本能寺の変が起きる半月ほど前、信長は光秀に対し、毛利氏と戦っている秀吉を支援するように命令する。その際、光秀に、中国地方で戦勝したら領地は自分のものにしてもよいが、当時光秀が所有していた領地は没収すると告げる。光秀はその仕打ちに堪忍袋の緒が切れたのかもしれません。
変の四日前、光秀は亀山城から愛宕山に詣で、籤を2,3度引いている。信長討伐の決意を見極めたと言われています。
そして、6月1日、光秀は家来には森蘭丸からの伝令で閲兵を受けるために京都へ向かうと言い、兵を進め、桂川の畔で、草鞋を締め直し、「敵は本能寺にあり」と、信長襲撃命令を下し、当時本能寺があった堀川三条めがけて突き進んだ。
はっきりしたことはわからないようですが、亀山城から京都に行軍するとき、光秀は軍を3つに分割し、光秀含む本隊は今回歩いた明智越えを通り、残りの二隊は、唐櫃越えと老ノ坂峠を通ったという説があります。
これが今回歩いた明智越えの詳細ルートです。JR亀岡から保津町の集落を抜け、JR保津峡駅まで歩きます。最高地点は約410m、距離は約10Kmの行程です。
こちらは3Dマップです。
さて実際のルートですが、JR亀岡駅の北口に出て、右に曲がります。写真は振り返って駅を見ています。
京都スタジアムが建設中です。2020年春オープンを予定しており、会場時は、サンガスタジアム by Kyoceraと言われるそうです。
ダークグレーで日本家屋のような屋根が乗っているデザイン。
保津川下りのお客さんが乗船を待っています。保津川下りについてはこちらの記事参照。
大堰川(おおいがわ)を渡ります。この川ですが、保津峡周辺では保津川と呼ばれ、渡月橋より東から桂川と呼ばれます。ややこしい。
橋を渡り終わるあたりから見ると、鉄塔の立っているあたりが、今回歩く明智越えルートになります。
九月下旬のヒガンバナ。毎年見ても華やかに感じます。四季があるのは素晴らしい。
このあたりから明智越えコース沿いに、「保津百景道しるべ」と題していろいろな案内板が立っています。毎年10月に松明をもった行列が練り歩くそうです。
秋のコスモスです。お地蔵さんと一緒に。
保津町の集落の家々はきちんと手入れがされており、秋の花の香りが立ち込めることもあり、とても良い空気に感じます。
白いヒガンバナ。初めて見ました。交配種なだけあって赤のヒガンバナよりも弱く、珍しいそうです。
大きな柿の木。
いよいよ明智越えの登山道にやってきました。
横にあった解説の看板です。6月1日午後10時に出発と書いてありますが、正確なところはわからないそうです。でも本能寺を襲ったのが翌朝4時なので、距離を考えればそうかもしれません。
保津城跡。南北朝時代だそうです。
予想通り倒木は多いですが、くぐるか巻くかでなんとかなります。
石堂丸、石童丸のほうが一般的なようですが、高野山に父を訪ねるも既に亡くなったと告げられる。墓参りをして家に帰ると母も亡くなっており、再度高野山に出家し、父の死を告げた僧に仕えるが、実はその僧こそ、じつの父だったというお話。
仏教の有名な話で絵本にもなっている。公私混同を許さない日本らしいお話です。
全部で20回くらい倒木の上や下を乗り越えましたが、想定以上ではありません。
鐘撞(かねつき)堂跡。
このあたりが最高地点、約410mです。
土砂崩れ跡があり、景色が広がります。全体で景色が見れたのはここだけ。
ヤマレコによるとちょうど鉄塔のある場所に土用の霊泉という水場があることになっていますが見当たりません。もうちょっと手前にも土用の霊泉の説明を示す看板がありましたが、そこにも水場はありません。おそらく何百年も続いてきたであろうのに、残念なことです。
土用の水場に行きたいがためにメインルートから外れてしまい、倒木のキツイ道を行きます。
水尾の集落が見えてきました。
再び鉄塔。
ここから沢跡のような道を下ります。雨の日はキツそうです。
登山道が終わりました。
保津川の支流に心癒されます。
この橋を渡るとJR保津峡駅に向かう道です。
激しい倒木です。
これは明智越えルートではなく、保津川に近い道を散策するルートです。
いつもの赤い鉄橋。
JR保津峡駅にたどり着きました。
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