さて、今回は長岡京跡を訪ねました。長岡京は、桓武天皇が即位したことで、平城京旧主派の影響を断ち切るために遷都されたと考えられています。
長岡京は、淀川の水運を生かして難波宮を解体した資材を再利用することでわずか半年足らずで中心的建物が完成、しかしながら、都としての寿命も短くわずか十年で平安京へ遷都してしまっている。
この短さの理由としては、桓武天皇の側近であった藤原種継暗殺事件で容疑者として淡路島に流されて餓死した桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)の怨霊のせいだともいわれています。
ちなみに都の変遷を整理しておくと。
① 飛鳥京 (これは条坊制にもなっておらず存在が不確かな都)
② 藤原京 694-710年 持統天皇が遷都
③ 平城京 710-784年 元明天皇が遷都
④ 長岡京 784-794年 桓武天皇が遷都
⑤ 平安京 794年 桓武天皇が遷都
下の図は長岡京市のサイトから拝借。吉野から北へ上がってきたことがわかります。
この区域が長岡京があった場所です。青字は、今回散策ルートで訪れた場所です。
阪急長岡天神駅で下ります。阪急の駅前は庶民的だけど阪神みたいにごちゃごちゃしていないんですね。沿線のカラーというものでしょうか。
弓場(ゆんば)街道。最初は長岡京の堀のあとかなと思ったのですが、斜めに走っているしそうではなさそうです。タモリではないですが、凹凸があると気になる。
同じく弓場街道。川というか堀に見えます。
乙訓寺(おとくにでら)。長岡京設立以前からある古い寺で、怨霊となった早良親王が一時幽閉されていたということです。長岡京時代は拡張されて大規模なお寺だったというこtですが、今は普通のお寺といった感じです。
次に光明寺に向かいます。長法寺道沿いに西へ進みます。
徐々に光明寺のある丘陵が近づいてきます。
わきの畑は雪化粧。
丹波街道を渡ります。
丘陵は西山公園という名前になっていますが、そんなに子供が喜びそうな場所でもなさそうです。
途中に神社がありました。
説明によると、神仏習合のせいか、観音寺であるとともに子守勝手神社(こもりかってじんじゃ)でもあるとのこと。さらに子守勝手神社は子守神社と勝手神社が合わさったもの。子守神社は、水分神(みくまりのかみ)を祀っているが、「みくまり」が「みこもり」となり安産の神にもなった。勝手神社とは面白い名前ですが、大峰山系の神社ということで、「勝手」の語源は調べてもよくわからない。葛城(かつらぎ)と関係があるのかも。
階段を登ると小さな山寺で、雪の地面とのコンビネーションが美しい。
光明寺に向けて北にすすみますが、池の表面は凍っています。
これが光明寺。かなり広いお寺です。
すっと続く石段を登っていきます。
凍りついた手水。いい写真です。
この光明寺を興したのは、蓮生法師(れんせいほうし)こと熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)だったのですね。ちょうどいま平家物語を読んでいるので、記憶に新しい。
いったん四国の屋島に退いた平家が、勢いづいて、都を奪還せんと須磨一帯に上陸したところ、山の上から奇襲を仕掛けた義経の軍に敗北してしまう一ノ谷の戦いがありますが、そのなかで、源氏側の直実はどうしても手柄を立てんと虎視眈々と戦場を駆け抜けていたところ、美麗な若武者を見つけて首を討ち取ります。これが敦盛だったのです。
この後悔から出家して光明寺を建てたということです。
光明寺を後にして、いよいよ長岡天神に向かいます。北から下っていくと左手に大きな池が見えてきました。八条ヶ池です。カモが浮かんでいます。
池の上を橋が渡っています。しかもゆっくり散策できるようにジグザグなのがいいです。
水面がキラキラ光って美しい。遠くにみえる鳥居のコンビネーションがいいです。
GoogleMapでみるとこんな感じです。右下から歩いてきました。神社は左上になります。
天満宮の入口。京都の北野天満宮もそうですが、菅原道真を祀った神社。道真も九州に流され不遇の死を遂げた後、京都で様々な自然災害が発生したことから道真が天神となりその怨霊が祟ったと思われたのが発端。
本当に京都は怨霊だらけです。
本殿は、昭和16年に平安神宮の本殿を移築したもの。長岡天神は建物は普通でした。
今年は戌年。なのに多くの神社は犬禁止にしてます。
帰り際にふと八条ヶ池沿いの北側に品のある建物を見つけました。
これは、錦水亭という料亭でした。タケノコ会席が自慢のようです。
部屋が別々の小屋となり池の上に浮かんでいます。ここで食事できるだけでも楽しそう。値段は春のたけのこコースで12000円から。場所を考えればこれくらいでしょう。
錦水亭を外からみるとこんな感じ。風流です。
菖蒲やカキツバタの季節にまた訪れたいと思います。
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