2025年11月19日水曜日

【西国街道】厚狭宿、小月宿、長府宿

2021年の夏から始めた西国街道歩きですが、今回の旅で終点の下関までたどり着きました。通算で30日間かかりました。総距離にして大体600kmほどです。

去年完遂した中山道は550kmほどで27日間かかっているので、江戸から下関まで1100kmを57日間で歩いたことになります。

西国街道と中山道を比べて見ると、旧街道の雰囲気は中山道の方が比較的よく保存されています。

西国街道にも岡山県の矢掛宿のように大変良く保存されている宿場町もありますが、ほとんどは面影は消失してしまっています。

しかし、中山道が浅間山、御嶽山、木曽山脈などの山々の景色が素晴らしかったように、西国街道は穏やかな瀬戸内海とそれに浮かぶ島々の景色が大変素晴らしかったです。


今回の1泊2日の旅ですが下記のような結果です。1日目は、あまり見どころのない行程でしたが、2日目は長門国の国府であった長府や下関で見どころが多く、色々と寄り道をしたので6時間もかかっています。

  • 1日目:厚狭宿(駅)、小月(おづき)宿、長府宿(駅) 26km、6時間
  • 2日目:長府宿(駅)、下関宿(駅) 18km、6時間


朝7時前に家を出て京都駅からのぞみ号で新山口駅、新山口駅からこだま号で厚狭(あさ)駅に到着したのが10時過ぎでした。

前回、厚狭駅まで2泊3日で歩いたのが5月のGW明けなのでほぼ半年ぶりの西国街道になります。

その間に東海道歩きを始めましたが、何故西国街道を後回しにしていたかというと、下関のフグの旬が11月からだからです😄

厚狭と書いて「あさ」と読むのですが知らない人は絶対に読めませんね。ちなみにすぐ東に山陽本線の厚東駅があるのですが、これは「ことう」と読みます。

厚狭駅の周りは失礼ながら何もないのですが、日本海の長門市へ縦に結ぶ美弥線との接続駅になっているので1999年に新幹線停車駅となりました。

ちなみにすぐ北の美弥線には厚保駅があって、これは「あつ」です。パターンがない!

この「厚」はかつてこのあたりを支配していた物部氏系の厚氏が由来になっています。



新幹線駅になってからだと思われる新しめの住宅が駅の周りにポツポツとありましたが、10分も歩けばもうこんな感じです。



長門国に入ってから今回の旅では庚申塔をよく見かけるようになりました。庚申塔は中山道、特に木曽路で度々見かけましたが西日本ではあまり見かけることはありません。

厚氏が仏教伝来に反対した物部氏系統なので、古い神である庚申信仰が盛んだったのかもしれません。

面白いことに庚申と書かずに「幸神」になっています。



今度は猿田彦大神を祀る石碑。調べてみると猿田彦と物部氏は関係が深いそうで、やはり厚氏と関連があったようです。



筆者の座右の書「まんが古事記」を見ると、天孫降臨の一行を先導する猿田彦が描かれています。猿田彦のすぐ後ろがニニギちゃんです。先導しているということは猿田彦は古い神であることを意味しており、猿田彦の別名は道祖神です。つまり、庚申さんと同じ神なのだと思われます。

猿田彦と言えば、手塚治虫「火の鳥」では主人公級の位置づけでした。



途中から県道を大きく外れて蓮台寺(れんだいじ)峠に向かう道に変わります。

このあたりから下関市です。

今回の旅を計画していたときに、この蓮台寺峠に続く道が大変な悪路だと書いているブログが幾つかあったのでかなり不安だったのですが、歩けないほどの悪路でもなさそうだったので思い切って進むことにします

どうやら、ぬかるんだ箇所もあるそうで、そのために今回はゴアテックスのメリルMOABを履いてきました。念のため登山用ストックも持参。

広島県の松子山峠が、もはや道とは言えないとんでもない荒れ地だったので日本地理院地図の黒線の道には要注意なのです。



しばらく軽自動車の轍が残る道でしたが、途中で崩落箇所があり、ここから先は徒歩でしか行けない道。



一応最近に草刈り機を入れてくれたようです。夏の時期にしばらく手入れがなかったらまたたく間に草に覆われていたでしょう。



藪枝に覆われた薄暗い道は悪い予感でいっぱいです。横には再び庚申さんが。

その横には石碑があり、大正4年の碑文には、ここの村の伊藤初五郎さんが慶応、明治に何か土地に関して尽力をされたことで何かを受賞したようなことが書かれています。



3メートルほどの切り通しの道。おかげで歩きやすいです。

ぬかるみの箇所もなく、歩きづらい道もありませんでした。旅の前にブログで色々見た様子とは随分違うので、最近大きく手入れされたのかも知れません。草も刈られていて全く問題はありません。



黄檗宗、蓮台寺(れんだいじ)に立ち寄ります。サザンカの花がきれいに咲いています。

蓮台寺の後ろには白華山(びゃくげさん)(297m)があります。

伝承によると平安時代の勅使が瀬戸内を航行中に嵐に遭って難渋していたときに、百華山の頂上が光り輝き、それを目印にして九死に一生を得たため、その話を聞いた花山法皇がこの寺に十一面観音像を奉納したとのこと。




「こんな低い山が本当に瀬戸内から見えるのか?」と思い無粋にもGoogleEarthで確認したところ、ちゃんと白華山の頂上は見えました。

それでも「華山」と「花山天皇」が、こじつけじゃないかと無粋にも疑ってしまいます。

花山天皇と言えば、去年NHK大河ドラマ「光る君へ」で登場していました。

17歳で即位したわがまま天皇でしたが愛する女を病で失い悲嘆に暮れているところを藤原道長の父である兼家の策略で出家させられ、兼家の孫である一条天皇に天皇の座を奪われます。

花山天皇はその後、法皇として仏門に入り真面目に暮らしたということですが、お忍びで愛人の館に通っていたところを間違えられて襲撃されるという事件も「光る君へ」で描かれていました。




蓮台寺から瀬戸内海は見えませんでしたが、小月(おづき)宿方面の町並みが見下ろせました。



12時半だったのでランチ。ちょうどテーブル(傾いていましたが)もあり快適でした。ランチは新幹線京都駅で買った柿の葉弁当です。

ちなみに今日はマムートのザック「リチウム40」のデビューでした。街道歩きは登山と違ってお土産等々詰め込むので40リットルが役に立ちました。



蓮台寺から整備された参道を下りたところに石碑があり、「花山法皇御作 観音 白崋山 蓮台寺」とあります。

観音像を花山法皇が自ら彫ったことになっているのですか。伝承はどんどん膨らみますね。



今回の旅で一番心配していた蓮台寺峠を難なく通り抜けて一安心。山陽自動車道の下をくぐりぬけて下関へと向かって行きます。

ここにも庚申さんが。



吉田地区に入ると道標があり、どうやら街道分岐点(追分)のようです。今、立っているのが西国街道(山陽道)で道標には「右 上方道」と彫られています。

奥にある(ピンクの車の左)のは高札場ですが、神社に改造されています。



萩と赤間関を結ぶルートを赤間関街道と言うようで、ここ吉田は一番右の「中道筋」に位置します。萩は長州藩の拠点である萩城があり、赤間関は西国街道の終点です

(山口県立山口博物館サイトより)


三界萬霊とは仏界、欲界、色界のすべての霊を祀るという意味。街道は直進ですが、400mほど南に行くと高杉晋作の墓があるということなので寄り道します。



高杉晋作の墓は東行庵(とうぎょうあん)というお寺の境内のなかにあります。ちょうど紅葉の季節なので紅葉狩りの人たちが集まっています。



境内は公園のようになっています。庵の初代主は高杉晋作の愛妾が務めたとあります。



高杉晋作の墓。高杉晋作と言えば身分を問わない奇兵隊を編成したことで有名ですが、長州藩における攘夷派の急先鋒的存在。

朝廷を実質乗っ取って孝明天皇を意のままに操り、英仏蘭米の四国艦隊と戦い、そして幕府の連合軍を返り討ちに。当時の長州藩は薩摩藩より過激な印象があります。



高杉晋作像。30歳を前に結核で亡くなってしまいます。

パンフレットに「1863年、高杉晋作が隠遁を決意して~西行法師の人となりを慕って~名を東行と称した」と書いてありました。Wikiで見ると晋作はたくさん別名を持っていて東行というのは俳号のようなものでした。この場所、東行庵の名前の由来になっています。

「隠遁を決意」というと引退したみたいに聞こえますが24歳の晋作が引退なんぞ考えるわけがありません。第一次長州征伐で長州藩の佐幕派によって形だけ追放されていただけです。



こちらは山県有朋像。晋作とほぼ同い年で晋作とともに奇兵隊を率いて活躍をした人なのですが、明治維新後の日清戦争など軍国主義のイメージが強すぎるので、晋作ほど人気はありませんね。ちょっと長生きし過ぎたかな。



再び庚申さん。



で、また庚申さん。柿の実と調和しています。



街道にしては細い道ですが、情緒があって楽しい。




そいでもって再び庚申さん。ジャイアント級です。

関西でこれだけ庚申塔を見かけるのはここだけかもしれません。

庚申信仰では60日に一度、夜に寝ている間に体の中に住んでいる虫が自分の良くない行いを神様に報告しにいくので、それをさせないために夜通し起きるという習慣があったそうですが、この地方の人々も60日毎に徹夜していたのでしょうか。



小月の宿場町があったところです。また、ここはさきほど出てきた萩につながる赤間関街道の3本道のうちの1本になっています。



このあたりが小月宿(おづき)の本陣跡のはずなんですが、残念ながら案内板も面影もない。



幕末の時代に母や夫を良く助けた政(まさ)という妻を、この清末(きよすえ)地区の人々が称えて明治に建てられた記念碑。親孝行という言葉も近年は全く聞かなくなりました。



小月宿から長府駅までは特に見どころのない道が長々と続きます。



ここ王司村出身の工兵伍長の記念碑。おそらく日露戦争でしょう。揮毫は当時陸軍大臣であった田中義一。後に総理大臣になりました。



記念碑のすぐ横が一里塚になっています。宇部と書いてありますが宇部市は現在は厚狭宿の西のはず。なぜ宇部なのかは調べたけれどわかりません。



めったに見ないのですが、蒲です。鰻のかば焼きって、江戸では最初は鰻を丸ごと串刺しにして焼いたことから蒲焼という名前が付いたのです。色も鰻に似てますね。



4時過ぎに今日のゴールの長府駅に到着しました。ここで山陽本線に乗り換えて宿のある下関駅へ向かいます。



下関はやはり大きな街でした。大丸百貨店もある。



夕食は居酒屋「千鳥丸」。開店5時に入りました。刺身と鶏肉を食べて食後に下関名物の瓦そばをいただきます。茹でた茶そばを薄切り肉と一緒に痛めて錦糸卵と一緒に食べる料理。



11月下旬なので6時になるともう夜です。予約していたドーミーインに向かいます。下関のドーミーインは自家温泉があって何度も入浴しました。塩分多めですが、屋上の露天風呂が大変気持ちよかったです。



 

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