2018年12月22日土曜日

橿原神宮と畝傍山(うねびやま)

橿原神宮は初代天皇である神武天皇を祀るために1890年に明治天皇が創建した神社。平安神宮の5年前。

地図で場所を確認してみます。橿原神宮は畝傍山(うねびやま)を背にしており、耳成山(みみなしやま)天香久山(あまのかぐやま)と大和三山と言われています。この三山に囲まれた場所に藤原京があり、持統天皇が遷都しましたが、694年~710年のたった16年間しか続かなかった短命の都です。



橿原神宮へは京都から近鉄特急で一時間で行けます。左下の第一鳥居から入って、拝殿でお参りしてから右上の登山口から畝傍山に登り、そのあと、地図には載っていませんが北側にある神武天皇陵に行きます。


さて第一鳥居ですが、アレ?この黄色のチンケな柱は?と驚きましたが、改修工事中だったのですね。それにしてもイマイチです。


表参道。両側に並ぶ巨木は、樫の樹。


前回樹木ツアーに行ってからついつい樹に見とれてしまいます。


外拝殿。広大な敷地のせいか、人々がまばらに見えます。今時どこにでもいる外国人観光客も誰もいません。


内拝殿。まだクリスマス前なのにもうすでに来年の干支である猪の絵馬が飾られています。屋根は立派ですが、木造建築が知恩院の三門のような棟梁の執念みたいなものを感じません。明治時代の建築だとこうなってしまうのでしょうか。訪問客がまばらなのもわかる気がします。


内拝殿。巨大です。今は中には入れませんでした。


さてここから畝傍山の登山口です。山といっても198メートルしかありませんが。


道は歩きやすいです。


なんと畝傍山、死火山だったのですね。ちょうどこのあたりが大陸プレートとフィリピン海プレートが薄く層になっていてマグマが隆起したのです。瀬戸内火山帯と呼ばれ、四国から九州まで帯状になっています。



畝傍山口神社は元々山頂にあったのが、橿原神宮が出来て、見下ろすのが良くないという理由で山の反対側に移されてしまいました。今回はそちら方向には行かず頂上に向かいます。標識には「畝火」と書いてあります。何か、うねうねと連なるイメージなのでしょう。語源はわかりません。




香久山と耳成山が畝傍山を妻にしようと争い続けているように、いつの世も恋の争いはあるもの、という中大兄皇子の歌。別名天智天皇の中大兄皇子は曽我氏暗殺、白村江の戦いなど戦争のイメージがありますが、こういう三角関係みたいなものを歌ったのですね。


このような柱状節理がところどころに見られます。地下のマグマが貫入してきた証拠です。


頂上に以前の畝傍山口神社の場所を示す石碑がありました。


お皿をひっくり返したようなきれいでこじんまりした耳成山(みみなしやま)。ちょっと不自然なところから人工の古墳ではないかという説もあるそうです。


こちら樹々の間からかろうじて見えるのが天香久山です。
天香久山と言えば、百人一首の

春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 
    衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

が有名です。万葉集の持統天皇の歌がベースになっています。初夏のすがすがしい日に天香久山で洗濯された白い衣が、干し竿に並び風にひるがえる姿を想像すると平和でかつさわやかな気分になります。ちなみに持統天皇は中大兄皇子の娘です。


下山は違うルートをたどりました。耳成山をもそっと近くで眺めることができます。


もりあがった柱状節理と背景の畝傍山。


下山後は神武天皇陵に向かいますが、その途中に太平洋戦争で散った若桜を祀る石碑がいくつかありました。戦歌で出てくる「予科練」で知られる海軍の飛行部隊は最期は神風特攻隊として国を守るために命を投げ出しました。


紅白まだら模様の椿。


樹木に見とれる。でも何の樹だろう。樫かな。


いったん125号線に出てから神武天皇陵の敷地に入ります。


90度に右にうねる道。両側には松林の壁。


初代天皇だけあって実に簡素かつ威厳を感じる広大な陵です。アマテラスオオミカミの直系で紀元前660年に即位したのが神武天皇。建国記念日である2月11日は即位の日です。


ちなみに日本神話については最近読んだこの本がオススメです。神様のキャラをうまく漫画で表現してありとてもわかりやすい。


アマテラスオオミカミから神武天皇への流れはこう説明されています。


  1. アマテラスオオミカミ
  2. アシノホシホミミ(農業の神、あかんたれ)
  3. ニニギ(アシノハラナカツクニ平定後の最初の統治者)
  4. 山幸彦(ニニギとコノハナノサクヤヒメとの間の子。浦島太郎のモデル)
  5. ウガヤフキアエズ(山幸彦と竜宮城の姉姫との間の子)
  6. ワカミケヌ(ウガヤフキアエズと叔母である妹姫との間の四男、神武天皇)

このワカミケヌ、後の名をカムヤマトイワレヒコは九州の日向にある美々津を出発し、中国地方を瀬戸沿いに進み大阪から熊野まで進み、そこから宿敵トミヒコ(登美毘古)を大和で打ち破ったことで神武天皇として即位したのです。


巨石をくりぬいた手水。


帰り道に見た深田池。



拝殿の背に見える畝傍山に別れを告げて、ぜんざいを食べて終わりです。


2018年12月8日土曜日

知恩院、将軍塚~清水山~稲荷山

まいまい京都」というブラタモリ的テーマをじっくり深めるツアーエージェントがあり、そこが主催する【東山十六峰】森の案内人と秋色トレッキング!というタイトルのツアーに嫁と参加しました。

ツアーコンダクターは三浦豊さんという方(プロフィールはココ)で、日本中の樹木は全て解説できるという方。庭師でもあったので自然の樹木だけでなく人間が創り出す自然の美についてもよく理解されているようです。


全ルートがこんな感じです。北が左で、北の青蓮院門跡からスタートして、南の伏見稲荷大社までの距離を歩きます。



集合は東西線東山駅で、そこから三条沿いを進み、神宮通りを南に行くと京の七口の一つ、粟田口です。


青蓮院の楠。昨年の猛暑に耐え切れず枯れた部分を切ってしまった姿。私は以前の姿を知りませんが、巨大な楠として威容を誇っていたそうです。


もう一方の楠は大丈夫なようです。


神宮通り沿いにもいくつかの楠があります。枝ぶりが自由に広がる姿が雄大さを感じさせます。常緑樹だが大量の落ち葉が出るため掃除が大変。枝分かれが多いので木材としては使いにくいが虫害に強いので船材として使われた。あまりの巨木になるため生やすには覚悟が必要な樹。



クスノキ科やモチノキ科、ツバキ科などの林を照葉樹林といいます。照葉樹林とは常緑広葉樹林の一種で、温帯に生息するが冬を越すために葉にコーティングをしたテカリがあるので照葉といいます。


知恩院の三門。24メートルの堂々たる国宝で、二条城とともに徳川幕府の軍としての拠点であった。三門建設の責任者であった造営奉行、五味金右衛門が自刃したことは有名で、予算超過の責任をとったとか、軍門の機密が外に漏れないようにとか、諸説あるそうです。


この巨大な門に使われた木材の代わりになるような巨木は今の日本にはないそうです。


御影堂の修理は来年2019年3月に完了予定ですが、大屋根が姿を現しました。


大鐘楼。70トンの鐘であまりの重さのため、この場所で鋳造されました。この鐘を支えているのも釘を一本もつかわない木材です。


法垂窟(ほうたるのいわや)。法然が夢の中で中国の名僧から教えを受けた場所でもあり、親鸞が法然を訪ねて出会った最初の場所。


木が螺旋形を描いているのは丈夫になることと、水分を吸い取りやすいからだそうです。東京スカイツリーも螺旋構造になっています。


榎(えのき)。空を覆うので涼しく、それゆえに、夏の木と書く。



これは江戸時代の四条大橋ですが、背景の東山には松しか生えていません。しかもところどころはげ山になっています。これは庶民が燃料用に木材を伐採したことによります。
伐採によって変容した山のいことを里山(さとやま)といいます。

なぜ良く燃える松は伐採せずに残したのかは調べてみましたがわかりません。長寿の象徴として人気があったので景観上の理由かもしれません。

最悪だったのが明治の終わり頃で、家庭用燃料だけでなく戦争のための工業生産の燃料や資材に使われてはげ山だらけだったそうで、山のふもとの神社仏閣は土砂崩れの被害を常に被っていたようです。



右の刈られた木が松です。その横には新しい木が生えています。燃料用の伐採が終わったのが化石燃料が一般的になった1960年頃です。松は落ち葉による土の富栄養化による細菌と共生できないので、どんどん枯れていきました。明治時代は落ち葉も子供たちが採取して燃料にしたり、糞尿と一緒に肥料にしたりしていたのが化学肥料に置き換わり、松の苦手な落ち葉がどんどん増えていったのです。
それに伴い、以前はそこらじゅうに生えていたマツタケが超高級食材になってしまいました。


岩場の木は土中に根を張れないためついたてのような形で岩をとらえる。


将軍塚に到着。青龍殿の大舞台がまるで大海原を進む戦艦のようです。



青龍殿ですが、もとは北野天満宮のそばに武徳殿という名前で道場として建っていたものをこちらに移築したものです。維持費用が捻出できないために閉鎖解体される武徳殿を、青不動をお祀りする寺として東山の頂上に移築するように京都市と交渉を続けて平成26年(2014年)についに落慶しました。


青不動の絵は国宝のなかでも日本三大不動と呼ばれるほどの超重要な画で、本物は厳重に保管され、お参りできるのは精巧につくられた複製です。力を現す不動にふさわしい、武道の館が青龍殿なのです。



比叡山の雄姿。二つのコブがありますが左がガーデンミュージアムのあるいわゆる比叡山の頂上、右が大比叡でハイカーしか行かないところ。大比叡の方が高い。


中央の緑は御所。


パノラマです。


将軍塚。桓武天皇がここから眺めて、ここを都にすることを決意した場所。大きな将軍の像を土で作らせて埋めさせたことから、将軍塚と言われるようになりました。


回遊式と枯山水を組み合わせた庭園




東山山頂公園にきました。


山頂公園からの眺望です。遠く大阪まで見えます。


拡大しました。あべのハルカスが確認できます。素晴らしく空気が澄んでいます。




さて清水山に向けて歩きはじめます。しばらく歩くとガイドの三浦さんが、タブノキという木の苗を見つけました。クスノキ科の一種で照葉樹ですが、東山で見かけるのは初めてらしいです。クスノキ科なので巨木になり30mまで育つそうです。説明されないとただの小さな苗にしか見えません。


桧(ひのき)です。樹皮が屋根につかわれ、檜皮葺(ひわだぶき)といいます。瓦葺きよりも格式の高い建物に使われたとのこと。



こんな感じの屋根です。



こちらは檜皮をむかれてしまったものです。羊の毛を刈り取られた後に血がにじんでいるように、ところどころ樹液がでているのが痛ましいですが、丁度いい頃合いの厚さに剥く専門の職人さんの仕事です。


ヤマザクラです


クリの木です。実も落ちていたので一緒に。



桧の林です。森は自然の樹木の集まりで、林は人による植林の集まりだそうです。こんな基本的なこともガイドさんに教えてもらうまで知りませんでした。恥ずかしい。

英語のForestは森と林の両方を言うので、日本語で森林という名前になったそうです。
ちなみに、植林は木材採取が目的なので、木の幹を同じ太さになるようにしますが、自然に育った樹木は上に行くほど細くなる。なので同じ太さの幹の樹がたくさん生えているのは植林と考えて間違いないとのこと。


清水山山頂です。といっても243mしかないですが。


ガイドの三浦さんはしきりに清水山の姿の美しさをたたえておられました。GoogleMapで五条から見るとたしかに浅いお椀を逆さにしたような形をしています。



椎(しい)です。ここから先は椎が強い存在感を出しています。森が豊かになり土が肥沃になればなるほど椎が得意な環境が出来てきます。写真の椎は伐採で枝を切り取られては生えてを繰り返してこんな形になりました。



台風の強烈な爪あと。ツアーの参加者がくぐっていきます。


清水山の麓、東海道にでる手前で見つけた椎の木の切り株。よく見ると切り株から小さな苗が生えてきています。これを蘖(ひこばえ)といいますが、樹によって蘖ができるものとそうでないものとがあります。椎の木は台風で倒れてもまた新しい芽を生やします。根は健全であるため、以前巨木だった根から大量の養分が蘖に流れ込んできますから成長も非常に速い。



ここを登ると清閑寺ですが、そちらには向かわず稲荷山方面へ進みます。


公益社の横を通り、一号線の下の薄暗いトンネルをくぐって稲荷山方面へ向かいます。

清水山を眺める。きれいな円形。青空が素晴らしい。



杉の落ち葉です。この落ち葉からは特殊な物質を発し、他の種類の樹の成長を妨げる効果があります。


このあたりの道は登山道っぽくておもしろい。


豊国廟へ向かいます。ここには以前行ったことがあり、道に迷った記憶があります。



豊国神社から京都女子大を経由してつながる長い階段を見下ろす。




このあたりを京都女子大のそばなので京女鳥部の森と呼んでいるようです。鳥部野は京都三大鳥葬地として知られていて、平安時代は火葬にすると大量の燃料がいるため死者を単純に木につるして鳥に食べさせたのです。ホラーの世界です。
死者に対する哀れみや伝染病の恐れから鎌倉時代には火葬に変わっていきました。

ちなみに一番有名な鳥葬地は嵯峨の化野(あだしの)です。鳥居本とも言われています。


小楢(こなら)、だったと思います。


一本だけの松。劣勢になっても、すっと立つ姿にガイドさんが感動していました。



さてここでいったん今熊野の住宅街に下りてきます。ここから山科に府道118号(醍醐道)が伸びていて、私が毎週末に通う東山テニススクールがあります。
ちなみにこのあたりの地下には新幹線のトンネルが通っています。

これは民家に咲いた山茶花(さざんか)。「北風ぴーぷー吹いている」の季節です。


天狗のうちわで有名なヤツデ。11月~12月にこのような花を咲かせますが、蜜が大変甘く、この季節の昆虫たちには欠かせないものらしいです。


右から左に歩いてきましたが、ここで左の狭い道に進みます。


桜の花壇の下を通ります。春の景色は素晴らしいとのことです。来春は見に来たい。


そば屋 澤正の洋館風の建物が見えます。


澤正の入り口です。右にちょっと見えるのが先ほどの洋館です。
紅葉(もみじ)といえば楓(カエデ)ですが、赤い実が成ります。鳥が食べても種は消化されずフンとなって遠くに落下される仕組みなのですが、鳥に食べられないまま黒ずんでしまった実は落ちてしまいます。その際に、楓の特徴として、枯れ葉のついた枝ごと落として、葉がプロペラのように風に乗って遠くへ飛んでいくのです。そのことから、木へんに風と書いて楓と読むのだそうです。自然てすごいですね。


泉涌寺にやってきました。敢えて落ち葉を残しているそうですが、仏殿が全部見えないところが気品を感じさせます。


楊貴妃観音を参拝しました(ホームページより)


稲荷山を背景に。


巨大な松。



さていよいよ伏見稲荷大社に向けての最後の登りです。


民家の合間にある神社に生える巨大なクスノキ。


小楢(こなら)です。


伏見稲荷大社に着きました



日暮れ時の景色





後ろにある木は榊(さかき)の古い種類とガイドさんは言われていましたが、オガタマノキという種類で科目でいうと榊とは別の種類でした。神木として榊の自生しない地域で榊の代わりとして使われたそうです。

榊の木はもっと低い木で、椎の木の林のなかでもニッチに生育する種類だそうです。神の木と書くすごい名前で神事には欠かせません。

この場所でツアーが解散です。朝8時から夕方5時まで、お昼の弁当を除けばほとんど休みなしのハードな行程でしたが私たち夫婦を含めてみなさんお疲れの様子ながら楽しく充実したツアーでした。