東巌慧安(とうがんえあん)が鎌倉時代中期に創建しました。
ほとんど参拝客がいないので、林のなかの静かな空気を楽しめます。
境内に行く道とは別の竹林へ続く道があります。
嵐山のミニ版といったところ。
小堀遠州作といわれる枯山水庭園は、なんとぜいたくにも比叡山を借景にしています。
撮影していませんが、この前の廊下の天井は伏見城から持ってきたもので血の手形が残っている、いわゆる血天井。
内部は撮影禁止なのですが、狩野山楽の襖絵が有名です(正伝寺のサイトから)。
ただ正直暗くてよくわかりませんでした。
狩野山楽よりもずっと印象に残ったものが、経体大涅槃図と言われる、お経が綴られた線で描かれた釈迦入滅の絵です。江戸末期から大正時代の山崎弁栄(やまざきべんねい)という浄土宗の僧侶が描かれたものの複製ということですが、字を書きながら絵を描くという技術と、その集中力に強い宗教心を感じます。
ヤマザクラでしょうか。一本だけですがきれいに咲いています。
さて正伝寺をあとにして歩いていると、東海自然歩道のマップが。北に下になっているのでとても見にくい。尺八池から船山方面は以前歩きました。
大将軍神社。西賀茂の産土神(うぶすながみ)で磐長姫(イワナガヒメ)他4柱を祀る。産土神とは鎮守ともいう土地の守護神。イワナガヒメは女神だが、ブサイクなので、アマテラスの孫のニニギから婚約を断られ親元に送り返されるというストーリーになっている。ニニギが結婚したかったのはイワナガヒメの妹のコノハナノサクヤヒメ。
本殿は外側の構造物によって守られている。屋根の造りは流造り(ながれづくり)といい、曲線で反った形で、しかも切妻造りと異なり、屋根の片方が長い。
葺き方は、こけら葺きといい、薄い木材を重ねている。非常に丁寧な仕事が見て取れます。
次に訪れたのが神光院(じんこういん)です。真言宗のお寺で、本尊は弘法大使。「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受けて建立したことから神光院の名前が付いている。
濃いピンク色の梅の花。
弘法大師がご本尊ということで、役行者と不動明王の像がさりげなく庭に置かれている。
神光院の後は西村家別邸を訪ねて鴨川の御園橋を渡ったところ、大規模な工事中。調べてみるとこの辺りは万年渋滞地区で、橋幅を二倍にするための橋梁付け替え工事だそう。
京都らしさが失われないか複雑な気持ち。
途中に寄った上賀茂神社。唯一咲いていた桜の名前が蜂須賀桜(ハチスカザクラ)。カンヒザクラとヤマザクラの自然交配雑種で、徳島城で生育していたところからその頃の藩主の蜂須賀氏の名前がついている。カンヒザクラとその種類については先日京都府立植物園でいろいろ見てきたのでご参考まで。
これは上賀茂神社にあった桐(キリ)の巨木。葉が落ちているので、ぱっと見、楡の木のように見えるが、落葉広葉樹で葉っぱは朝顔のようなハート型をしている。湿気を通さないので高級木材として箪笥や琴などに使われている。
さて上賀茂神社のこのあたり一帯は、神官たちの屋敷となっており、社家(しゃけ)と呼ばれます。神官職は世襲制で江戸時代は200戸もあった。
前に流れる川は明神川。賀茂川の少し北から取水された川が、御生所川(みあれどころ)、御手洗川と名を変えて、社の敷地を通り再び賀茂川に戻る。この明神側は賀茂川に戻る手前の支流です。もともとは賀茂氏が農業用の水路として作った川ではないかとも言われています。
ちなみに、鴨川は出町柳あたりで、賀茂川と高野川に名前を変えます。
たちならぶ社家の前にあった大きな椋木(ムクノキ)。前回京都府立植物園でも見ましたがエノキとの見分けのつけ方が、葉っぱを見るしかないということで、この状態では無理。
社家の一つ、西村家別邸が一般公開されているので入ってみます。平安時代から続く歴代社家を明治時代に西村家が所有しました。
屋敷というほどの大きさはありませんが、明神川から導水している大きなお庭があります。
家屋から見た庭の姿。無鄰菴を彷彿させます。規模と趣向については無鄰菴のほうがはるかに格上ですが。
写真に写ってはいませんが左手前に禊のための窪んだ場所があります。3月になると身を清めるという古来からの習慣がありました。
また、手前の小川は、ぐるりと庭全体を周回しており、この小川を使って曲水の宴(きょくすいのえん)が行われていました。
曲水の宴のルールは、お酒のはいった杯が川を流れてくるので、自分の前に流れつく前て歌を詠み(短冊に書き)、お酒を飲み、皆が書き終わった後で、歌を品評して神様に奉納するというなんとも雅な遊びでした。
そのお酒を乗せるものを羽觴(うしょう)といい、こんな可愛らしいものでした。
西村家別邸の奥にはもう一つお庭があります。
説明していただいたご年配の男性はとてもおだやかで優しそうな方でした。
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