2018年1月6日土曜日

天王山

豊臣秀吉と明智光秀が決戦をしたことから、決戦の代名詞として良く使われる天王山に行ってきました。

阪急大山崎で下車し、大山崎町歴史資料館で少し勉強してから天王山に上り北側に下りて阪急西山天王山駅までのルートです。


大山崎歴史資料館は、秀吉・光秀決戦についての資料はあまりなく、印象に薄い場所でした。

それでは天王山に登り始めます。


大山崎山荘美術館とは違う方向に進み階段を登ります。


宝積寺(ほうしゃくじ)、別名宝寺です。この場所は秀吉・光秀の戦の際に秀吉側の本陣となりました。




三重塔です。重要文化財。


宝寺を後に登っていきます。これが秀吉の道と言われるルート。



物資を運ぶモノレール。


展望台にでてきましたが、あいにく天気が悪く、良く見えません。


秀吉の道には、大きな陶板画がいくつか設置されています。なかなか美しいものです。


秀吉のシンボル、ひょうたんが絵馬のように飾ってあります。


別の展望台では、秀吉・光秀の陣容の説明がありました。これを見ると、天王山と淀川をはさんだ場所が主戦場になったことがわかります。


本能寺の変を知った秀吉は、その時、毛利と戦っていたのだが、すぐに和睦協定を結び、京都に引き返した。山崎の戦いは、本能寺の変のたった11日後。高松城から山崎までの距離を考えるとこれはすごい。光秀も、この迅速さは想定外だった。

さらに光秀の不運は、帝王信長を亡き者にした自分に皆が賛同してくれると思っていたにもかかわらず、親類の細井藤孝や筒井順慶ですら自分についてきてくれなかったことだ。

やはり光秀のキャラとして深い人間関係を構築するのが苦手だったようだし、その点、秀吉は人たらしと言われたほどの好かれキャラ。この辺が勝負の分かれ道だったのでしょうか。


秀吉の弟、秀長もいます。



十七烈士の墓を経由して頂上へ向かいます。


禁門の変で敗退した長州藩の烈士たちの墓。


酒解(さかとけ)神社。初めて酒を造ったといわれる酒解神(さかとけのかみ)と素戔嗚尊などが御本尊。




ふと見ると奥に何やら妖気漂う黄色い樹が。


あと一歩で頂上です。


山頂です。


山頂は広場になっていて、意外にとても広い。ベンチも多くあり、お弁当を食べる場所には事欠きません。曇りだったせいもありますが、晴れていてもそんなに景色は素晴らしくなさそうな感じがします。


お弁当を食べた後は、下り道です。


登り道と違って歴史銘板などはなく、普通の山道で、良く言えば、ちょっとした登山気分を味わえるルートになっています。


途中にあった休憩場所。きっちりとしたテーブルがあります。


昔懐かしい、パタパタとプレートが回転するタイプの時計。これでも出てきたときは針の時計と比べてものすごくクールに思えたものです。


整備された下り道が続きます。




このあたりは、竹の繁殖が止まらず、松などの植生を奪ってきているそうです。なので、そこらじゅうで、竹林ボランティアなど人の手により竹の伐採がされています。
でも成長のものすごくはやい竹を追っかけて伐採するのはかなり大変そう。しかも竹の茎は地下にあるので、表面だけ刈り取ってもまた生えてくる。温暖化の影響なのでしょうか。



小倉神社に到着しました。奈良時代から1300年も続く歴史ある神社です。


昔は神社で相撲が行われていたのですね。古い神社にはよく舞台がありますが、相撲やら能やら、御神楽(おかぐら)など、地域のエンターテイメントセンターの役割もあったのです。


手水鉢にある龍に落ちる陽があたり、美しい画になっています。


天王山ツアーは、大文字山くらいの労力で楽しめる初心者向けオススメコースでした。


2018年1月4日木曜日

三留野宿~大井宿

去年2017年の3月に大井宿から西に向けて中山道を歩き続けていますが、正月休みを使って、大井宿より東を歩いてみることにしました。

京都から新幹線で名古屋まで行き、名古屋から特急しなの号で、南木曽で下車。約2時間で到着。


南木曽駅。最初は「みなみきそ」と読むのかと思ったが、「なぎそ」と読みます。


三留野(みどの)宿は、南木曽駅の南側にあります。


11時頃に残雪の道を歩きはじめます。


D51が展示しています。


妻籠(つまご)宿まで3.1Kmです。


袖振りの松。木曽義仲が弓を射る際、松が邪魔だったので巴御前が袖を振って枝をなぎ倒したという逸話がある。
義仲は、平家の大軍団を北陸で破り、勢いに乗って都へ軍を進め、恐れをなした平家は自ら都を焼き払って西へ落ちた。その後都入りした義仲は、後白河法皇と折り合いが悪く、同じ源氏の頼朝が鎌倉から送り込んだ義経の軍に敗れて戦死してしまう。



義仲は、正妻の巴御前だけでなく、葵や山吹という女戦士を連れていて、彼女たちは愛人かつ用心棒だった。巴御前が最期の戦いで薙刀で敵武士をバッタバッタと切り捨てる様子は新平家物語第十巻で。


義仲の兜を左手にかかげた「かぶと観音」


真ん中の道を行くと妻籠宿への道だが、右の道を登り、妻籠城跡に寄り道する。


 特に何も残ってはいないのですが、自然の要塞だけあって景色がよい。この山は伊勢山かな?


北東を見ると、白銀の駒が岳が。


拡大してみました。


さて妻籠宿に到達。




江戸時代の蕎麦屋を思わせるいい感じのお店。





これは馬屋。


片土間という造り。当時の典型的な民家。中に入ると、日が差さないので、ものすごく寒い。よくこんなところに住んでいたものだと思う。


妻籠宿からしばらく歩くと、大妻籠という場所にまたいくつか宿がある。


馬頭観音。


ところどころ残雪がある。凍っていて、場所によっては極めて滑りやすくスケート靴でリンク上に立つぐらい滑り過ぎて全く前に行けないところもあった。妻籠宿、馬籠宿の間は、外国人観光客に非常に人気の場所で特に西欧人にすれ違った。みんな滑らないように必死で歩いていました。



男滝女滝と言われるところ。この滝は男のほうかな?



神居木(かもいぎ)といわれる樹齢300年のサワラの木がある。しかし、この写真はどうやら違う木のようですが、見た感じ、この木のほうが妖気を漂わせていました。



残雪の白いスクリーンに樹影が。


茶屋跡。江戸時代後期。


恵那山が良く見える場所に来ました。2000mを超える山です。


馬籠にやってきました。中山道で一番絵になる場所ではないでしょうか。




少し坂道になっているのが山中の街道らしくていいです。雄大な恵那山がどこからでも望まれるのは見事な借景です。この辺の写真が今回のベストショット集です。




思ったより近代的な造りの白木屋さん。今回は真冬というのもあり、馬籠宿沿いの宿はパスしたのですが、ここなら暖房効果も高そうです。


今日の宿は、花更紗というところです。馬籠から路線バスで少しいったところで、バスを待つ間、コーヒーで休憩。


こちらの宿は、クアハウスと併設になっています。宿泊者はクアハウスも無料で使えるのですが、人が多いのと連絡通路が吹きさらしなので、使ったのは一度だけ、主に宿館のB1の温泉をつかいました。湯は弱アルカリで、ぬめっとした感触です。


翌朝は8時に出発。宿はこんな感じ。路線バスにのって馬籠まで戻って続きを歩きます。


馬方は、朝8時に出発して中津や落合まで行き、帰ってくるのは11時。馬と籠を仕事の道具にしていたので、馬籠という名前になったとのこと。

だったら、妻籠はどこからきたのかな?


男女双体道祖神。仲の良い夫婦のようです。


江戸時代そのままの家屋を倉庫として使っているようです。


進行方向、高峰山が見えてきました。ふもとの町並みが中津川です。



宿として営業されている新茶屋。とても雰囲気が良さそうで泊まってみたく思います。ヒノキ風呂があるとのこと。



落合の石畳。一部の石畳はオリジナルです。歩くだけでとても気持ちの良い路。




落合川を渡ります。




落合宿に到達。旧家屋をおしゃれなショップにしています。こういうお店は京都には多いのですが、中山道では珍しい。




恵那山はやはり大きいですね。


善昌寺の門冠の松。樹齢450年だそうです。


このあたりの中山道の道は、このように黄色と白の石を埋め込んでいて、まるで黄金に輝いているような演出をされています。おかげで、街道から外れる心配がなく、とても歩きやすい。



道端の切り株の上にミニチュアの家を飾っています。ほほえましい。


中津川宿到達。


ちょうど、地域の消防団のパレードがされていました。


婦警さん達。


駅はこんな感じ。




酒屋さん。


中津川を渡ります。中津川宿から大井宿までは11kmの道のりなので中山道でも距離のある区画。


再び、双体道祖神。でもこれは男女なのかな?男同士に見えますが。



ここは中山道と遠州秋葉道の分岐点です。秋葉道は、浜松の秋葉山まで続くこれはこれで長い街道で、塩街道としての役割もあったようです。



まぶしいくらいに白く輝くのは御嶽山。さすがの存在感です。



御嶽山が展望できる小さな公園。大井宿に近づいてきました。



恵那の町にやってきました。



大井宿に着きました。去年2017年3月5日に中山道歩きをスタートしたところです。ちょっと感動。



無事に恵那駅に到着。今回は、馬籠宿から大井宿までの距離が長かったのですが、三留野宿から馬籠宿のほうが、登りで雪と氷ではるかにしんどかったです。やはり距離だけでなく高度や勾配でずいぶんちがうものですね。