2026年3月11日水曜日

【東海道】名鉄美合駅、藤川宿、赤坂宿、御油宿、名鉄国府駅

 3月に入って再び冬のような寒さが戻ってきました。世界ではアメリカとイスラエルがイランに攻撃を仕掛けて再び大混乱になっています。

1月からの東海道歩きの続きです。今回は岡崎宿を過ぎた名鉄美合(みあい)駅をスタートして、いつものように二泊三日の旅で、遠海国(とおとうみ)に入り浜名湖を越えた舞阪宿まで歩きました。

3日の行程は以下のようになりました。1日目は街道歩きの後に浜松城を見学、3日目は浜名湖展望のロープウェイに乗ったので、いつもよりは少し歩いた距離が短いです。

今回の街道の印象は、一部松並木の美しい旧道もありましたが、全体的に国道一号の道路沿いが多かったです。ただ、宿場町には充実した資料館があり少しは江戸時代の気分に浸ることができました。また、最後に食べた浜名湖の鰻はやっぱり美味しかったです。

今回の宿は豊橋駅前に2泊しました。

  • (名鉄美合駅)、藤川宿、赤坂宿、御油(ごゆ)宿、(名鉄国府(こう)駅) 18km、4時間40分
  • (名鉄国府駅)、吉田宿、二川(にのかわ)宿、(JR新所原駅) 24km、7時間
  • (JR新所原駅)、新居(あらい)宿、白須賀(しらすか)宿、舞阪宿 20km、5時間



1日目の詳細ルートと記事で紹介した場所です。



京都駅から新幹線で名古屋駅まで行き、名鉄に乗り換えて30分強で前回の旅の終着点である美合(みあい)駅に到着。名古屋駅の乗り換えも前回の旅ですっかり覚えたのでもう迷うことはありません。

交通の便が良いので、9時過ぎからのスタートです。やはり東海地方は筆者の住む滋賀県よりも温暖で、歩き始めてすぐにパフジャケットを脱ぎました。



街道筋に入ると前回歩いた松並木が再び現れました。前回の旅の際も思いましたが、以前はマツクイムシ被害で弱った松が多かったのに、最近は対策の効果が出てきてこういった元気な松が見れて良いことです。



藤川宿に入ってきました。右の石碑は黒くて何やらわかりませんが、芭蕉の句碑です。三河名物の「むらさき麦」を詠んだ句です。

むらさき麦は穂先が紫色の珍しい大麦の一種で、芭蕉の時代は街道沿いに赤く実っていたのですね。



これも句碑ですが、珍しく浮世絵の歌川豊広の歌です。

「藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」

調べてみると「棒鼻」というのは宿場町東西の出入り口を言い、出入り口の標識(傍示杭)のことを「杉のしるし」といい、道沿いに赤い穂を垂れている藤のことを、ゆで蛸の足と言っています。花より団子の豊広のユーモアです。



これが広重の描いた藤川宿「棒鼻の図」。広重は豊広の弟子なので、師匠の歌に合わせて描いたんじゃないかな。中央に立っているのが「杉のしるし」かと思います。

この場面は朝廷に献上される馬を連れた行列に頭を下げる人々。



藤川宿本陣跡。この横が資料館になっています。藤川宿は本陣が1つ、旅籠が35軒ほどだったので比較的小規模。となりの岡崎宿が商店も多くて栄えていたので、藤川宿の泊り客が少なくて経営が苦しかったと書いてある。



本陣跡の裏で、むらさき麦が栽培されています。芭蕉の時代を過ぎて戦後になると、むらさぎ麦の景色が消えてしまい、地域の人たちが、平成年間に再び、むらさき麦の栽培を始めたと書いてあります。赤い穂が見れるのは5月だそうです。

筆者の畑でも土づくりを目的にエンバクを育てますが、なんとなく似ています。ただ、5月に実がなるにしてはちょっと小さいような気がしますが。筆者のエンバクは120cmくらいになって2月頃に枯れてくるので刈り取って緑肥にしています。



本陣裏が傾斜面になっているので石垣にして敷地を拡げています。こういう本陣も珍しい。



資料館の中には立派なジオラマや音声ガイドもありました。写真はジオラマを撮ったのですが、なんだかリアルな写真になりました



本陣近くにあったレンガ風壁4階建ての建物は、人形屋さんです。立派なホームページもあります。



インドの蛇使いがコブラを踊らせる笛。そういえば昔、ゼンジー北京って奇術師がいたなぁと思って調べると、コブラ使いは東京コミックショーでした。



藤川宿の東の端の出入り口を東棒鼻といいます。案内板によると江戸時代の棒鼻を再現したのは東海道400年を記念した東海道ルネッサンスという名の復興活動があったそうです。国土交通省の中部、関東が音頭取りをやっていたようです。

立派な資料館があったのはそういうわけか。



本宿村があったと書かれている。旅籠が2軒と茶店があったようですが、53次の宿場町ではない。間宿(あいのしゅく)ですね。麻縄が名物だったとか。




法蔵寺。「家康御手習いの寺」と書いてあります。お手習いとは子供のころの読み書きの勉強のこと。室町時代初期の松平家の始祖の松平親氏(ちかうじ)が帰依していたという由緒あるお寺です。

家康はずっと松平の姓を名乗っていましたが、三河守の称号を朝廷からもらうために徳川の姓を名乗ります。



さて、この法蔵寺、近藤勇の首塚があると書いてあるので、境内に入っていくことにします。




総髪の近藤勇像がありました。新選組については子母澤寛(しもざわかん)さんの「新選組始末記」が明治の生き証人たちの話が載っていて大変面白いのですが、それによると、鳥羽伏見の戦いで幕府軍とともに敗れた新選組は、甲陽鎮撫隊に名を変えて甲州へ転進したけれど、近藤勇は「甲州城をとったら十万石の大名じゃ!」と芸者遊びをしながらボツボツ進んだので、先に板垣退助に入城されて城攻めに失敗したそうです。

その後、近藤勇は大久保大和の名を名乗り身を隠していたのが、捕縛されて断首、京都三条河原に晒されました。享年33歳。

「始末記」によれば胴体は掘り出されて鳥羽伏見の戦いの前に撃たれた左肩の銃創で本人と確認され、丁寧に埋葬されたと書かれてありますが、首については特に記述はありませんでした。

案内板によると、近藤勇の首塚はずっと土の覆われて忘れられていたのが、昭和33年に寺の記録を調べていたときに、ここに近藤の首が埋葬されているとわかったそうです。

「新選組」って何やら改革のイメージがあって変な政党名にも使われていますが、幕府の傭兵なので改革を邪魔する側で、そもそも隊士たちは特にイデオロギーを持っていたわけでもない。




首塚のそばには、徳川家康が武田信玄に敗れた三方ヶ原の戦いの際の徳川側の戦死者が祀られていました。



赤坂宿に入ってきました。梅の花がきれいです。このあたりから岡崎市から豊川市へ変わります。



赤坂宿の陣屋跡の休憩所。陣屋とはお役所みたいな場所のこと。ここから豊川市で人気の宮路山(361m)のハイキングコースが続いています。紅葉の写真が飾ってありました。



赤坂宿の一般の旅人向けの旅籠だった大橋屋が資料館になっています。62軒の旅籠があったと書いてあるので中規模の宿場ですが、次の御油(ごゆ)宿がすぐそばなので、2宿がつながったような宿場町になっていました。

2宿とも飯盛女が多かったそうです。


2階は旅籠の部屋らしい雰囲気があります。


天上の立派な梁。



東海道五十三次の36番目、御油宿。



副題が「旅人留女」ですが、強引に引っ張って首が締まっています。右が飯盛女でしょうか。



浜名湖が近いので、うなぎ屋さんがチラホラ出てきます。ここは「うなぎ屋」といううなぎ屋さん。お昼時だったので入ろうかと思ったのですが、ちょっと店の感じを見てパスしました。



赤坂宿から御油宿間の松並木も見事なものです。国の天然記念物で「日本の名松百選」の一つと書いてある

赤坂宿ー御油宿間は東海道五十三次でも最も短かった。



「1 1/3」(イチとサンブンノイチ)という面白い名前のうどん屋さんがあったのでお昼にしました。海老の天ぷらは食べ応えがありましたが、値段が1600円。

そういえば土山宿のカレーの2000円だった。物価高のご時世ですねぇ。



このあたりが本陣のはずだけど、御油宿は特に復元、保存はしていないようです。



音羽川を渡ります。この先で東海道から姫街道に分岐します。



姫街道は、浜名湖を舟で横断する今切の渡しを避ける内陸側のルートです。舟が苦手な人や、今切の関所での女性に対する厳しい取り調べ(入り鉄砲に出女)を避ける行路になっていました。

桑名宿から七里の渡しを避ける佐屋街道と似ていますね。

(Wikipediaより)


ソメイヨシノかと思うような梅に続く参道の先は大社(おおやしろ)神社で、三河国府鎮守社。



美合駅から歩いて18km。まだ歩けるのですが、駅の場所を考えて今日はここで終了。でもまだ時間が2時前なので、浜松駅まで行って浜松城を見学することにします。

さっきの大社神社が示す通り、ここは三河国の国府があった場所ですが、駅名の「国府」は「こう」と読みます。



浜松駅までまだ意外に遠くて1時間もかかりました。そこから路線バスに乗って浜松城。

徳川家康が武田信玄と闘った三方ヶ原の舞台となった古い城なので、石垣は野面積み。「石を引き抜かないで」と注意書きがある。



天守は思っていたよりも随分と小さい。考えてみれば家康が天下を取るずっと前の城だし、天下を取った後も、負け戦のイヤな思い出の城なので手をかけずにいたのでしょうか。

城内部の案内によれば、当時の天守は現在の復興天守閣の1.5倍あったそうですが、それでも決して大きい城ではありません。




天守内部の映像案内。

三方ヶ原の戦いは、老齢と労咳の病の中、上京の夢をかなえるために遠江に侵攻してきた武田信玄(53歳)を迎え撃つ徳川家康(30歳)との戦いでした。

浅井、朝倉戦で余力のない織田信長から十分な援軍をもらえない家康は、浜松城に籠城しますが、信玄は城攻めをせずに無視するように素通りして西へ軍を進めます。

侮辱された家康は、血気にはやって城を出て北方の三方ヶ原で信玄の軍に襲い掛かりますが、実はこれは信玄の策であり、軍を急転回させ、武田勝頼の騎馬隊が家康軍の後ろに周った時点で勝負がつきました

戦さに勝利した信玄ですが、真冬の寒さのなかの戦いが労咳を悪化させて、その4ヶ月後に病死してしまいます。

このまま信玄が上京を続けて、織田信長と相まみえていたら...?というのは戦国時代ファンがわくわくする想像ですね。


天守の最上階。


太平洋まで見渡せます。


家康像。右手に持っているのは浜松城周辺に自生していたといわれるシダ。シダは丈夫で形もよいので「勝草」と呼ばれ、家康は兜の前飾りにしていました。

浜松城を観光した後、JRで豊橋駅に戻り、駅前の焼き鳥屋でビールを飲んでルートイン豊橋で泊まりました。

2026年1月16日金曜日

【東海道】名鉄豊明駅、池鯉鮒宿、岡崎宿、名鉄美合駅

 長島から名古屋を横断して岡崎まで歩く東海道2泊3日の旅の3日目です。

2日目はコチラ

下に3日目のルートと記事で紹介したスポットを記します。

3日目の見どころは岡崎城です。また、街道沿いには松並木がよく整備されていて大変印象的でした。池鯉鮒宿や岡崎宿については、開発されてしまっていて面影はありません


今朝も6時に起きてアパホテルをチェックアウトして昨日のゴールである名鉄豊明駅までやってきました。時刻は8時すぎ。

境川を渡ると、尾張国から三河国に変わります。ちょうど国境だから境川ですね。現在は豊明市から刈谷市へ変わります。

弘法大師作の地蔵尊石碑の右奥が洞隣寺なのですが、案内板を読むと「刈谷の昔話で有名な、めったいくやしいの墓がある」と書いてあって気になったので調べてみると、このお寺の下女が隣寺の僧に恋をしてしまったが、成就するはずのない恋に気を病んでついに亡くなってしまい、下女を埋めた墓からは夜な夜な「めったいくやしい~」という声がした。という話。



トヨタ車体工場の南を進んで行くと、池鯉鮒宿に入ってきます。ここの地名は知立(ちりゅう)と言って、「池鯉鮒」も「ちりゅう」と読むのです。絶対読めるわけがない❗なので、池鯉鮒宿のかわりに知立宿ともいいます

知立寺に池(御手洗池)があって、鯉や鮒が泳いでいたから江戸時代に当て字を付けられたようです。「池」の音読みが「チ」なのは知っていますが、「鯉」は「リ」、「鮒」は「ホ/フ」が音読みだそうで、「チリフ」。たしかに「ちりゅう」になりますね。

知立神社の多宝塔。ここはお寺と公園が一緒のようになっています。




於万の方像とあります。お万(長勝院)は知立神社の神主の娘で、徳川家康の側室となりました。長勝院は家康との間に子供(秀康)を身ごもりましたが、家康の正妻(築山殿)は、これを認めなかったため、長勝院と秀康は追放されてしまいます。

その後、築山殿が亡くなり、秀康の兄の信康(築山殿の子)は父への裏切りの疑いで切腹、本来ならば次男の秀康が家康の跡継ぎになるはずが、秀康は秀吉に人質に取られてしまい、家康の跡継ぎは異母弟の秀忠、後の2代目将軍徳川秀忠となります。



その後、秀康は秀吉の元で羽柴姓を名乗るも、結城(ゆうき)家に養子に出されてしまったので、結城秀康と名前で知られることになります。

正四位下まで出世したはずの結城秀康ですが、肖像画をみると、なんとも情けない表情をしています。あちこちと親を替えられて不遇の人生だったのですね。



お万の方の銅像はとても良く出来ていて、誰の作か調べてみると愛知大学名誉教授の方による作だそうです。

像を見ると、お万の方(長勝院)は二人の赤子を抱いています。知立神社によれば、結城秀康には双子の弟がいましたが出産後すぐに死んだことにされ、ひそかに育てられて知立神社の神主になったと言われています。

江戸時代は双子というのは忌み嫌われていたのが理由のようです。家康の正妻の築山殿が認めなかったのも双子で産まれたから、という説もあるそうです。

今では双子はおめでたい!と言われるのですが、江戸時代とはそんな時代だったのですね。お万の方の表情も双子を抱いて呆然と行き先を憂いているように見えます。



知立城址。知立城も知立寺も永見氏という神官が保有していましたが、今川氏に仕えていたので、桶狭間の戦いで義元が討ち取られるとともに知立城も落城してしまいます。



広重の五十三次。「知立」ではなく「池鯉鮒」と書いてある。ここは馬市が毎年初夏に開かれることで有名だったそうな。

甲斐や信濃から馬が400~500頭集められて、多くの人が馬を売買しに集まったので、芸人や遊女もやってきたと案内板に書いてあります。



知立でもお祭りの山車蔵がありました。毎年5月に開かれる。



池鯉鮒宿の本陣跡。



この辺りから、東海道沿いの所々に松並木が続きます。街道を歩いていると「松並木跡」として数本の松が植えられていることは度々見かけますが、これだけ元気な松の並木が続くのは初めてでした

かつてはマツクイムシの被害をよく耳にしましたが、最近は防虫対策が功を奏して全国的に減少傾向になっています。

かつては昼でも暗くなるほど鬱蒼とした松並木だったそうですが、伊勢湾台風で6~7割の松が倒れてしまったと書かれています。



松並木に沿ってかわいらしい彫刻が並んでいます。



一里塚。近くの来迎寺には織田信長の砦があったが、攻め上る今川義元の軍に落とされてしまった。



青麻神社。何やら色々な石碑がゴチャゴチャと寄せ集められていますが目を引いたのが力士像。「清見潟(きよみがた) 又市(またいち)」という名前でここに大変詳しい経歴が載っている。

三河湾の村で生まれ育ち、江戸相撲に入門して清見潟の5代目を襲名したという地元の誇りです。幕内前頭筆頭まで行って大関に土をつけたこともあったと。幕末から明治の激動の時代を相撲一本で貫いた人生です。






明治川神社。この神社では古い水の神様であるミクマリノカミの他に明治用水の功労者4人が神様として祀られています

全長50km以上の明治用水は水漏れの少ない人造石を使った日本で最初の近代的用水路で、矢作川(やはぎがわ)を分水して、このあたり一帯の安城(あんじょう)の地を不毛の地から日本デンマークと言われるほどの農業地帯へと変貌させました。

今でも明治用水は工業用水としても利用されており、一度明治用水が停まった時は、トヨタ工場の操業に多大な影響が出たそうです。



雲竜の松。写真で捉えきれなかったが放射状に延びた大変見事な松です。

この松の奥には永安寺というお寺があり、宿場町の人夫として助郷を命ぜられた村の男が、村全体に対するあまりの厳しさに、お奉行に免除を訴えたところ、願いを聞き届けられた代わりに死罪にされたことを忘れないように建てられました。

街道を歩いていると、よくこういう話に出くわしますが、江戸時代の不条理な一面ですね。



予科練の碑。予科練とは海軍の飛行機パイロットの養成制度です。14~17歳の少年が集められました。



予科練の碑の横にあった説明板を見ると、東海道の北西部が岡崎海軍航空隊の基地があったことがわかる。当然、滑走路もある。



有楽屋というラーメン屋で昼食にする。やっぱり運動しているとお腹が減るのでラーメンライスにしました。

ここから岡崎市です



弥五騰(やごと)神社。気になったのは、右の石碑の下に書かれた「溺死菩提」の字。調べてみると、江戸時代後期の大雨で矢作(やはぎ)川が決壊し14名が犠牲になったことを弔っていることが分かった。



矢作川にかかる矢作橋にあった像は幼い日吉丸(秀吉)が蜂須賀小六に出会った場面。この先の味噌屋での窃盗を手助けして手柄を立てたとか。あまり褒められたものではない。



矢作川。ヤマトタケルが川の中州にあった竹で矢を作ったという伝説が名前の由来です。



東海道名所図会の矢作橋。かなり立派な橋がかかっていたのですね。

(国立図書館アーカイブより)


八丁味噌はここで誕生しました。岡崎城から8丁(870m)離れていたことが名前の由来です。矢作川の伏流水の水質と、水運に恵まれていたことで全国に広まりました。

一般的に味噌に使う麹は米麹を使うのですが、八丁味噌の特徴は豆麹を使うことで豆の旨味を強めています。



東海道は国道1号線の北を進むのですが、岡崎城は1号線南にあります。岡崎城を見逃すわけにはいかないので東海道を外れます。

岡崎城は徳川家康の正家である松平氏の城です。家康はこの城で誕生しました

少年時代の家康(竹千代)は今川家や織田家の間で人質として行き来しますが、岡崎城の城主として、桶狭間の戦いの後、信長と清洲同盟を結び、朝廷から三河守の位をとるために松平姓から徳川姓へと改姓しました。



岡崎城は明治の廃城令でほぼ全てが撤去されてしまいました。今の天守は昭和34年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。



天守のなかには入ることができます。展示室は新しく、これはジオラマで天守をライトアップさせた図。



岡崎城の見学後、再び国道1号を北に陸橋を渡って東海道へ戻ります。

宿場町を通る街道は、外敵の侵入に備えてクランク型に折れ曲がっていることがよくありますが、ここ岡崎宿の街道は、三河の中心の岡崎城そばだけあって、27箇所も折れ曲がっています



実際に筆者が歩いたルートです。東海道は左下の岡崎城周辺には入らず国道1号線北を進みますが、筆者は遠回りして岡崎城を見てから再び東海道に戻っています。

27曲りの道も、いまでは縦横に道が整備されているので江戸時代の面影はありませんが、当時はこの道以外の道は無かったのでしょう。

27個の角を数えたわけではないですが、いままで歩いたどの宿場町よりも角が多いのは確かです。

この異常なほどの角の多さは宿場町の防御目的だではなくて、旅人に買い物をさせる目的があったそうです。デパートのエスカレーターがフロアを周らないと次のエスカレーターに行けなくしているのと同じですね



東海道名所図会を見ると、確かにクランク形状の町並みが描かれています。

岡崎は都会で商人(あきんど)が多いと書いてあります。左には「仙方延寿の良薬」とやらに人が集まっています

中央右に女郎たちに見送られて気分よく店を出ていく男に店の女が丁寧にお辞儀しているのが面白い。

岡崎宿は旅籠100軒以上で6500人の人口を抱えていたので熱田宿ほどではないけれど、桑名宿くらいの大規模な宿場町でした。

(国立図書館アーカイブ)


籠田(かごだ)公園角の常夜燈。町の開発に伴いあちこちに移設されてここに落ち着いたと書いてある。



籠田公園にある戦災復興の碑。岡崎市は他の名古屋衛星都市同様、1945年5月にB-29の大空襲を受けて町の1/3が焼けて280名が死亡しました。

さきほど出てきた海軍岡崎飛行場は空襲の被害に遭わなかったということですが、レイテ沖海戦で海軍航空隊は全滅したので、米軍はどうでもいいと思ったのでしょうか。



松が立っているところが本陣なのかなぁ。特に案内板がみつかりませんでした。知らずに歩く人には、ここが宿場町で27角あったなど全くわかりません。



路傍に置かれたオブジェ。助郷だそうですが、妙なキセルをくわえています。



岡崎宿を後にして、東名高速の岡崎ICを越えます。街道歩きで、高速道路ICにぶち当たると、歩道を見つけるのが実に厄介です。今回も迷ったあげく順路を発見、なんとか向こう側に行けました。



太平一里塚。エノキがかなり深く剪定されているけど大丈夫かな。ここは江戸から80里(320km)とのこと。まだまだ歩けるね~~。



乙川を越えて再び松並木を歩きます。そろそろゴールインのはず。



4時前に名鉄美合駅に到着。ここから再び名古屋へ戻ります。



5時前の名古屋駅の京都行新幹線のホームより。右の高いホテルビルの後ろがアパホテルでした。

次回は再び名古屋に戻って浜松あたりまで歩くつもりです。