2024年7月20日土曜日

深坂古道(紫式部が通った越前への道)

 7月も終盤となりそろそろ梅雨も明けようかという時期、気温は35度を超える日も多くなってきました。

我が仰木の里の畑でも急にキュウリが実らなくなりおかしいと思ったところ、35度を超えると生育が止まるようです。2週間前に撒いたニンジンの種も発芽しないのは35度を超えるとほとんど発芽しなくなるから。

暑すぎて長距離歩けないので、今回は歩く距離は短いけれどコンテンツ重視の深坂古道を行きました。深坂古道の歴史的意味は、①紫式部が通った道であることに加えて、②平清盛が敦賀-琵琶湖間の運河掘削計画の経路であった点にあります。

深坂古道は敦賀湾と琵琶湖北端を結ぶ経路にあり、敦賀三山の一つ、岩籠山(765m)のそばにあります。



拡大するとこのようになります。深坂古道は琵琶湖から敦賀までの最短でかつ高低差の少ないルートであったので、古来から人や物資の行き来に使われていました。

今、大河ドラマ「光る君へ」を毎週見ていますが、長らく職のなかった紫式部(まひろ)の父、藤原為時(ためとき)に突如、越前の国守の職が回ってきたので、為時は娘のまひろを連れて越前へ赴任の旅に就きます。

彼らは京の都から大津で船にのり、塩津で下船してから深坂古道を越えて敦賀へ向かったというわけです。

ドラマでは、政治工作のできない生真面目な無職の父(為時)を思いやって、藤原道長と秘密の恋人関係の紫式部が道長に口添えしたおかげで道長が為時に越前国守の職を与えたように描かれていましたが、これはドラマの脚色です。


加えて、同じく平安時代、紫式部の頃から150年ほど後(平安時代は長い!)、平清盛が敦賀と琵琶湖を水路でむすんでしまおうという壮大な計画を立てます。

敦賀からの笙(しょう)の川と、琵琶湖からの大川の間にある深坂古道の部分を水路でつないでしまえば、舟でむすぶことができるわけです。

といっても深坂古道の最高点は深坂峠といわれる標高370mの地形なので平安時代の土木技術では無理があり開通には至りませんでした

現在ではちょうどこの真下をJR北陸本線のトンネルが通っています。




JR新疋田駅の無料駐車場に車を停めて歩きだしますが、今回のルートは岩籠山の登山ルートの一部と重なっています。これは駅にあった案内版ですが、岩籠山の駄口コースに向かう道を南(この地図の左が南)に行くと深坂古道になります。

岩籠山は去年の12月に市橋コースから登って駄口コースを下りてきましたが、途中のインディアン平原からの眺めが大変すばらしかったです。

今日歩く距離は岩籠山登山の時と比べればほんのわずかですが、暑さが苦手な筆者としては十分な距離でした。



こちらが長浜市の深坂古道コースマップです。今回はJR新疋田駅から深坂地蔵まで歩いて引き返すルートです。


駅から少し歩くと深坂古道の入り口になります。



今日は歴女の奥さんと一緒です。



途中にあった紫式部の歌碑。

知りぬらむ ゆききにならす 塩津山
世にふる道は からきものぞと

まひろ(紫式部)を載せた輿を担いで、雑草の茂る道をエッサと歩く人夫が「やっぱりこの道は大変だなぁ」と言うのを聞いて、まひろが詠んだ歌です。

歌の意味は、「ねぇ、わかったでしょう?慣れたからって大変なものは大変なのよ、世渡りというのは大変なものよ」と人夫に言ったというように言われていますが、筆者は、まひろは自分に語りかけたんじゃないかなと感じました。

ドラマでは好奇心旺盛なまひろが、当時世界最先端のメトロポリタンであった宋(中国)との交易地である越前に行くのを楽しみにしているように描かれていましたが、この歌を見る限り、やっぱり京の都から離れるのを「からい」と感じていたように思えます。

ちなみに「からい」は「つらい」のと塩の交易の「塩からい」をかけています。



続いて今度は万葉集。塩津山(深坂峠)を越えていると馬がけつまづいた。これはきっと家人が自分のことを想っているのだろうという歌。

奥さんを家に残して単身赴任だったのでしょうか。

これは奈良時代なので、紫式部よりもさらに200年以上も前の歌。古道の歴史を感じます。



深坂古道の最高点である深坂峠(370m)にたどり着きました。ここは福井県と滋賀県の県境でもあります。平安時代で言えば、近江国と越前国の国境。

この峠は難所であったので、大正時代には少し東の新道野越えが開かれてそちらが主な街道に変わりました。

平清盛の壮大な計画はここを掘削して運河を通そうというものであったそうですが、標高370mを切り通すことは不可能なので隧道にしようとしたのでしょうか?計画自体が伝説の域に近いので具体的な考えは今となってはわからないようです。



深坂地蔵堂に到着。誰もいないようですが、比較的きっちりと人の手が入っていて猛暑のなか、涼やかな気分になります。



このお堂のなかにおられるはずの地蔵さん(深坂地蔵)は、平清盛の計画を実行すべき清盛の嫡男である重盛の指揮で掘り進んでいたところ、突然、人夫たちが腹痛を訴え、よくよく見ると掘っていた場所から地蔵が出てきたという伝説になっています。それがきっかけで掘止地蔵とも呼ばれています。

実際のところは、この野坂山地一帯は硬い花崗岩の地質なので掘るのが難しくこの場所に至るまでで挫折したんじゃないかと思います。



深坂地蔵堂にあった滝行場でふざける筆者。



深坂地蔵堂から引き返します。小川が流れていて時折風の通り道に入ると気持ちいい。ただ、ヒルがでないか若干心配です。



途中で見つけたキノコ。帰宅してからきのこ図鑑で調べてみると、ドクベニダケのようです。一応毒キノコ。よく似ているのにニオイコベニダケがありますが、これはもうちょっと小さいようです。



途中で地元の年配の方々が橋を架けていました。我々が橋を渡った第一号だそうです。深坂古道に対する地元の愛情を感じます。



柿の実が成長しつつあります。



深坂古道を終えて疋田の集落にやってきました。これは磐座ともよばれる大岩大権現。巨石信仰の一つです。去年登った岩籠山も名前からして巨石だらけの山でした。



これは岩籠山に登った時の写真。インディアン平原の巨石です。平安時代においてもこのあたりの花崗岩の岩は硬いことはわかっていたでしょうけれど、平重盛もやってみないと無理だと分からなかったのでしょうか。



疋田集落を流れる舟川は人工の運河で江戸時代の終わりに開通されました。敦賀から海産物が京都へ運ばれたそうです。疋田から塩津までは牛車で深坂古道を越えて行きました。



きれいに管理された集落。清水が流れる集落って良いですね。江戸時代の舟川の川幅は9尺(2.8m)だったそうなので、今よりも1メートルほど広かったはずです。



資料館があったので立ち寄りました。ここだけ川幅が広くて3メートル以上ありますが、これくらいの川幅を米や茶を積んだ船が往来していたというわけです。

敦賀へは重力に従って舟は滑り降りていきますが、逆方向へは人力で引っ張り上げながら舟は進みました。



平清盛の後も何度も深坂峠の掘削計画は立てられたようです。これらは江戸時代の資料でしょうか。左が塩津、右が敦賀になっていて間が深坂峠です。



やはり隧道(トンネル)を掘るつもりであったことがわかります。地図で調べてみると大体隧道の長さは2キロあります。

舟が通れる幅に加えて両側で舟を引っ張り上げる人夫の通路が必要なので、全幅4~5メートルは必要だったと思われます。

江戸時代でも銀山、金山で掘削の実績はあったのでしょうが、さすがに硬い花崗岩でこれだけの規模のトンネルは無理だったのでしょう。



疋田の集落を見学したあとは、敦賀市までいって「どんと屋」さんで海鮮丼をいただきました。ここの海鮮丼は掛け値なしの絶品です。大将の愛想もよくて、この海鮮丼だけを食べに敦賀に行ってもよいくらいです。



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