なんだか不格好ですが、がんばって冬越しした白菜です。これでも外側の葉っぱを何枚かむくと新鮮でおいしいですが、もう収穫しないといけません。このコがラスト白菜ですが、その前に収穫したのがあるので、毎日白菜ばかり食べています。
近くの畑でも、こんな姿の白菜がまだちらほら見られます。ウチのように必死で白菜を食べているのかも知れません。
さて、今回は登山はしないのですが、近江八景の一つ、浮御堂のある堅田を訪ねます。冷たい空気のなかの晴天だったのでとても綺麗な写真が撮れました。
楽器の「琵琶」は水滴のような形をしています。琵琶湖に合わせて回転させるとこんな感じで、堅田は胴体が細くなる部分に位置します。
地図で見ると琵琶湖大橋の近くです。琵琶湖大橋は長いイメージがありますが、近江大橋の長さとほとんど同じです。この琵琶湖の通行の最狭所であることがこの地は要所にせしめているのです。
浮御堂は平安時代後期の禅寺です。
空気が澄んでいるので良い写真が撮れます。浮御堂のベストショット。ちょっと奥さんが写りこんでいますが。
このあたりでは名の通っていそうな医院。レトロですがきれいにメンテされています。
三上山を背景にプカプカと浮かぶ鴨達。
Goolgeアースを見ていて、琵琶湖から宇治川へ続く水路はものすごく曲がりくねっていることに、今更ながら気づきました。
音羽山、醍醐山、喜撰山などがある山地が間にあるので、琵琶湖から宇治川へ水が流れているというのがにわかに信じられませんが、調べてみると、琵琶湖水面の標高が84mで、天ヶ瀬ダムの満水時水面が73mなので、ほぼ10mしかない標高差でこの長距離の水流が発生しているということになります。
琵琶湖から水が出ていく唯一の自然の流れが、この細長くて緩いうねうねというのが自然が作った不思議のように思います。
滋賀と京都の境目で瀬田川から宇治川へ名前が変わります。
琵琶湖の不思議はさておき、さっそく浮御堂を訪ねます。近くに駐車場があって便利ですが、「参拝以外の駐車は3万円いただきます」とかなり厳しい。
観音堂の天井画です。マス目ひとつひとつに違う花が描かれています。もっとたくさん描かれているのですが、6つだけピックアップ。
亀の甲羅のような松の樹皮がうねっています。
室戸台風で倒壊した後、現在のお堂は昭和12に再建されました。
内部には千体仏があります。数多くの仏像がありますが、千体もあるのかなぁ。
琵琶湖の東側に見える近江富士(三上山)。2年前に登りました。
琵琶湖大橋が近くに見えます。
これが琵琶湖八景の一つ、歌川広重作の「落雁」。
雁はカモ科なので鴨に近いのですが、鴨よりもちょっと大きくて、V字編隊で飛びます。V字で飛んだ方が気流の流れができて全体で航続距離を伸ばせるからだそうです。
広重の絵を見ると、浮御堂からV字編隊は上を向いているので、落雁ではないですね。広重さん、ちょっとおかしい?
吉川英治の新平家物語を読んだときに、堅田の衆が源義経をかくまった話で、多くの船を持ち、さながら私設の海軍のように描かれていたのを覚えていますが、なかば公認のように琵琶湖全体を行きかう船に通行料を徴収していたそうです。
堅田資料館の説明によると、堅田の衆は、当時「コゾク」と呼ばれていて吉川英治は、「湖賊」と書いていたところ、「湖族」と言い直したそうです。
ところが、室町時代に将軍邸の建築用の木材を運搬している船に対して、堅田の湖族は、通行料を払わないという理由で、幕府の船ごと略奪するという事件がおき、激怒した足利義政の要請により比叡山延暦寺の僧兵が攻めてきて堅田の湖族の間で戦争がおきました(堅田大責め)。
その後も堅田の湖族はあの織田信長も手こずらせ、江戸時代後期までずっと特権的地位を維持したというから、歴史上大きな存在だったと言えます。
この伊豆神社は、堅田地区の総鎮守で、浮御堂よりも歴史が古いそうです。当時は、一般人(全人衆)と侍たち(殿原衆)がここに集まり合議制で地域の運営を行っていたということです。一般人といってもめちゃくちゃ荒っぽい人たちだったと思いますが。
白梅が咲き始めました。
伊豆神社の周りにはかなりしっかりした堀になっています。
案内板にあった江戸時代を再現した地図と今の衛星写真と比較してみると、伊豆神社の周りは運河のようになっているのがわかります。
こちらは、光徳寺の境内にあったなにやら恐ろしい銅像三体。
説明文によると浄土真宗の蓮如上人が祖師(親鸞?)の御影を預けていた三井寺に対して返却を願い出ると、生首二つ提供するなら返すと返事をした。
それを聞いた堅田の漁師、源右衛門は蓮如上人を強く信心しており、自ら息子の首を刎ねて、それを持って三井寺を訪ね、自分の首も刎ねたあと、蓮如上人の依頼に応えるように願い出た、という話。三井寺はそれに応えたという。
後ろに立っているのが蓮如上人で、首を刎ねられそうになっているのが源右衛門の息子で、源右衛門の頭蓋骨は今も神社にあるそうです。
当時は、浄土真宗の本願寺は力が弱く、延暦寺や三井寺から強い弾圧を受けていたそうです。蓮如上人が親鸞の御影の返却を依頼したのは、新たに山科本願寺を建立したから、そこにお祀りしたかったのです。でも、山科本願寺も一向一揆で建立してから50年で焼け落ちてしまいます。
次に訪ねるのが祥瑞寺(しょうずいじ)。室町時代のお寺です。このお寺は一休さん(一休宗純 そうじゅん)が青春時代に修行をしたことで知られています。この頃、一休さんは師が亡くなってしまったことに悲観し、入水自殺を試みたそうです。
何もにも動じないイメージの一休さんですが、青年のころは純な精神の持ち主だったのでしょうか。
残念ながらお庭の中にははいれないので隙間からレンズをいれて撮影。
ここで詠んだ芭蕉の句が良い。特に今日はすっきりした朝なので気分がシンクロします。
「朝茶のむ 僧静かなり 菊の花」
先日鴨川で見つけた頭が茶色のヒドリガモもいました。お気楽そうですが、チベットやカムチャッカから飛んでくるんです、この方たち、実は、ものすごいスタミナと根性の持ち主。
ペコリーノという名前のイタリアンレストランに行きます。外から見るとイタリアンに見えませんが、住宅を改修したようです。
いい感じのベンチ。
民家の前に咲いていた水仙。
満開です。冬至梅という種類かな。
二千円弱のランチセットですが、とても丁寧に料理されていて味もよいです。平日なのに満席でした。地元野菜も美味しかった。
最後に居初氏(いそめし)庭園を訪ねます。こちらは予約制で、奥さんが事前にアポを取ってくれています。
堅田は下鴨神社の御厨(みくりや)と言われていますが、御厨とは物品を提供する機能のことで、居初氏はその中で、供御人(くごにん)の役割を担っており、御厨の中心的存在であったと同時に独占販売権を有していたので堅田衆の権力の中心だったと思われます。
そういった背景から、居初氏は堅田衆のなかでも朝廷とのつながりを持つ文化人でもあり、ここの庭園は千利休の直弟子によるものだそうです。
約束の時間がきたので、呼び鈴をならすと、子供の頃はこの家に蚊帳をつって住んでいたとおっしゃる女性が案内してくれました。
かやぶき屋根の茶室の名前は「天然図画(ずえ)亭」。
お座敷から眺める庭が絵画的です。松の下枝は普通は陽が当たらなくなって枯れるのですが、職人の手で繁茂されています。
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