2024年11月25日月曜日

【中山道】須原宿、野尻宿、三留野宿

<阿寺渓谷のエメラルドグリーン(阿寺ブルー)>


 

中山道の木曽路の中ほどにある福島宿から三留野宿まで1泊2日の旅の二日目です。

一日目の福島宿から須原宿までの記事はこちら

二日目のルートと記事で紹介したスポットを下に記します。二日目の街道も国道の脇道が主で特に難路はありません。宿場町もそれなりの面影を残していますが、一番の見どころは街道沿いではありませんが、阿寺渓谷の美しいエメラルドグリーンの水面でした。


民宿すはらに泊った24日の夜はとても寒くて寝ていても顔が冷たく、朝は霜が降りていました。やはり木曽路は寒いですね。

朝は昨夜コンビニで買ったサトウのごはんときんぴらごぼうを電子レンジで温めて食べたら7時半に出発です。

須原宿にある定勝寺の紅葉。今の建物は秀吉の時代に再建されたもので、それまで木曽川の氾濫で三度流されたそうです。



定勝寺そばにあった水舟。



子供だけ魚つりOKの看板。大人がやると商売目的になるからなのでしょうが、とても良いアイデアだと思います。



七笑って時々聞いたことある銘柄ですが飲んだことはありません。水の良さは文句なしですが、お米はどこで作ってるんだろうと思い調べてみると寒さに強い美山錦で諏訪湖の北東で生産されているようです。


黒ずんでいてよく読めませんが「水害記念碑」と書いてあります。これは木曽川の氾濫ではなくて大正時代の土石流で26名が犠牲になったそうです。すぐ東に壁のような木曽山脈があるのでいったん土石流が発生すると恐ろしい被害になったのでしょう。

豊富な水の恵みの裏にはこういう危険もあるのですね。



歩いてきた方向を振り返ると三沢岳(2846m)がよく見えます。



野尻宿手前で。70~80年代に描かれたものでしょうか。


野尻宿。かつては千人以上が定住する奈良井宿に近い大きな宿場町だったのですが、明治と昭和の火事により江戸時代の面影は無くなってしまったそうですが、それでも街道らしさは残っています。



野尻宿は外敵来襲にそなえて「七曲り」といい、このようにカーブが多かったそうです。この家は野尻宿の西のはずれにあるので「はずれ」と呼ばれていたと書いてあります。あまり良い名前ではないですね。

ここを右(南東)に曲がると中山道の迂回路である与川道に入ります。


与川道はこの先の山道を進んで三留野宿(JR南木曽駅)まで続いています。

与川道は本道である中山道が木曽川の氾濫で歩けなくなってしまった場合の迂回路で14㎞ほどあり、歩くと5時間くらいかかるようです。

本当は今回の旅に加えて与川道を歩くつもりだったのですが、今月11月初めに野尻の先で落石があり歩けなくなってしまいました。



野尻宿を過ぎたところで紅葉で大変有名な阿寺(あてら)渓谷に寄り道をすることにします。これは入り口にあった案内版です。



木曽川の橋を渡って渓谷の入り口にやってきました。渓谷の道はきれいに整備された車道になっていて時折観光目当ての車が出入りしています。

渓谷なので当たり前ですが登り坂になっています。木曽川がすでに標高500mでそこから700mまで登ることになるので歩くのはちょっと骨がおれますが、新しく履いたALTRAの靴は足指でキックする感覚があり比較的楽に登れました。



千畳岩。渓流の音が反射するらしい。コンサートホールの天井や壁もこんな感じです。目をつぶって聞いてみるとたしかに壁側からサワサラと音がする。


目当てにしていた紅葉はほぼ全くありません。考えてみれば木曽路でも紅葉がほぼ終わっているのに、さらに標高の高い阿寺渓谷ではもっと終わっているというわけです。

その代わり水面の美しさに目を奪われました。案内版には「阿寺川は雨が降っても濁らない」と言われていると書いてありました。その理由は渓谷が溶結凝灰岩というとても硬い岩石でできているので風化によって微粒子になりにくい性質があるとのこと。

溶結凝灰岩というのは火山の噴出物が堆積したものが熱と重力によって固まった岩石だそうで、陶器みたいなものでしょうか。


この鉄道の陸橋は大正から昭和時代に使われていた日本で最初の森林鉄道跡です。阿寺渓谷の林は明治時代は御料林、つまり皇室所有の林であり皇室の貴重な収入源になっていたそうです。



川の真ん中に岩塊が。どこからか転がってきたのでしょう。何千年前?何万年?


この美しいエメラルドグリーンは「阿寺ブルー」と言われています。




なかでも阿寺ブルーが一番美しかったのが狐、狸ヶ淵と呼ばれる場所です。日照の具合が特に良かったのかと思いますが、エメラルドグリーンがキラキラと光り輝き、岩陰に向けてターコイズブルーへと変わっていきます



阿寺渓谷のベストショットかな。車で来ている人は通り過ぎていましたが、ここを見ずに帰るべからず。



犬帰りの淵。断崖が厳しいので怖くなった犬が帰ってしまう。




駐車場があり渓谷沿いに遊歩道が設けられているので歩いてみます。



遊歩道というからウッドデッキみたいな道を想像していたらちょっとした登山道でした。



六段の滝。滝というのはいつも名所になるのですが、行ってみると感動するような景色は少ないような気がします。多分、あちこちでいろんな滝を見過ぎてしまったからでしょうか。




30分弱でしたが登山気分を楽しめました。本当の登山だとこういう沢道が何時間も続いて疲れるものです。

阿寺渓谷はまだ奥のキャンプ場まで続くのですが、時間を考えて引き返すことにします。



帰路に見つけた阿寺山の神と呼ばれる神社。案内版に杣人(そまびと)のことが書いてあります。

杣人については山本常一さん「山に生きる人々」に詳しく書かれていましたが、代表的な杣人が「木曽のナァ~中乗りさん~」の歌に出てくる「中乗りさん」であり、伐採した丸太の上に乗って枝に引っかからないようにして山の斜面を川まで下りていくという仕事です。

非常な熟練が必要で1000人に1人くらいしかできる人がおらず、夏は豪雨で筏が流されるので寒い冬の仕事だったと書いてありました。

案内版には杣人たちの月に一度の楽しみがこの山の神の前で法被をきて木曽節を歌って踊ることだったと書いてあります。

いかに現代に生きる我々が幸せかがわかりますね。



阿寺渓谷を出て木曽川を渡る橋の手前で見えた木曽山脈。



下がARヤマナビのアプリによる解説。今回の旅で木曽山脈のオールスターが見えたのはここだけです



木曽川に映るオールスター。護岸工事がなければベストショットになっていたでしょう。



中山道に戻って三留野宿に向けて再び歩き始めます。



十二兼(じゅうにかね)駅手前で見えたきれいな稜線は伊勢山(1373m)。変わった名前の駅だなと思い調べてみると、セ(狭)、ニ(土地)、カ(窪地)、ネ(尾根)、つまり「セニカネ」が「ジュウニカネ」になったとあります。理解が難しいですが、変化の厳しい土地なんだなということは分かります。

ちなみにJR中央線が伊勢山を貫くトンネルが読書(よみかき)トンネルといいますが、これは、ヨ(与川)、ミ(三留野)、カキ(柿其)、つまり「ヨミカキ」が「読書」になったそうです。

ダジャレのセンスからして、この二つを命名した人は同一人物ではないでしょうか?

特に読書トンネルの由来については景色が見れないので本を読むしかないと誰もが思うことでしょう。

十二兼駅の東、つまりこの写真の右側には柿其(カキゾレ)渓谷という名所があり、阿寺渓谷と同じように紅葉と美しい水の色を楽しめるようです。



ブロック状に割れている方状節理がよくわかる。



木曽川の石の色が白くなったと思い地質図を調べてみるとどうやらこのあたりから花崗岩に変わってきているようです。



ガイドブックを見るとちょうどこのあたりに、かつて羅天橋という名前の桟(さん)があり、木曽の桟に負けず劣らずの難所だったそうです。



信州デジタルコモンズのサイトで木曽路名所図会が閲覧できたので羅天橋を探してみましたが多分これでしょう。恐ろしすぎます。

(信州デジタルコモンズより)


あとはずっと木曽川沿いの国道わきの道だったのでひたすら歩いてようやく三留野宿にやってきました。

この先からずっと京都まではすでに踏破済みなので、ついに中山道コンプリートです❗❗

JR南木曽(なぎそ)駅に着いたのが14時過ぎで、次の列車まであと30分ほどあり駅前の喫茶店で外国人に囲まれながらケーキセットを食べて7年間の中山道の旅を思い出して感慨にふけりました。

中山道と並行して始めた西国街道の旅もすでに山口県に入って終盤ですので、来年はいよいよ東海道にチャレンジしたいと思います



2024年11月24日日曜日

【中山道】福島宿~須原宿

 <木曽川の名所 寝覚の床>

今回の2泊3日の旅でいよいよ中山道を歩き切ることになります。初めて歩いたのが2017年の大井宿~大湫宿間だったので7年がかりの取り組みの完了となり感慨ひとしおです。

過去のブログを振り返って地図上に江戸から京都の間の69の宿場をプロットすると下図のようになりました。

日帰りから最大3泊4日までの旅をつなげる形で途中いろいろ寄り道もしましたが、歩いた日数で言えば合計27日になります。これは江戸時代の終わりに皇女和宮一行が歩いた日数にほぼ等しいです

今回、最後の中山道歩きの旅は中間地点の福島宿(JR木曽福島駅)から三留野宿(JR南木曽駅)までの1泊2日になります。


今回の1泊2日の旅の行程はこんな感じです。2日目は阿寺渓谷に寄ったので街道歩きの5割増しくらいになっているはずです。

  • 1日目 福島宿(JR木曽福島駅)~須原宿 6時間、23km、累積標高300m、3.4万歩
  • 2日目 須原宿~三留野宿(JR南木曽駅) 6.5時間、27km、累積標高370m、3.8万歩

全体的に街道から眺める木曽川の巨石や青い水面の美しさと紅葉の華やかさがとても印象的でした。一番の名所が木曽川の「寝覚の床」と言われる場所ですが、阿寺渓谷の吸い込まれるような神秘的な美しさのほうが格が上でした。


■1日目 福島宿(JR木曽福島駅)~須原宿

一日目のルートと記事で紹介したスポットを記します。名所である木曽の桟、寝覚の床のある木曽川沿いに、時折り姿を見せる木曽山脈の雪の山頂が素晴らしいルートです。


新幹線から名古屋で特急しなのに乗り継いで約1年ぶりに前回の終着地点であるJR木曽福島駅に到着しました。10時半です。


今回は靴をトレイルランニングをやる人たちに好評なALTRAに新調しました。「VIA OLYMPUS2」というモデルでオンロード用の厚底シューズです

今までメリルのMOAB3を愛用してきたのですが、ALTRAの靴はクッション性が高く衝撃吸収性が高いので全体的に2,3割足腰の疲れが少ないように感じました。

また靴先がワイドなのも特徴で足指で蹴る感覚があり登り坂がずいぶん楽です。

ただ歩いていてプヨプヨするので普段履きはやっぱりメリルがいいかな。



今年は主に西国街道を攻めていたので、久しぶりに中山道を歩くと山中の集落の雰囲気に独特の味わいを感じます。



中山道の案内版を見ると木曽路というのは贄川宿から馬籠宿までの11宿までの道を言うと書いてあります。贄川宿の手前はブドウ畑のあった塩尻で、馬籠を過ぎると恵那市なので、その間が木曽路だったのかと納得。



中央線の廃線トンネルのなかを恐る恐る入ります。今の中央線はもっと長いトンネルを一直線にぶち抜いている。



短いトンネルなので出口の光が内部が見えるのでまだまし。



御嶽山の遥拝所です。マップで御嶽山方向を眺めてみましたが樹木に覆われているせいか確認できませんでした。



これは去年鳥居峠の遥拝所で見えた御嶽山です。1200mの鳥居峠に比べてここの遥拝所は800mほどで低いから見えないのか。でも御嶽山には随分近いのですが。



遥拝所で見えなくて残念と思って歩いていると道の駅の向こうにはっきりと御嶽山が見えました。去年より一週間くらい前くらいにしては山頂の雪の量が今と随分違います。やはり今年はかなり気温が高いのでしょう。



お昼も近くなって道の駅には食べ物屋さんがいろいろありそうですが、残念ながら線路が間にあって下りられません。。。

写真左手に大きな神社のようなものが見えますが、調べてみると御嶽教という教団の本営だそうです。信者さんは3万人近くおられるとか。



中央線と紅葉。



赤い橋のあるところが名所でかつて「木曽の桟(さん)」があったところです。



鉄道や車道、鉄橋が整備されている今から想像するのは困難ですが、昔は木曽川の断崖に丸太を打ち付けて出来た道を歩いていたそうです。

江戸時代前半には尾張藩によって石積みの道が建設されたそうですが、それでも十分怖かったと思います。


(上松町観光サイトより)


木曽の桟跡の近くで撮った写真。川に沈んだ石が、水族館のクジラのように見えます。



上松宿にやってきました。




江戸時代にできた八幡神社。上松町で一番古い神社とある。



山門鐘楼。何かのイベントらしくおじいちゃんおばあちゃんが集まっていました。



13時近くなり、上松駅近くのGoogle Map上の食べ物屋さんはどこも閉まっているなか唯一開店していたのが駅前の「いろは寿司」。このお店もたまたま予約があったから開けていたそうです。

考えてみれば山中のはずの木曽路で唯一開店しているのがお寿司というのも現代という時代なのですねぇ。それなりの値段はしましたが、なかなか美味しかったです。



今回の旅を通して落葉の時期でしたが時折り見頃の紅葉を楽しめます。



上松材木役所跡。尾張藩直轄で山林の管理をしていた場所。以前は地元にまかせていたら乱伐が進んで禿山(尽山)だらけになったそうです。



材木役所跡の奥にあったのが諏訪神社。諏訪湖にあった諏訪神社と同様、タケミナカタノカミが御祭神です。タケミナカタノカミはオオクニヌシの次男の強い戦士でしたが、アマテラス陣営から派遣されたもっと強い戦士にやられて、諏訪の地から外へ出ない約束をさせられます。



諏訪神社の後ろに見えるのが三沢岳(2846m)。木曽山脈のなかでも少し西寄りの山です。



南東方向には中央やや左に南駒ヶ岳(2841m)、左に空木(うつぎ)岳(2864m)が見えます。



はっきり読めないけれど「三十三所観...」と書いてある。調べてみると西国三十三所の木曽版といったものがあるらしい。ここは多分その中の一箇所なのでしょう。こういうのを写し霊場と言うそうです。



この雰囲気のあるところを真っ直ぐいくと街道なのですが、右に折れて名所の寝覚の床へ寄り道をします。




かなり下にありますが、頑張って下りていきます。途中でお寺の境内を通らねばならず入場料を取られます。入り口のおじさんが寝ていたので通り過ぎれましたが、起こしてお金を払いました。



真っ赤な紅葉を前景に寝覚の床(ねざめのとこ)。寝覚の床の名前の由来は室町時代の謡曲だったり浦島太郎が竜宮城から帰ってからここにやってきたとかいろいろあるようですが、「寝覚」というのは夜に床にはいっても目がさえてなかなか眠れないことを言うそうです。



人が立っているのが岩石の巨大さがわかっていい感じです。花崗岩がこんな風にブロック状に割れているのを方状節理と言います。細長くなると柱状節理。




寝覚の床から再び街道へと登って戻ってきました。



桂の大木。枯れてしまったのかと思いきや幹の間からハート型の葉が出てきています。



左が麦草岳(2733m)、右が木曽駒ヶ岳(2956m)。深く切れ込んだ巨大な沢から豊かな清水がここまで運ばれ来るのですね。



小野の滝。すぐ上が中央線の陸橋になっている。



広重・英泉の合作とされる中山道六十九次の「上松」に描かれている滝が小野の滝だそうですが、木曽の桟と寝覚の床とが全てミックスされたような絵になっているのが面白い。いわゆる「イメージ図」ってやつですね。

(上松町観光サイトより)


国道から少し脇道に入ったところにある萩原の一里塚跡。



なんて書いてあるのかよくわからないが、ガイドブックによると右の石は「南無妙法蓮華経題目碑」で中央の石は「廿三夜塔」らしい。

「南無妙法蓮~」については西国街道の尾道宿の手前で六字名号石碑という名前で見かけましたがはるかに大きな石碑でした。ここにも日蓮宗の活動が小規模ながらあったのでしょう。

廿三夜塔というのは初めて聞きましたが、調べると特定の月齢の月を拝むという民間宗教(講)で、特に23日目が一番人気があったそうです。23日目の月は半月(下弦の月)なのですが、なぜ特に人気があったのでしょう?

これについて色々と考えたのですが筆者の説はこうです。月齢によって月が登る時間帯が変わります。7日目の上弦の月だとお昼に登って早すぎます。15日目の満月で18時頃でまだ早いし明るすぎる。

23日目の下弦の月は真夜中に登るちょうど良い塩梅の明るさだったんじゃないでしょうか。
ただ、農民の朝は早いので翌朝ちゃんと起きれたかどうかが心配ですが。



紅葉。



木曽古道の標識がありますが、この坂道を進むと木曽山脈の方にいってしまいます。



JR中央線のすぐ上を通ります。道らしくない道で途中で畑に出てきたので間違えたかな?と思いきやおじいさんが通れと手招きするので進みました。



このあたりは、家屋の横に生活用水として使われている湧き水がたくさんあります。3000m近い山々を通って運ばれてくる清らかな水を毎日飲めるというのは羨ましい。



JR倉本駅。空木岳の登山口になっています。



庚申塔。上松町には歴史に詳しい方がいらっしゃるようで庚申について説明版がありました。

60日に1度、夜に寝ている間に体の中に住んでいる虫が自分の良くない行いを神様に報告しにいくので、それをさせないために夜通し起きるという習慣があったそうです。

60日周期のカレンダーは中国の干支(かんし)から来ているもので、そのなかの庚申(かのえさる)の日が虫が告げ口をする日だということです。

江戸時代に流行っていた信仰ということですが、先の廿三夜講とか、こういうイベントを色々設けることで単調になりがちな毎日にメリハリをつけていたのでしょうね。

中央右の背の高い石碑はさきほどの「南無妙法蓮華経」の題目碑。



庚申塔そばにあった柿の木。



木曽川の西側に西欧風の建物があったのでラブホテルか?(失礼)と思いきや、桃山発電所という大正時代の水力発電施設でした(最大出力2万6千ワット)。

木曽川にはここを含めて十カ所ほどの水力発電所が大正時代に建てられて電力不足の関西へ供給できるようになったとのこと。

「プロジェクトX」で黒部ダムを見ましたが、昭和になって戦後はそれでも関西は停電が頻発するようになったので危険を承知で建設したストーリーでした。黒部ダムの最大出力は33万ワット。

ちなみに先日登った福井県の三十三間山に計画されている風力発電は17基で10万ワットだったので、発電技術も進歩したものです。



須原宿が近づいてきました。16時15分ですが日が暮れてきました。冬が近づくと山中はあっという間に日が暮れてしまいます。



ようやく今日のゴールの須原宿に到着しました。水舟というのは後から出てきます。



明治時代に木曽路を旅した幸田露伴が須原宿の宿の様子を小説にしたと書いてある。「風流佛」という作品。今度読んでみよう。

須原宿の女中が冬の木曽路を歩いた露伴にさぞやお疲れでしょうと花漬を差し出したとあります。花漬というのは食したことはありませんが文字通りお花の漬物で「梅桃桜」を漬けたものと女中は言っているのでたいそう風流なものです。



須原宿はなかなか旅籠の雰囲気を感じさせる場所です。



ここが本陣跡と書いてあります。周りが良い感じなのに肝心の本陣が全く面影がなく残念。本陣を営んだ西尾家は庄屋さんで酒造りもしていて作っているお酒の銘柄が「木曽の桟」。「桟」は「かけはし」と読むようになっています。



須原宿の碑。前にある丸太をくりぬいたものが水舟と言われるもので須原宿の家屋の前のあちこちに見かけます。どんどん湧いてくる清水をいつでも誰でも飲めるというのは実に素晴らしいと感じます。

石碑には正岡子規の句があり、先の幸田露伴と同い年の子規も須原宿に泊ったそうです。句は宿にいるけれど夜寝れなくて月を見ようにも山が邪魔して月が見えないといった内容。

病弱だったせいか、元気のない句ですね。



こちらが今日の宿、民宿すはらさんです。一日一組しか泊めないお宿なので今日は筆者一人だけです。

主人いわくお客さんの9割は外国人で宿帳も英語でした。今回の旅も11月でたまたまキャンセルが入って空いた日が24日だったので、それに合わせて日程を組んだのです。

とにかく木曽路はジャパンブームのせいで宿を確保するのが一苦労です。



宿で主人から鍵を渡されたら主人は自宅に戻るので、あとは一人っきりになります。建物はいわゆる古民家ですが水回りは新しくて清潔なので快適です。

素泊まりなので夕食は歩いて7分ほどの本陣という国道沿いのお店でトンカツ定食を食べました。あんまり美味しくはなかった。

コンビニも国道沿いにあって便利ですが、国道へ行く道は足元が暗いのでLEDライトを持参して正解でした。

コンビニで買ったハイボールとピーナッツをつまんで布団にもぐりこみます。

>二日目はコチラ