのかなんなのかわからない小川沿いから旧街道に這い上がりました。

国道って時々、歩行者が歩くべきではない箇所がありますが、標識で区別していないので感覚で見極めるしかない。



由比宿は公園と観光案内所になっています。由比宿は旅籠32軒の小規模な宿場町でしたが、手前の由比川の増水時は川留めで旅人たちはここに留まったとあります

由比川は普通サイズの川に見えましたが、当時は色々な川で川留めがあったのですね。今では当たり前のように橋が架かっていますが。



公園の奥に東海道広重美術館があります。観てみようと思っていたのですがリニューアル作業で来年2027年4月まで閉館とのこと。



美術館横にある本陣の離れ座敷「御幸亭」。茶室も備えていたとあるが、こういう本陣は今まで見たことがないように思う。



JR蒲原駅前の蒲原館というお店で少し早めのランチにします。背油のスープが濃厚だけどとても美味しい。



蒲原宿のある旧東海道は蒲原駅から少し山手の坂に入ります。これは良くある宿場町の防犯上のクランクでしょう。



蒲原宿の志田家住宅。米や醤油を扱う商家だった。漁港なので一般庶民は米は金銭で買っていたのでしょうか。蔀戸(しとみど)といわれる上下分割式の扉は神社仏閣以外の民家では珍しいとのこと。



大正時代に建てられた洋風建築の旧五十嵐歯科医院。ちなみに歯医者で麻酔を注射するようになったのも大正時代。それ以前は笑気ガスを吸わせて気分を高揚させていた。



西国街道を歩いていた時、岡山県のあたりでよく見かけたなまこ壁。ここの商家で和菓子の店だったとある。

このあたりに江戸時代の初めには将軍を接待する御殿があったと別の案内板にあったので、よく栄えた宿場町だったのでしょう。

蒲原宿は旅籠42軒の中規模の宿場町です。ここも富士川の川留めの際には多くの旅人が利用しました



これは広重の五十三次。いままでの宿場町で雪景色ってあったかな?特に静岡は温暖で雪のイメージはありませんが。



蒲原宿を過ぎて、標高70mほどの山沿いの道を北に進んでから富士川を越えます。

写真は東名高速を越える道ですが、今でも富士川付近は地盤が脆弱で地すべりなどのリスクがあるので富士川河口を迂回するルートになっています。



一里塚跡。ここも岩淵という間宿になっていたようです。名前からして厳しい地形だったことを思わせます。でも栗の粉餅が名物だったとか。



富士川橋が見えてきました。この時は前方に半分見えているのが富士山か!と思いましたが、後で調べると富士山はずっと左で、全く見えていませんでした。

ちなみにこの山は越前岳(1504m)で富士山のすぐ南東にあり裾野がつながっています。



富士川を渡ります。この左方向に富士山があるハズ...

新幹線はここより河口よりを通りますが、この富士川橋橋梁が富士山の絶景が見れる箇所です。筆者も何度か車内から撮影しました。

富士川は東海道の渡し舟があっただけでなく、さきほどの岩淵からずっと北の上流の甲府までの水運が江戸時代初めに京都の豪商により開削されました。

これで甲斐の年貢米がここへ運ばれ、逆に塩田の塩が甲斐へと運ばれたので、「下り米 上げ塩」と言われました。

富士川の川面を見るとダムのようなコンクリートが横切っています。調べると四ヶ郷頭首工(しかごうとうしゅこう)という名がついていて農業用水の取水設備だとのこと。



取水設備の端は荒々しい自然の景観が残されていますが、これは自然の生態系を保存するためだそうです。よく考えられている。

このゴツゴツした岩場は富士山の溶岩流です。



富士川と言えば平家物語の名場面。

甲斐の地で勢力を高めつつあった源氏を追討するために京都からやってきた平維盛率いる平家の大軍が、富士川から飛び立つ水鳥の大群の羽音を敵の奇襲だと勘違いして、一目散に逃げたという話。

東海道名所図会にも描かれています。

最強とうたわれた東国武士に対して、京都で栄華に身をゆだねてしまった平家の精神力の弱さを象徴するエピソードです。この時点で平家の滅亡は決まったようなものだったわけです。



江戸時代に富士川の堤防を安全に建設できるようにと祈願して建てられた水神社。


富士駅前の商店街はさびれ気味でした。



今日は23kmと短めだったので2時過ぎにはJR富士駅に到着、そこからローカル線で静岡駅で、新幹線ひかり号に乗り換えて帰路につきました。

今日も気温25度以下でしたが湿度が高くて、かなり水分を飲みました。次に富士駅に戻ってくるのは10月か11月か。

今度は絶対に富士山が見える快晴の日に来ることにします。箱根か小田原あたりまで歩けるかな。