2026年6月10日水曜日

【東海道】JR安倍川駅、府中宿、江尻宿、興津宿

 東海道歩き、島田宿から富士川までの旅の2日目です。1日目とまとめはコチラ

2日目のルートと記事で紹介したスポットを下にまとめます。2日目のみどころは、駿府城跡ですが、公園になっていて天守がないのであまり面白くはありません。


今回の2泊3日で利用した静岡駅のホテル オーレインは温泉付きで価格もお手頃なのに加えて、無料の朝食がわびしくなく質も良く開放的で大変良かったです。スケールメリットを効かせるホテルチェーンじゃなくて静岡の一店だけでこのクオリティーが出せるのは驚きです。

昨日の終点の安倍川駅から歩き始めたのが朝7時半です。今日も一日曇天予報。

東海道に戻って安倍川橋を渡ります。雲がなければ右手正面に富士山が見えるハズ。



広重の府中宿は安倍川(安部川)の川越人足を描いています。基本は肩車ですが増水時は絵のように4人がかりで担いだ台(連台)の上にお客を載せて運びました。

後ろに描かれているのは富士山ではなさそう。



東海道名所図会を見ると、連台に2人載せてる場合もあるようです。



安倍川橋を渡ると安倍川餅屋さんが何店かあります。早朝の開店前ですが、廃屋になりかけ(失礼!)なほどの古めかしさ。それでも福山雅治、仲間由紀恵も食べに来たとのこと。

帰りに静岡駅でお土産に買いましたが、安倍川餅は柔らかい餅にきな粉がついたのと、こし餡がついたセットになっています。



食べるとしたらこちらの店かな?でも元祖はさっきの店のような感じがしますが。



静岡駅を右方向に駿府城にむけて東海道を進みます。



筆者の記憶では街道は城の脇を通ることが多いのですが、ここは駿府城を正面に見ながら進みます。家康公の御威光に照らされながら進むわけです。



駿府城跡に立ち寄りますが、途中にあった徳川家康出陣キットのオブジェがプラモデルを模してあって大変面白い。



駿府城の濠に出てきました。このあたりが府中宿の中心部。旅籠43軒の駿河国最大の宿場町。京都の二条城の堀を思い浮かべました。



駿府城跡は広大な公園になっています。



徳川家康像。駿府城は家康が秀忠に将軍職を譲り渡したあとに作った城で、73歳で亡くなるまでの10年間を大御所としてここで過ごしました。

昨日歩いた藤枝宿の天ぷらを食べてお腹を壊して亡くなってしまいましたが、当時としては非常に長生きです。71歳で大坂冬の陣、72歳で夏の陣と東海道を2度往復しているのは驚異的です。しかも大戦争を率いている。

江戸城は息子に任せるという潔さを感じる一方で、隠居の家が巨大な城だというのは、やはり西半分の押さえは自分がやらねば、という意志があったのでしょう。

この像の後ろが天守閣があった場所で、透明なのぞき窓から発掘工事の現場が見れるようになっています。



天守閣発掘工事の様子。大変大掛かりな工事に驚く。駿府城の天守は江戸城の天守よりも大きかったのですが、家康の死後20年足らずで火災により焼失してしまいます。

ここから様子を見る限り、発掘調査にまだまだ何年もかかりそうで、天守の再建にはほど遠いといった感じです。

もとより江戸時代初めに焼失していて設計図もないらしいので再建計画も難しそう。



駿府城跡を出ると静岡県庁。板野友美が県の広告でがんばっていて嬉しい。




途中で見かけた西宮神社。筆者の故郷である兵庫県西宮に関りがあるのかなと思い調べてみると、西宮恵比寿と同じ恵比寿を祀っている。「えべっさん」ではなく「おいべっさん」という愛称らしい。

本宮の西宮恵比寿から、漁業を営む人々の豊漁を願うために恵比寿神を勧請しているそうな。



JR東静岡駅、静岡鉄道の長沼駅そばにあるバンダイの工場兼体験ミュージアム。国内唯一のガンプラ製造拠点。

さっき見た、プラモデルを模した徳川家康出陣キットはここがスポンサーだったのか!

ちなみに静岡鉄道はJR新静岡駅と清水駅をほぼ並走している一路線だけの鉄道会社。それでも人口が多いので経営は成り立っているのでしょう。



上原地区の上原堤といわれるため池の前にある子安地蔵尊。

説明板を読むと、徳川家康が武田勝頼攻めの際に、武田一門である池尻城の城主、穴山梅雪(信君)とここで会見し、梅雪は家康側に寝返ったという。梅雪を失った武田勢にとっては敗北へのターニングポイントだったようです。

穴山信君は武田信玄の甥で駿府進出の際は、反撃してきた北条と徳川の連合軍を池尻城に籠城して食い止めた実績を持つ重鎮でしたが、武田勝頼とはうまく行ってなかったようです。



地蔵尊の拝殿の裏にまわると、上原堤が一望できました。池の上に広がる睡蓮が見事。



江尻宿手前の巴川にかかる稚児橋にはとても良く出来た河童の子供の銅像があります。

由来を読むと、橋が完成した日に突然川から子供が現れて去って行ったので、河童の化身だと言われるようになったとか。




カッパ橋をこえて少しいったところが江尻宿の本陣のあったところです。さきほど出てきた穴山梅雪(信君)の江尻城は後ろ側にありました。

穴山梅雪ですが、家康に寝返った数ヶ月後に勝頼ともども武田家は滅亡、そしてその数ヶ月後には本能寺の変が起きて、家康とともに逃げる途中で地元民の襲撃に遭って殺されています。

江尻宿ですが旅籠50軒の大型の宿場町でした。そばに清水港があり、大坂との中継地になっていたので人の往来が多かったのでしょう。さきほどの西宮恵比寿の勧請の話も西宮港とのつながりを感じさせます。



広重の五十三次も清水港を描いています。



清水港と言えば、思い浮かべるのは「清水の次郎長」です。バクチと喧嘩の親分でしたが、その任侠ぶりが旧幕臣に買われ、明治維新後は清水港の発展のために力を尽くした人物です。

写真を見ると刀で斬りつけられそうな怖さのなかに、どことなく深い人情味を感じさせます。

江尻宿本陣から少し南に行ったところに清水の次郎長の墓があったのですが、気づいた時にはかなり通り過ぎた後でした。

「清水港の名物は お茶の香りと 男伊達」

江戸時代の静岡茶の主力生産地は静岡市の山間部であり、そこから運ばれた茶が江戸時代は和船で国内へ、明治時代は海外へ出荷されていました。



途中、お昼になったので、くら寿司に立ち寄ってお腹を膨らませてから再開です。

国道の脇道ですが、ここは細井の松原という松並木だったと書いてあります。しかし太平洋戦争の昭和19年に松根油(しょうこんゆ)採取の際に伐採されたとある。

そこまでしないと燃料が無かったのですね。知らなかった。

さらに根を掘り返していたときに多数の人骨が出てきて、それはおそらく東海道で行き倒れになった旅人だとして寺に葬ったと。



清水港の北部に来ると興津宿に近づいてきます。

途中に西園寺公望の晩年の住宅、坐漁荘(ざぎょうそう)が見学できるようになっているので入ってみます。

西園寺公望は明治、大正時代に総理大臣を務めた人で京都出身ですが、60歳を過ぎてこの興津が気に入って住宅を建てました。しかし政界を引退したわけではなく、総理大臣の選定や第一次世界大戦のパリ講和会議に出席したりと、活動を続けて90歳まで生きました。



日本庭園のなかにこういうテラスがあるのは大正時代だなと感じます。東京から汽車に乗って西園寺に面会しにやってくる人々は「西園寺詣で」と言ったそうです。




興津(おきつ)宿の中心部は公園になっています。興津宿は旅籠34軒と中規模の宿場町でした。



興津宿そばにあるJR興津駅で今日の行程を終わりにします。今日は27kmと比較的良く歩きましたが、曇天で気温が高くなく快適に歩くことができました。

このあと、再び静岡駅に戻り、2日連続で秋吉に行き、焼き鳥をビールでお腹に流し込みました。



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