新幹線で博多まで二時間半、ジェットフォイルで二時間で対馬に到着です。
福岡に到着。東京、大阪、名古屋に次ぐ大都市圏だけあります。
ジェットフォイルの乗船まで少し時間があるので、日本最初の禅寺、聖福寺(しょうふくじ)を訪ねます。
臨済宗の開祖である栄西が宋から帰国して初めて建立しました。後鳥羽天皇から扶桑最初禅窟(ふようさいしょぜんくつ)の号を受けているので正真正銘の最初の禅寺です。
「扶桑」というのは当時中国が日本のことを呼ぶ名で、日本も自国のことを呼んでいたそうです。
今回の旅行で度々見かけることになるヒトツバタゴ。日本では対馬と木曽川、愛知周辺で見られる種類だそう。短冊のような白い花が特徴的ですが、珍しいので絶滅危惧II種みたいです。
巨木から吹いた新緑が美しい。
禅寺だけあり、凛とした空気があります。
仏殿。丈六三世仏として、釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三体。それぞれ過去、現在、未来を表す。丈六とは一丈六尺という仏の身長を意味しており、4.8mくらいになる。
聖福寺から郷ノ浦フェリーターミナルまでタクシーで移動。一時間以上時間が余ったのですぐそばにあるスーパー銭湯であったまります。
これがジェットフォイルのヴィーナス号。今日は波もなくとてもスムーズな乗り心地です。飛行機と同様シートベルト着用なのでデッキに出ることができないのが残念。
BOEING(ボーイング)と書いてあったのでボーイングのジェットエンジンを搭載しているのでしょう。ジェットフォイルはガスタービンで海水を噴出し、走行中は船体は海上に浮かんでいるので、道理で乗り心地が良いはずです。
対馬の厳原(いずはら)到着は19時過ぎ。宿は宿坊西山寺ですが夕食が付いていないので、歩いて7分ほどの居酒屋だいぜんに行きました。
刺身盛り合わせです。特にブリが美味でした。切り身が厚いので、中トロの脂で満腹感が出てしまいました。料理の味付けや醤油も甘めの九州風です。
朝は座禅の修行が体験できるのですが、6時前開始ということで断念。
朝食は精進料理風ですが、魚の切り身が付いてきます。
宿坊西山寺の玄関口に咲いているツツジ。
朝から雨がパラパラと降る中、厳原港のそばのトヨタレンタカーで車を借りて、対馬観光のスタートです。
観光ルートは国道382号線沿いに北上し、帰りは万関橋から西に周って小茂田浜神社に寄ってから厳原に戻ります。
和多都美神社です。厳島神社のような鳥居が特徴です。祭神はニニギとコノハナノサクヤヒメの間の子供、山幸彦(ヤマサチヒコ)と、山幸彦が竜宮城で出会って結婚する豊玉姫(トヨタマヒメ)の二柱です。
山幸彦は兄の海幸彦から借りた大切な釣り針を無くしてしまい、それを探す途中で竜宮城で豊玉姫と出会ったというストーリーです。
豊玉姫の父が海神(ワタツミ)で、この神社の名前となっています。
旅行の間ずっと、司馬遼太郎の「街道を行く13 壱岐・対馬の道」を読んでいましたが、対馬と朝鮮、日本の歴史がわかりやすく書かれており、それを読むと日本の神話が朝鮮→対馬→九州→大和へと流れていったことがよく理解できます。
写真には写っていませんが、対馬は北の比田勝港から釜山の便が一日に何本もあり、大型観光バスで多くの韓国人の観光客がやってきます。気軽に行ける日本旅行ということなのでしょう。嫁さんが韓国のおじいさんからしきりに韓国語で話しかけられていました。
満潮時はこの社殿近くまで潮が押し寄せることで、竜宮城を連想させるそうです。
次に海神神社(かいじんじんじゃ)に向かいます。街道を行くでは、海神神社もワタツミ神社と読んでいました。
海神神社の前に広がる広場にあった案内版です。対馬は佐渡島、奄美大島に続く3番目に大きな国境の島で、切り立った山々からなる特徴的な景観は氷河期終了後の海面上昇により形作られたものであることがわかります。
海のそばにたたずむ石垣の小屋は藻小屋(もごや)と呼ばれる海藻を蓄えるための小屋。
これはヤクマ塔と言われ、大漁や無病息災を祈願して行われるヤクマ祭りの際に石積みされるそうです。ゴミだらけであまりよい景観ではないですが、平たい石が多く、しかもいろんな色や模様をしているのが特徴的です。
見事なケヤキの木。
対馬の多くは堆積岩からなるようですが、火山岩もあります。
長い階段の登りを何度か繰り返します。
ようやく、と思ったらまた階段です。
社殿にたどり着きました。明治時代までは八幡宮と呼ばれていたそうです。
ヒトツバタゴが咲きほこっています。
ツツジも美しい。
この新羅仏は2012年に韓国人によって盗まれ、韓国内にて捕らえられたのですが、倭寇によって略奪したものだから返還する必要なし、という主張もありすぐに返還されなかったのですが、2015年に海神神社を正当な所有者として返されました。
そういう事件もあり一般公開は禁止されてしまったのかもしれません。
倭寇による略奪はあったのでしょうが、李王朝時代の朝鮮では廃仏崇儒として数多くの仏像が破壊されたので、それに乗じて日本に持ち込まれた仏像も多く、そういった仏像は燃やされた跡があるそうです。
一番のお目当てはツシマヤマネコだったのですが、唯一飼われている福馬くんが体調不良のため、会うことはかないませんでした。15歳ということで、もうお年なのです。
やさしそうなオジサンが、一般にいる猫(イエネコ)とツシマヤマネコの違いを説明してくれました。尻尾が太くて、目がぱっちりしていて、耳が丸くて離れているのが特徴。豹の子供のようです。
この写真は福馬くん。
展示もツシマヤマネコが中心です。
じゃれ合う子供たちを優しく見守るお母さん。
なんと京都市動物園に4頭も飼育されていることがわかりました。京都に帰ったら是非見に行かないと。
野生生物保護センターから引き返しますが、途中の万関橋に立ち寄ります。
ちょうど船が橋の下を通りがかりました。日露戦争に備えて水雷艇が通れるように開削し、その上に架けられた橋が万関橋です。対馬は、この橋の上部を上島、下を下島と分けられています。
橋の両側を見ると人の手によって削られたことがわかります。
対馬観光最後の訪問地は小茂田浜。ここは元寇の古戦場です。元寇は1274年と1281年の二回にわたって日本に攻めてきましたが、1274年、蒙古軍は3万、軍船900隻、それに対する守護代宗助国をリーダーとする対馬の兵力はたったの80余騎。10月6日午前4時に始まった戦いは午前9時には終わり、対馬兵は全滅。
こちらの神社は決死の戦いを挑んだ勇気ある宋家の武士たちを祀っています。
日露戦争時の砲弾もさりげなく置いてありました。
ここにもヒトツバタゴが。
宿坊西山寺に戻ってきました。
西山寺の庭には海神神社の前の浜にあった石が積まれていました。
小さな家族風呂があるので入りましたが、まだお湯を入れたばかりでメチャクチャに熱く、足だけしか浸かれませんでした。
優しそうなお釈迦様のレリーフ。
今日の夕食は居酒屋和楽。昨日のだいぜんが、地元衆が集まる大衆酒場だったのに対して、和楽は割烹といった感じでこちらの方がよかった。値段は両方とも同じくらいで、両方ともカードは不可。
これはヒラスという魚で、アジ科のヒラマサの地方名だそうです。まったく臭みがなく、コリコリしていて本当に美味しい。京都の居酒屋で食べる魚とは違います。
これはアコウという魚。冬のフグ、夏のアコウと言われるらしいですが、知りませんでした。これも驚くほどの美味しさ。魚だけ食べに対馬に来てもよいくらい。
二泊目の朝、宿坊西山寺の観音様にお別れの挨拶をします。
対馬の厳原港からフェリーに乗ります。二等のゴロ寝ですが、これが意外に居心地がよい。船で知らない人が大勢でゴロ寝をするというのは日本独特の風景でしょう。
ジェットフォイルではデッキに出られなかったのですが、フェリーだと当然OKです。やはりデッキに出ないと船に乗った気分が出ません。船はぐるりと回頭して壱岐に向かいます。
フェリーから対馬の北に続く山々を眺めます。海で削られたあらあらしい土地が原始の地球のロマンを思い起こさせます。
約2時間で壱岐に到着。港のそばにはAEONもあります。壱岐も対馬も人口は約3万人ですが、対馬はその地形から島民の多くは漁業、それに対して壱岐は平地が多く半分が農業を営んでいます。「街道を行く」に書いてありましたが、農業を主とする壱岐では協調性が尊ばれる一方、漁業を主とする対馬では思い切りの良さが潔いとされるので、壱岐の人たちは対馬の人たちのことを「お金を稼いでもバーで浪費してしまう」というし、逆に対馬の人たちは壱岐の人たちを「ずるこしい」と言っていました。アリとキリギリスの話のようです。
そもそも漁師は瞬発力が大事なのでいちいち丁寧な言葉など使ってられないので自然言葉は荒っぽくなるものらしいです。大阪の泉佐野など泉州弁では敬語というものが存在せず、明治の小学校の教科書で初めて敬語を習ったそうです。
司馬遼太郎さんの仮説によると、技術に秀でていた関西の漁師が対馬に移住して漁業で成功させたので、対馬の地名や体格が関西に似ているそうです。一方朝鮮で追いやられた百済人は農業ができない対馬を通りこして京都や奈良に渡ったのでは、と書いてありました。
壱岐の芦辺港では今日の旅館の網元の運転手さんが待っていてくれていました。
こちらが今回周った観光地点です。対馬と違って釜山からの直行便もなく、ほとんど韓国人観光客の姿はここにはありません。
いったん旅館網元に荷物を預けて車を借りたら、うにめしで有名な「はらほげ食堂」に行きます。ここは人気グルメスポットで、ほとんどの席が予約されていました。我々はお昼前に着いたのがラッキーだったのか、ちょうど一席空いたところに座ることができ、待望のうに丼をいただきました。ちなみに名物うにめしはごはんとうにが混ぜてあるのですが、やはり別々になっている方がこのように写真映えします。値段は2100円くらいだったかな?うにの量はもうちょっと多くても良かったかなと思います。
胸のところにまるい穴があるので「はらほげ」と言われている。満潮になると頭上までかくれてしまうため供物を穴に入れたそうです。
頭がほとんどなくなってしまっているので後ろ姿に見えますが、前掛けをしているこちら側が前面です。漁に出かける船にのる大切な人が無事に帰るようにお祈りしたのではないでしょうか?
次に左京鼻に行きました。雨ごいをした左京和尚の名前が由来だそうです。
縦に割れた形は柱状節理、つまり地中から出てきたマグマが冷えて固まる際にひび割れたもの。東尋坊や三段壁のようにひび割れた断崖絶壁に荒々しく波が打ち寄せる場所はドラマ、殺人事件の舞台にピッタリです。
半分フザケて絶壁まで行ってみましたが、恐ろしさのあまり震えてしまいました。
次に訪れたのは小島神社。干潮時にのみ参道が現れます。背面に階段があり社殿が上にあることに気がつきませんでした。
もうちょっと裏にまで周れば神社に登る階段に気がついたかも知れませんが、誰もここまで歩いてくる観光客はいませんでした。
泥の中に岩石がめり込んだ状態で固まっています。
恋愛成就のご利益があるそうで、神社にしては大変珍しく若い女の子が多かったです。
江戸時代から神が宿る島として崇められていたと書いてあります。古墳のような何か超自然的なものを感じます。
下の写真は烽火(のろし)の煙台跡。白村江の戦いで敗れた天智天皇の朝廷は、新羅や唐が日本に攻めてくることを一番恐れ、烽火のシステムを造りました。見張り番としての防人(さきもり)たちは、使の船であれば火を一か所、賊船ならば二火を、賊船二百隻以上ならば三火をあげるというきまりになっており、烽火の連鎖は大和までつながっていたと言います。
東路軍は実際はモンゴル兵だけでなく、脅かされて兵に加わった漢人や高麗人などが混じっていて決して士気が高くなかったのではないかと思われます。
島の中央あたりに位置する月読神社に来ました。京都の松尾大社の摂社である月読神社の勧請元となった神社であり、当ブログのタイトルなわけでかなり期待値は高かったのですが、意外に非常に質素な社でした。
Wikipediaによると壱岐の月読神社が日本最古の月読神社であることは確かですが、この神社が果たして本当にそうなのかははっきりしないそうです。月の満ち欠けを司どり、安らぎと静けさの神を祀る場所としては違うような気もします。
月読神社は卜占(ぼくせん)とも深い関係があり、壱岐の卜占を専門とする卜部(わたべ)氏の能力は重宝され、はるばる京都まで呼び寄せられたそうです。卜占は初めは鹿の骨を使っていたのが、亀甲に取って替えられたそうですが、どこが違うのでしょうか?亀甲のほうがより当たったということなのでしょうが、不思議ですね。
そうは言っても月読命(ツクヨミノミコト)は天照大神の弟で、須佐之男命の兄だけあって人気は高く、この狭い社に大型バスでツアー客がどんどん登ってきました。
ちょっとガッカリだった月読神社を後にして次は猿岩。
ここは、駐車場で初めて見た瞬間にビックリでした。全国いろいろ猿岩と称するモノを見てきましたが、ここまで猿に似ている岩は見たことがありません。
こちらはアップ画像ですが、落ちくぼんだ目、突き出た鼻と鼻の穴、とがった頭頂。誰かが彫ったんじゃないかと疑ってしまいます。
この猿岩のそばにあったのが黒崎砲台跡。第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議で日本の艦船の数が減らされ、廃棄されることとなった戦艦土佐の主砲を流用したとのことですが、一度も敵の艦船めがけて発射されたことはなかったそうです。
左が黒崎砲台の弾丸で41cm、右は戦艦大和の主砲で46cm。黒崎砲台の射程距離は35Km、大和は42Km。
大阪-京都間くらいの距離があり、いくら敵の戦艦が大きいとはいえ、海に浮かんで揺れている艦船から発射して当てることなどまず不可能だと思われる。
飛行機に爆弾を積んで敵艦船に近づいたほうが圧倒的に有利な時代に造られた時代遅れな巨艦が大和だった。
砲台の周りのコンクリートの壁がその巨大さを物語ります。縦のギザギザに引っかけて砲台を安定させたのだと思われますが、敵艦船も動いているわけだし、それに合わせて巨大な砲台を動かして安定させるというのは至難の業だったのではないかと想像します。
猿岩を後にして車を走らせていると広大な深江田原平野(ふかえたばるへいや)が。長崎県で二番目に広い平野だそうです。焼酎の元になる麦畑が時々見られたのが印象的でした。
壱岐での最後の観光スポットが一支国博物館。壱岐と書かずに敢えて「一支」としているのは中国の史書に「一支国」として記されているから。
展望台もあるかなり立派な博物館。
入口もこのように近代的。受付嬢も専用のユニフォームを着用しています。ちょうど壱岐の紹介ビデオが流れていましたが、円形スクリーンでサウンドも本格的。
スクリーンでは一支国の王都だった弥生時代の様子が映し出され、そのままスクリーンが上がると、王都だった原の辻が見えるようになっています。なかなか凝った演出ですが、大阪歴史博物館でも難波宮で同じ演出がありました。
実寸の古代船が展示。奥は弥生時代の壱岐を子供たちが学べるコーナーになっています。
エレベーターに乗って展望台へ。
上から見ると、深江田原平野の広さがよくわかります。馬渡島もよく見え、九州の陸地もうっすらと浮かんでいるのが見えます。
旅館網元での夕食。運転手さんが「福岡の魚はおいしくない」と言うだけあって、コリコリとした身が素晴らしく美味しい。サザエとアワビのお造りも絶品でした。
予約したコースには付いていなかったのですが、壱岐牛も美味しいと聞き、70gだけつけてもらいました。京都で食べた近江牛と同様、サシが多く、満福中枢を直撃されてしまいます。やはりこの手の肉は苦手です。焼き方も旅館によくある燃料で加熱したお皿で焼くスタイルなので表面がしっかり焼けず、よい調理法とは言えません。まぁ、壱岐牛はなくても良かったです。
翌朝です。網元さんは料理だけでなくサービスもとても良くて、大浴場もあるしオススメできる宿でした。レンタカーもやられているのも大変便利です。
網元のすぐ前は漁港で、多くの漁船が並んでいます。船に乗らなくてもこの先でアジが釣れるそうです。毎日自分で釣った新鮮なアジを食べる生活もよさそうですが、正直お肉が少し恋しくなってしまっています。
10時前にジェットフォイルに乗り込みます。ちょうど今日、2019年の5月1日が令和元年ということで、船内のテレビは天皇の退位式等でもちきりでした。
対馬、壱岐と両島を訪れて、やっぱり印象深かったのはその独特の地形を誇る対馬でした。対馬だけを訪問する旅行はアリですが、壱岐だけというのはないかな?といった感想です。
約1時間で郷ノ浦フェリーターミナルが見えてきました。これで対馬、壱岐ともお別れです。多分もう二度と来ることはないなと考えると寂しい気がします。
博多で駅弁を買ってのぞみ号に乗り込みます。スマホと同じポケットに入れていたせいで乗車券を失くすというハプニングがありました。京都駅で再度買わなければなりませんでしたが、失くした切符が誰かに使われていない限り返金されるプロセスがありました。
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