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2024年10月21日月曜日

【滋賀】飯道山

 10月も後半になり涼しくはなったというもののまだ半袖でちょうどいい気候です。

今回も滋賀の歴史探訪登山で甲賀の飯道山(はんどうさん)(664m)に登ります。

飯道山は、琵琶湖の湖南地方で以前に登った金勝(こんぜ)山や先日登った太神(たなかみ)山と同様に巨大カルデラによって形成された花崗岩質の山で、そのむき出しの巨岩群が修験者を惹きつけてきました


こちらが全体のルートです。往復で9km、累積標高400m、行動時間4時間少しといった軽登山でした。


駐車場ですが、飯道山に一番近いのは飯道神社の駐車場で10台くらいのスペースがあります。ですが、今回は付近の散策もかねて隼人川みずべ公園駐車場に停めました。新名神の信楽ICを出たすぐのところにあり、無料でとても広い駐車場です。

登山口まで0.6kmの気持ちの良い集落の道を歩きます。



ちょうど馬門川(うまかどがわ)沿いの地区が、かつての紫香楽宮(しがらきのみや)があったところです。といっても私も知らなかったのですが、奈良時代に大仏を建立した聖武天皇が造営した宮殿でした。

仏教に帰依していた聖武天皇は唐の洛陽をまねて龍門石窟の大仏を造るためにこの地に遷都したと言いますが、周りの反対やら天災やらで、一年弱でやむなく中止して平城京へと戻りました。

つまり、本当は奈良の大仏はこの地に出来るはずだったというわけです。しかも、ここでも花崗岩がキーになっていたのですね。

(飯道神社駐車場にあった案内版の拡大図)


これが聖武天皇が真似したかったという洛陽に作られた大仏。高さ17メートルで奈良の大仏の18メートルとほぼ同じ。どちらも毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)です。

(Wikipediaより)


この機会に明治維新までの遷都の地を調べて地図にプロットしてみました。こうしてみると飛鳥時代と奈良時代の遷都が忙しいのがわかります。

特に聖武天皇の時代(724年-749年)は、平城京➡恭仁(くに)京➡紫香楽宮難波京➡平城京と、4回も引っ越しをしていることになります

今ちょうど高橋克彦さんの「風の陣」を読んでいますが、琵琶湖北に保良宮(ほらのみや)というのが出てきました。でも保良宮は遷都したわけではないので下図には出ていません。こういう宮は他にもありそうです。

おそらく各地とも最初から朝廷の拠点となっていて天皇が行幸して過ごしたがどうかだけの違いだったような気がします。紫香楽宮について言えば、奈良時代にこのあたりから大量の木材を伐採して平城京へと運んで行ったので交通ルートを含めたインフラは敷かれていたんじゃないかと思います。

ちなみに「~宮」と「~京」の違いは単純に天皇がいた本拠地(~宮)か、都市としての機能も併せ持っていた(~京)かどうかで変わるそうです。



駐車場から15分ほど歩くと飯道神社の鳥居にでてくるので参道に入ります。



ゴルフ場の横の参道を歩いていると飯道山の山頂が見えました。頂上に切れ込みがあるのでわかりやすい。



参道横のゴルフ場(オレンジシガカントリーコース)。



飯道神社の駐車場に出てきました。鳥居の周りだけ少し紅葉が始まっています。まだまだ、全く秋らしくないのですが。



駐車場は10台くらいは停められそうです。奥にあるのはトイレではありませんでした。



はじめに掲載した紫香楽宮の案内版です。



駐車場から先が山道になっています。今回も歴史ガイドの奥さんと一緒です。



道中のお地蔵さん。「地蔵宿」と書いてあります。一休みして一礼しましょうということでしょうか。



杉の説明版に描いてある修験者の少年が凛々しい。



飯道神社の鳥居が出てきましたが、右手の石垣より上の一帯がかつて飯道寺があったところです。修験道の拠点らしく、奈良時代の役行者の開山とされていますが、明治4年の廃仏毀釈の際に廃絶されてしまいました

廃仏毀釈とは言え完全に姿を消してしまう寺は少ないように思えます。明治政府は特に修験道には厳しかった(修験道禁止令)からかも知れません。

それにしては修験道の総本山の金峯山寺が残ったのは何故か?それは金峯山寺はいったん神社へと転身したからで、こちらの飯道寺はすでに隣に神社があったので転身できなかったのでしょうか?



神社へ向かう道には最近作られたように見えるトイレもあります。



トイレの先にあった飯道山の惣絵図(全体図)。江戸時代以前のものでしょうか、左上が飯道神社で、左下が飯道寺のエリアになっていて数多くの坊院が描かれているのがわかります。明らかに寺院のほうが神社よりも大きかったのですね。



本殿手前に行場ルートの分岐があります。7箇所ほどの難所があるようで、巨岩や奇岩に登ったり、隙間を抜けたりするようになっています。

修験者だけでなく、戦国時代には甲賀忍者もここで修行したとか。



飯道神社の本殿に出てきました。重要文化財に指定されています。



昭和51年に解体修理に行われた後、7年程前に檜皮葺屋根の葺き替えや外部塗装の塗りなおしが行われたようで、輝くばかりの朱色が美しい。



葺き替えされた檜皮葺の屋根も見事です。これだけきちんと仕事ができる腕のいい職人さんがまだおられるのは貴重かと思います。



本殿裏から行場の一つである東の覗きに出てきました。大峰山のように足を掴まれたまま逆さにぶら下がる修行でしょうか。



東の覗きからの景色。



巨岩を下から見る。いつかは転がり落ちるのでしょうね。



飯道神社を後にして飯道山の頂上へと向かいます。



山頂に到着。隼人川みずべ公園駐車場から2時間弱ほどです。飯道神社の駐車場からだと1時間半くらいでした。



頂上からの景色はとても良く、三上山が一望できます。



飯道山頂上から北西の阿星山(あぼしやま)と進む尾根道を鹿深(かふか)奥駈道と言うようです。15kmくらいなので大峰奥駈道と比べれば随分と短い奥駈道です。



木食上人のお墓(五輪塔)。木食応其(もくじきおうご)と言われる安土桃山時代の僧でこの地で亡くなったそうです。



今回の登山ルートのそこかしこに置かれていた還暦初老記念の石碑。これは平成11年ですが、昭和末から平成末までいくつかの石碑を見ました。平成11年に還暦と言えば現在85歳。まだ元気でおられるのでしょうか?

ちなみに記念碑の名前に黄瀬さんがとても多いのに気づきました。あまり聞かない名前なので調べると全国に1200人しかいない苗字で甲賀郡黄瀬村がルーツだそうです。

隼人川みずべ公園駐車場の交差点の名前が黄瀬だったので、ちょうどそのあたりが黄瀬村だったのでしょう。



再び飯道神社駐車場の紅葉を眺めて、隼人川みずべ公園駐車場に戻りました。




2020年2月2日日曜日

長谷寺と阿部文珠院

長谷寺は、初瀬街道(はせかいどう)にある真言宗のお寺です。

初瀬街道は、大阪と伊勢を結ぶ街道で、同様に大阪-伊勢間の街道は、伊賀街道が北に、伊勢本街道が南にあります。

三重県のホームページに街道がまとめた図がありました。わかりやすい。



長谷寺がある初瀬山は、三輪山よりも奥まった場所にあります。


近鉄大阪線の長谷寺駅から歩いて20分ほど。ちなみに、先週三峰山(みうねやま)に登った時に、その次の駅の榛原駅に来ています。


駅を降りると商店街の入り口。今は、世界中がコロナウィルス騒ぎになっていて、インバウンドの観光客はほぼゼロ。


旧街道沿いだけあって、歴史を感じさせる家屋が並びます。


温泉も出るのですね。


昔から何も変わらないようなお店。


歩くのも楽しい商店街。


菅原道真の先祖が初瀬出身ということで、與喜天満という神社が途中にあります。


売店で出来立てアツアツの草餅をかじりながら歩くと長谷寺に到着しました。


こちらが境内地図。かなり広く、じっくりと一周すると2時間くらいかかります。

創建は奈良時代にまでさかのぼります。


仁王門。平安時代のオリジナルは焼失して、明治に再建されたもの。


仁王門のすぐ後ろには長い登廊(のぼりろう)が続きます。


屋根から吊り下げてある灯篭には、名前が書いてあります。どうやら歌舞伎関連の名士のような。


傾斜はそんなに強くないのでしんどくはない。



登廊の側には、菰をかけて寒さから守られた牡丹の花が咲いています。
初瀬山は昔から牡丹で有名なそうです。


常夜灯がとても多く並んでいます。ここまでたくさん建てなくてもいいんじゃないかと思います。昔は蝋燭を立てるのも大変だったのではないでしょうか。


本堂にたどり着きました。左の建物は鐘楼です。


角度を変えてもう一枚。写真を撮り忘れましたが、登廊側の前面は懸造りになっています。安土桃山時代に建てられたものを江戸時代初期に建て替えたものです。


賓頭盧(びんずる)。「おびんずるさん」と親しまれている仏陀の弟子の一人。
病を治す神通力を持っていて、あまりにもその力を使いすぎるので仏陀から怒られたというエピソードがあります。

お堂の前に置かれて、お参りする人は悪いところを撫でて直してもらうようになっています。


清水寺のように懸造りの上には大舞台があって、周りを囲む山々を眺めることができる。


この本堂の名前、大悲閣。


長谷寺のホームページより。ご本尊の十一面観音像。右手に錫杖(しゃくじょう)をもった観音像は珍しいらしく、長谷寺式というスタイルだそう。


本堂を抜けて登っていきます。振り返ると初瀬山を背にした本堂が。
よい景色です。


本長谷寺。大海人皇子こと天武天皇の勅願で創建されたという古い歴史から、「本」長谷寺と言われています。お堂はとても小さく、中はこのようになっています。ガラス越しで撮影禁止ではありません。

中央にあるのが、銅板法華説相図(どうばん ほっけせっそうず)というものです。ここにあるのはレプリカで、本物は奈良国立博物館にあるそうです。



長谷寺ホームページ載っている本物の写真。真ん中にあるのが毘沙門天の宝塔で、初瀬川に流れ着いたのをお祀りするために建てたのが長谷寺ということです。


本長谷寺のすぐ横にある五重塔。近くで見るとそんなに技巧を感じないのですが、やはり昭和になって建てられたものだそうです。


さらに西の奥の院に向けて歩いてきます。



坂に沿って数多くのお墓があります。整然と並ばず、バラバラになっているのが古さを感じさせますが、自分の家の墓がどこにあるのか忘れそうです。


奥の院の陀羅尼堂。陀羅尼(だらに)とはお経であり呪文であるようなもの。何を言っているのかわからない、ということでしょうね。


暖冬のせいか、すでに梅の花がちょこちょこと咲いています。


こちらはお坊さんたちの本坊。


本坊からミニバンが出ていきました。


茶室があります。


長谷寺観光を終えて、ランチににゅうめんセットを食べた帰り道に、文化財の家屋のカフェを見つけて、いい感じだったので入りました。


銅鑼で主人を呼び出します。



こちらがお庭。実は、古い家屋の中にも整然と美的感覚のある部屋を期待していたのですが、普通の田舎のお座敷でした。でもご主人が淹れてくれたコーヒーは美味しかったです。コロナウィルスのせいで、お客が来ないと嘆いていました。


長谷寺お参りのついでといってはなんですが、近鉄線の桜井駅で下車して、安倍文殊院を訪ねます。桜井駅からバスで7分。

こちらは駐車場にあった境内案内図。


本堂です。


ここの見どころは国宝、渡海文殊群像(とかいもんじゅぐんぞう)です。これだけで、十分見応えがあります(ホームページより)
文字通り、雲海を渡り説法を広めて旅をしている様子を現しています。

巨大な獅子の上に乗っているのが、文殊菩薩で、右手に魔を封じる剣を、左手に慈悲・慈愛をあらわす蓮の花を持っています。快慶の作。


善財童子(ぜんざいどうじ)。「はい、何でございましょうか?」と振り返る姿が、ユニークです。53人の師から教えを受けたそうです。多すぎるような気もしますが。


こちらは維摩居士(ゆいまこじ)。釈迦の在家弟子で富豪だったそう。


この維摩居士、逸話があり、彼が病気になったので、釈迦が弟子を見舞いに行かせると、説法論議となり、弟子がやり込められてしまい、誰も行きたがらなくなったので、釈迦は最後の切り札の文殊菩薩を見舞いに行かせたそう。

見舞いに来てくれた人に言いがかりをつけるとは、その時点で求道師としては失格なのでは?

維摩居士の考え方は、敢えて仏道に背く生き方をしつつ、それに囚われないようにすることが真の悟りの道だということ。なんだか富豪の爺さんが都合の良いように言ってるように聞こえますが。。。



こちら文殊院では入場券に抹茶が付いてきます。一服。


金閣浮御堂。ここは別料金。


十一面観音像。


こちら展望台からの景色です。今年はネズミ年。文殊院は学問の神なので、合格祈願が。


右手に耳成山、左には香久山が見えます。


こちら晴明堂。大化の改新の左大臣であった安倍氏が氏寺として建立したのが文殊院の始まりで、かの有名な平安時代の陰陽師、安倍晴明もここで陰陽道の修行をしたということでお堂が建てられました。

安倍晋三も安倍氏の系列で石灯籠を寄進したそうです。