2023年2月16日木曜日

【西国街道】岡山宿、板倉宿、川辺宿、吉備真備駅

 西国街道の岡山の旅の2日目です。

1日目ブログはコチラ。

宿泊したスーパーホテルで、お風呂にはいって朝食ビュッフェをいただきます。筋肉疲労のはげしい旅に温泉付きのホテルはありがたい。泉質もとろみがあって気持ちいいです。

岡山市は多分初めて来たのですが、思っていたよりも大きな都市で、しかも活気があります。岡山、倉敷にはクラレ、クラボウなど瀬戸内の石油化学コンビナート系列の企業があります。教育、出版関連の会社ベネッセも岡山です。

岡山市の人口は72万人で、日本国中どこも人口減少しているなか毎年人口が増加しています。前回の旅で昭和末期から人口減少している相生市の沈んだような空気を感じましたが、人口増減と街の活気は非常に大きな関係があると実感しました。


二日目の行程を地図にプロットしたのがこれです。


朝8:30にホテルを出て歩き始めます。ホテルそばの下石井公園のD51。



昨日も通った西川緑道。



表町商店街。早朝なのでまだ開いていない。めずらしく屋根がステンドグラス調になっています。この図柄はドラゴンを踏みつけているので聖ジョージかな。



桃太郎大通り。



路面電車が走っています。



金刀比羅(ことひら)神社。戦前は岡山駅から参拝の列が出来たと書いてあります。



線路下をくぐって駅のすぐ西側にあった祠。「智明権現」と書いてある。調べてみると、鳥取県の大山の山岳信仰が岡山や広島に広まったもののようです。これが地蔵菩薩の垂迹として智明権現となった。

大山の神様が岡山駅のわきにいるとは地元の人でもほとんど知らないのでは?



奉還町商店街。大政奉還後、明治維新で職を失った武士たちが藩から支払われた奉還金を元手に商売を始めたのがきっかけだそうです。



まだお店が開いていませんが、それなりに活気を感じます。



「ホウカン町」の壁絵。ギャラリーがあるようです。この絵の雰囲気、多分インドネシアの影絵芝居、ワヤンクリをモチーフにしてるんじゃないかな。



思ったより都会だった岡山の市街地をようやくはなれて街道らしい道を西へ進みます。



国神社。今回はできるだけ神社仏閣は訪ねましたが、ちょっとこの階段はキツすぎるのでやめた。



矢坂茶屋跡。岡山宿と板倉宿の中間地点なので休憩にちょうどいい場所だったようで、茶屋や商店が立ち並んで賑わったと書いてあります。

筆者も左にある椅子に腰かけて5分ほど休憩。まだ腰は大丈夫。



笹ケ瀬川の橋の下で動物発見。ヌートリアです(3倍ズームをさらに拡大)。丹波篠山でもヌートリアが増えていて畑を荒らされたという話は聞きましたが、白昼に見かけるとは思いませんでした。大型のネズミだそうですが、ウサギより少し大きいんじゃないかな。



吉備津神社手前で、「是より東、備前国」との碑。備前と備中の境という意味です。備前には今の岡山市、倉敷市があり、備後は福山市、備中はその間です。



吉備津神社の参道。最近の松並木は枯れかけているのが多いのですが、ここの松は管理が行き届いているのかとても元気に見えます。



主祭神は吉備津彦命(キビツヒコノミコト)。第七代孝霊(こうれい)天皇の皇子の一人ですが、天皇にはなっていません。吉備津彦は武人であり、吉備国を平定したころから神として崇められており、この国を荒らしまわった温羅(うら)という鬼を三人の家来とともに討伐したという伝説が残っています。つまり桃太郎のモデルとなった神話です。

神社の背後にある中山(なかやま)は吉備津彦が温羅に攻めに行くための陣を構えた場所で鯉の形に似ているので鯉山(りざん)とも呼ばれると書かれていました。

この温羅と言われる蛮族は、一方では製鉄技術をもたらした渡来人という説もあり、日本各地に残る土蜘蛛伝説や大江山の酒呑童子のように、先住民の豪族を大和朝廷が滅亡させたのかも知れません。



屋根の上にクロス型にそびえているのが千木(ちぎ)と呼ばれる装飾で、伊勢神宮や出雲大社のような古代の神社の特徴です。吉備津神社は室町時代の建築ですが、立派に見せるために千木を取り入れたそうです。

また屋根が二連になっているのがとても美しく、これは吉備津造りという名前がついているので、ここがオリジナルということかな。



11時半ですが神社入り口の土産物屋兼食堂で肉うどんの大盛りをいただきました。ちょっと豚肉の臭みがあってイマイチでしたが、とりあえずお腹はいっぱいになった。



吉備津神社から少し行った先が板倉(いたくら)宿です。うしろの倉のナマコ壁は斜めに瓦を貼った四半張りです。

全盛期には旅籠は70軒もあったと案内板に書いてあります。



薬壺を持っているので薬師如来か。右後ろの石碑を見るとここから20キロほど西にある洞松寺が神功(じんごう)皇后の三韓征伐の際に、本山の舟木山から造船のための木材を提供したと書いてあります。



高梁川(たかはしがわ)を渡ると倉敷市です。



西国街道の道標。西へは川辺宿、やかげ(矢掛宿)、そう志"や(総社)、東へは金毘羅、くらしき(倉敷)、庄早島とかいてある。早島は岡山市と倉敷市の間の地名だけれど、金毘羅というのは具体的にどこを指すのか。岡山駅そばにも金毘羅神社があったが、岡山市には金比羅宮がたくさんある。瀬戸内をはさんだ讃岐の金比羅宮との宗教的関係が非常に強かったことが感じ取れます。



鯉食神社。変わった名前ですが、温羅(うら)を討伐すべしと追いかけてきた吉備津彦が、ここで鯉に化けた温羅を、吉備津彦が鵜に化けて食ってしまったという伝説から付いた名前だと書いてあります。

比較的新しい神社で、天保13年造営となっているが、明治30年の地図にはまだ名前が載っていないので村の小さな社だったのでしょう。

「鯉に化けた」ということは、この神社すぐ近くの足守川から舟に乗って瀬戸内に逃走しようとしたところを空を飛ぶ「鵜」、つまり矢で射って殺したのかも。いろいろ想像するのも面白い。



ここの狛犬も備前焼です。備前市を過ぎると備前焼の狛犬は見かけなかったような気がするのですが、やはりこの神社が比較的新しいからでしょう。



願い札を見ると「今年宝くじあたりますように」の横に「一億円」と書いてあります。願いが叶っても300円である可能性に気付いて、あわてて後で付け加えたのでしょうか。



見事な四半張りのナマコ壁の倉。



備中国分寺の五重の塔。奈良時代、聖武天皇が東大寺を総本山に全国に50カ所ほどに建立させた国分寺のなかの一つです。五重塔は江戸時代に建てられたもので、岡山県で唯一の五重塔。国指定の重要文化財になっています。



サザンカの落ちた花びらが絨毯のようで美しい。



五重の塔を見ながらベンチで一休み。14時前でずいぶん疲れてきたけれど天気が良くなってきて気分は上昇してきた。



名残りのある一里塚。エノキの代わりに桜が植えてありますが。



めずらしく常夜燈の台座に「金」の文字が。となりの「地神」と組み合わせて考えると、おそらく鉄が採れたではないかと思いました。



調べてみると、岡山県のサイトに説明がありました。古代においては吉備地方が日本で最も製鉄が行われた場所で、特に備中においては鉄鉱石が採れ、82基の製鉄炉跡が発見されたと書いてあります。

日本では鉄鉱石は非常に少なく、砂鉄が主だったのですが、吉備だけは別だったのです。道理で、昨日歩いた長船では刀剣が盛んだったわけです。

古今和歌集では「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」という歌があり、「真金吹く」というのが製鉄所で炎が吹き上がる姿を詠んだものだと言われています。「中山」は吉備津神社の後ろにあり吉備津彦が陣を構えた場所です。

吉備を平定した吉備津彦が中山を押さえたのもわかります。鉄を確保したことが戦争で圧倒的な有利をもたらしたわけです。

でも備前においては平安時代の終わりにはすでに鉄鉱石が枯渇、吉備全体でもやがて枯渇してしまいます。

(和鋼博物館より)


15:30になり、伯備線の清音(きよね)駅から帰ろうかと思ったのですが、天気が良くて暖かいのでもうひと踏ん張り頑張ろうと思い、高梁(たかはし)川を渡ります。



川辺宿です。大名行列がここで宿泊した割合が40%で次の矢掛宿とほぼ同じだけれど、すぐ横の高梁川には橋がなくて氾濫時は逗留を余儀なくされたので、実際はもっと多かったのでは?と案内板には書いてあります。とは言え今では、次の矢掛宿と違って昔の面影はほとんど感じません。



艮御崎神社。「艮」と書いて「うしとら」と読む。ここは吉備津彦が討った温羅(うら)の胴体を埋めた場所で温羅の魂を静めるための神社だそう。

艮(丑寅)は北東を意味しており陰陽道では鬼門、北東方向には吉備津神社があり、吉備津彦が桃太郎のモデルで、温羅が鬼のモデルであることを彷彿させます。

山道入り口の2柱に書かれたものは、犬養毅が大正12年(1923年)に書いたものだそうです。「一剣掃妖英武萬年」は吉備津彦が温羅を討ち取った英武が永遠に続くように...という願いであることがわかりますが、もう一つ「八雲絶唱大雅千年」は何だろう?

「八雲」とは和歌における出雲の枕詞。小泉八雲の八雲です。出雲の神がもたらす繁栄を歌っているのでしょうか?よく分かりません。

ちなみに鳥取県の大山にも鬼伝説があり、これは吉備津彦の父親である第七代孝霊天皇が退治したとされています。大和朝廷が日本海から瀬戸内に向けて地元の豪族を支配していった様子が想像できます。

「絶唱」という小説が鳥取県出身の大江賢次が書いて何度も映画化されていますが、これは1958年なのでずっと後の作品です。映画は山口百恵、三浦友和の名コンビでした。



道中にあった小さな稲荷神社。最近の新しい社ですが、青空背景の絵柄が良いので撮ってみた。



井原鉄道の真備(まきび)駅で帰路について今日の歩きを終えます。時刻は16:30なので今日は8時間歩いたことになります。30kmで4万歩、腰がかなり張っていますがよく歩いた日でした



この井原鉄道、ICカードが使えず乗車時に取った整理券番号に従って現金を投げ入れるシステムです。



立派な鉄橋ですが単線です。モノレールみたいです。


今日も岡山のスーパーホテルに戻って明日に備えてゆっくり休むことにします。夕食も昨日と同じイオンモールの串カツ屋でビールを流し込みました。

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2023年2月15日水曜日

【西国街道】香登(かがと)駅、藤井宿、岡山宿

 京都から始めた西国街道の旅ですが、前回は藤井宿の手前、播州赤穂線の香登(かがと)駅まで歩きました。ここまでで通算10日間かかっています。

今回の二泊三日の旅では矢掛(やかげ)宿を過ぎた井原(いばら)鉄道の荏原(えばら)駅まで歩きました。今回のルートはずっと岡山県になります。

行程はこのような結果になりました。今回の旅は美しく街道風景を残した矢掛宿や岡山城など今までの西国街道で一番良かったと思います。鉄道駅も多いので体力の許す限り歩けたので比較的多く歩くことができました。

  • 1日目:香登駅-藤井宿-岡山宿 25km 6.5時間 3.7万歩(岡山城観光含む)
  • 2日目:岡山宿-板倉宿-川辺宿-吉備真備駅 30km 8時間 4.1万歩
  • 3日目:吉備真備駅-矢掛宿-荏原駅 22km 6.5時間 3.2万歩
今回の宿は岡山に連泊しました。


さて旅日記です...

一日目の詳細ルートと記事にしたスポットをまとめたのがコレです。


山陽新幹線で岡山駅で下車、播州赤穂線に30分以上乗車し香登(かがと)駅で降りたら旅の開始です。時刻は10時前です。

さっそく旧街道らしい風景です。左の家のタイル張りの壁は、「なまこ壁」と呼ばれるもので、瓦を張り付けて防火性を目的にしています。この家のように水平に瓦を並べたものや、斜めに並べたものがありますが、江戸時代の武家屋敷に多く見られるようです。

なまこ壁の由来は、瓦の目地に盛った漆喰が盛り上がってナマコのように見えるからだそうです。なんか変な名前です。



最上稲荷。この横が登山道で熊山(509m)に登って北側の山陽本線熊山駅に抜ける10キロほどの登山コースがあるようです。



吉井川を渡る手前の長船(おさふね)は刀剣の里とあります。

近くの説明版には、国宝、重要文化財の刀剣のうちの7割が備前刀であると書いてあります。刀鍛冶の鉄を打つ音が四方から鳴り響き大名行列が足を止めて聞き入ったというほど盛んだったようです。Wikiにも長船派は日本刀最大の流派である、と書いてあります。

このあたりは特に日本刀造りに適した松炭が豊富に採れたことが特徴だったようです。



吉井川手前、明治天皇巡幸記念碑。前回の姫路からの道中のあちこちにもありました。明治5年(1872年)に西国、四国、九州に巡幸された時のものです。



吉井川にかかる備前大橋の歩道に備前焼のタイルが貼られています。



このあたりから岡山市にかけて明治時代の地図が再び存在してきます。ここは明治時代「御休村」。きっと明治天皇が小休止されたのでしょうが、それが村の名前になってしまうのですね。ちなみに隣村は「行幸村」です。



サザンカが植えられた道。ツバキとサザンカはよく似ていますが、ツバキは花の塊ごと落ちるので見分けがつきます。こういう道があると地域社会がきちんと機能してるんだなぁと感じます。



岡山市のあちこちに見かけたポスター。いよいよ3月18日に屋内においてもマスク着用は個人の判断になります。個人主義の欧米と違って、和の文化の日本は「個人の判断」と言っても「周りの様子を見て」ということになるのでしょうが。



丸山公園のグラウンドそばのベンチでランチにします。気温が5度くらいなので寒い。



農林文化線センターの三徳園入り口。昭和9年に才一生命創設者が作った青少年教育のための三徳塾が前身だそうです。



腰が張ってきたので横田珈琲でコーヒー休憩。今回はできるだけ腰に負担をかけないように歩いていますが、寒さもあってかなり腰の筋肉が硬直してきました。



山陽本線の上道(じょうとう)駅を過ぎたあたりにいくつかこんな畑があります。多分、岡山なので桃じゃないかなぁ。特徴的なのは支柱がコンクリートになっていることで、このことからも果実が相当な重さになることを意味しています。



古い工場のような建物。「第五共撰場」と書いてあります。調べてみると「共撰場」とは畑で採れた桃を選別する場所のことだそうです。桃だけに使われる用語のようなので、やはりさきほどの畑は桃畑で間違いなさそうです。今はおそらくもっと大規模な場所に集積、選別されているのでしょう。桃の香りで一杯の場所に町の人々が集まってみんなで選別していた風景を想像してしまいます。



ここは比較的大きな桃畑。ビニールをしている畑とそうでない畑がありました。温度を上げて収穫を早める工夫でしょうか。

岡山は桃の生産では全国5位(1位は山梨県)ですが、白桃に限れば全国1位だそうです。収穫は夏で、寒さに強く夏の多雨が苦手なようです。



安国寺再建の碑。このあたりの鉄(くろがね)と言われます。里山が多いので、たたら製鉄所があったのではないでしょうか。



藤井宿の説明版があります。以前は少し上の宿村が宿場町だったのを、宇喜多秀家がここ藤井に付け替えてから大名行列などで大いに栄えたと書いてありますが、これ以外に宿場町の面影をしのばせるものはありません。

宇喜多秀家は、豊臣秀吉に可愛がられ猶子(ゆうし、親子関係のない子供)となり、関ケ原の戦いでは西軍の主力として戦いましたが小早川秀秋の寝返りにより東軍に敗れ、薩摩、駿河と点々とし最期は八丈島に流されて84歳で亡くなりました。



素戔嗚(スサノオ)神社横の道に「ここより新往来」と看板が立っている。幕末に攘夷運動が盛んになり、長州藩が下関発砲事件を起こした3年後に幕府は長州討伐令を出したことをきっかけにして各藩が武装して西国街道を通ったので警戒した備前藩が岡山城を迂回した道に付け替え、これを新往来と名付けられたようです。

備前藩(岡山藩)は初めは勤王佐幕という折衷派だったのが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が総崩れになると討幕派になったそうです。



百聞川を渡ります。



旭川を渡ると岡山城が見えます。岡山城は厳密には西国街道沿いではないのですが、せっかくなので入城することにします。



岡山県庁です。なかなか威厳のある建築です。



ちょうど今、キムタクと綾瀬はるかの信長テーマの映画が公開中です。キムタクって何を演じてもキムタクなんですよね~。まぁ、ファンの女性達はそれを期待しているのですけど。



岡山城を本格的な城として建築したのがさきほど出てきた宇喜多秀家ですが、関ケ原の戦いの後、宇喜多家は改易されてしまい、西軍を裏切った小早川秀秋が代わりに入城しました。

ちなみに小早川秀秋も秀吉に可愛がられ養子となり、秀次の次の豊臣家の跡継ぎとまで言われましたが、秀頼が誕生、秀次は切腹させられ、秀秋は小早川家の養子となりました。秀頼が誕生するまでは子供ながら取り巻きの接待攻撃を受け、12歳にしてアル中になってしまったそうです。そのせいか知りませんが秀秋は21歳の若さで岡山城で急死してしまいます。

天守閣です。黒漆喰が特徴的で黒いので烏城(うじょう)とも呼ばれています。天守は空襲で焼失した後、昭和に再建、令和4年までに大改修が行われました。



城の中の展示室は見やすく整理されています。以前の岡山城のジオラマを iPhone のポートレートモードで撮影。



金のシャチホコ。



これも城の中にあったプロジェクションによる説明。西国街道が岡山城の外堀に沿って南に大きく迂回しているのがわかります。



秀秋の急死により早くに途絶えた小早川家の後を継いで岡山城に入城したのが池田氏で、このアゲハチョウは池田家の家紋。ちょっとモスラのようですが。



こちらは着物コーナー。



旭川側から見るとゆるやかな三角になっており、反対側が平面なので全体的に不等辺五角形をしているのが岡山城の特徴と書いてあります。



農業用水のために南北に掘られた水路がきれいな緑道になっています。京都の高瀬川を思い起こさせます。



4時半に予約していたスーパーホテルにチェックインしました。スーパーホテルは以前、加古川で使いましたが天然温泉の湯を張った大浴場があり清潔なホテルです。今風のホテルだけあってとても寝心地のよいベッドが部屋の7割くらいを占めていますが、まぁ寝るだけなんで問題なしです。

お風呂に入って着替えたあと、近くのイオンモールの串カツ屋でビールの大ジョッキを流し込みます。腰に気をつけながらなんとか一日目を無事に終えました。