2025年11月29日土曜日

【比叡山トレイル】還来神社~大尾山(梶山)~横川中堂

比叡山系の北部を歩くことにします。3D地図を北を右にした図です。

比叡山系の北端が「途中」という場所になっており、そこから北部は比良山系になります。

「途中」とびわ湖大橋が大体同じ緯度になっており、クルマで走るときは「途中」を通って比叡山系の西側の大原の道に入り、京都市の宝ヶ池方面に入って行きます。

「途中」って変な名前ですが、比叡山の寺から比良山の寺に歩いていた僧侶が、行程の途中だったから名付けたと言われています。

今回は「途中」のそばにある還来(もどろき)神社から比叡山を南へ縦走して横川中堂まで行きます。

この山道は筆者の生活圏内で筆者が借りている畑からいつも見ている山になります。



これが詳細ルートになります。マイナールートなので道が荒れているんじゃないかと心配でしたが、「比叡山トレイル」という大会が毎年開催されているルートで、大勢の強者どもが走り抜けるので、道はよく整備されていて歩きやすかったです。

それでも2度ほど方向を間違えましたが...

2025年の大会は3月に開催されていて最長コースは80km、最短コースは23km。

筆者のコースは距離11km、累積標高1000m、総合時間は5時間弱でした。

最高峰が大尾山(梶山)で681mなので大したことはないのですが、アップダウンが多くて、筆者にとって累積標高1000mはちょうど良いくらいの運動量でした。

(峠を横断するルートがわかるように「みんなの足跡」をONにしています)


還来(もどろき)神社にはJR堅田駅からバス(江若バス細川行き)に乗るのですが、還来神社のバス停には土日しか停車してくれません。平日の最寄りのバス停からだと20分強歩かなければならないので、土曜日を選んで行きました。

朝9時前のバスは、ほとんど全員登山装備の人たちでほぼ一杯、しかし還来神社で降りたのは筆者一人だけで、おそらく皆さんは坊村から武奈ヶ岳登山を楽しまれるのでしょう。

還来神社はまだイロハモミジの紅葉が美しく残っています。



案内板によれば、平安時代の初め、この地に生まれた藤原旅子(たびこ)は桓武天皇の正室となり淳和天皇を生み、病気で亡くなる前にこの地に埋葬してほしいとの遺言を残したことが「還って来る」との由来になっているそうです。

それに加えて源義朝が幼かった我が子の頼朝を連れて敗走したときに、この神社で「きっと還って来る」と神に祈ったという伝説も書いてあります。

この御神木の梛(ナギ)の木の下に藤原旅子が葬られています。梛の木ってあまり目にしたことはありませんが、神木として神社に植えられることが多いようです。榊のような存在ですか。



無事に還って来れるように神社でお祈りを済ませてからいよいよ登山開始です。

10月から11月にかけて全国でクマ出没のニュースが絶えませんでしたが、この途中や伊香立付近でも何度かクマが目撃されていました。

今回のルートはマイナールートなのでクマ遭遇については相当心配していたのですが、11月終わりになって、ようやく冬眠してくれたのかクマ騒ぎは落ち着いたように見えます。

それでも随分心配なので筆者のうるさいほどよく鳴る鈴を装着して山に入って行きます。



登山口から尾根に取り付くまで約50分の250mの登り。アウターシェルを脱いで、ミッドレイヤーを脱いで、ベースレイヤー一枚になって汗がしたたり落ちました。

しばらく街道歩きをやっていましたが、運動強度的には全然違う。やっぱり時々山に登らないとダメだな、と感じます。

ようやく尾根に取り付けば、西側に大原方面の山々が見えました。



宮メズラ山手前で少しだけびわ湖の景色が垣間見える。近江八幡と沖島。



登山開始1時間で最初の山、宮メズラ山(560m)に到着。山名の由来は不明のようですが、こういう変な名前はとても気になります。

「ミヤ」は京の都なので、都に連(ズラ)なる山々の最後、といったニュアンスじゃないでしょうか。



宮メズラ山のすぐ隣にあるのが魚子山(うおこやま、552m)。特に山頂と扱う必要もないような尾根道です。

沢もないのに何故「魚」?多分、「ウオコ」は魚とは関係ないんじゃないかと思いますが、どうにも分かりません。



箱ワナです。米ぬかがまいてあるので調べてみるとイノシシ誘引に効果的だそう。



ここも気づかず通り過ぎてしまう尾根道ですが、小出石越(こでいしごえ)という名前がついています。地図で見ると伊香立から大原に抜けれるのがわかります。



伊香立峠。ここも先の小出石越と同じく伊香立から大原に抜けるルートです。



しばらく尾根道を歩くと滋賀県大津市から京都市に変わります。



左の落ち葉の上に置かれた案内板に「滝寺」と書いてあります。ここから仰木方面に下りていくと白滝大神という三筋の滝による行場があります。筆者は毎年仰木で田植えと稲刈りをしているのですが、その棚田のあぜ道のような道がここにつながります。

あらためて伊香立と仰木と比叡山系の深い繋がりを感じます。



送電塔があったので頂上かと思ったらまだ先です。伊香立峠から大尾山(梶山)までの250mの登りもキツかったけど、随分体が馴れてきた。



12時すぎに大尾山(梶山)(681m)に到着。ここが今日のルートの最高峰です。最高地点を踏んでホッとしたのでここでランチ。

今日も色々悩んだけれど結局カップヌードルになってしまいました。

この大尾山、「だいびやま」と読みますが、その横のプレートには梶山とも表記されています。調べてみると、梶山の方が古く、「梶」の字の「木」と「尾」が「大尾山」に変わったとか。

この大尾山から西の大原方面に抜ける道があり、ちょうど三千院の裏に出てきます。



大尾山、梶山に加えて「童髯山」とも書いてある。色々山に登ったけれど3つも名前がついている山は初めて。

この「髯」という字、「髷(まげ)」と良く似ているけれど「ひげ」と読む。「髭(ひげ)」との違いは髭は口ひげで、髯は頬ひげでした。知らんかった~。ちなみに鬚(ひげ)はアゴひげ。

でも、童(わらべ)の頬ひげ、とはどういう意味?



大尾山から少し行くと再び送電塔があり、景色が広がります。これは小野から近江舞子の湖岸の景色。



送電塔からしばらく林道が続きます。



林道が終わり小野山に60mほど登る道になります。



小野山(670m)到着。平凡な名前すぎて由来はわかりませんね。



びわ湖の向こうに三上山が見えます。



比叡山が見えてきました。



仰木峠(おおぎとおげ)(580m)。ここで今日、初めて人とすれ違う。筆者が借りている仰木の里の畑を奥に進むとここに出てくるので、今度歩いてみようかなと思う。



木組みの階段が出てきました。比叡山管理区域に入ったことを実感。でもこれを登って、下りて、また登る。



ここまで130m下りていったん沢にでて再び130m登ります。

この沢は天神川につながりますが、このお水が仰木にある筆者の畑と田んぼを潤してくれているのです。ありがたや~



木組みの階段を設置してくれて感謝、感謝なのですが、土がやせてきて、段差がキツい。

これが更にひどくなって、階段が障害物競走のハードルになっているような山道も時々ありますね。



激下りと激登りの階段をようやく終えて、比叡山ドライブウェイの下のチューブトンネルをくぐります。



もう終わったかと思いきやダメ押しの階段。数えると120段以上ありました。



横川中堂バス停に到着したのが14:03。14時発のバスをギリギリ逃したので14時30分まで待ちます。まだ紅葉が残っていたので観光客も多かったです。

疲れていたのと参拝料を払わなければいけないのでお参りはパスしました。

その後、坂本ケーブルで下山して、バス、電車と乗り継いで帰宅しました。



2025年11月20日木曜日

【西国街道】長府宿、赤間関(下関)でゴールイン!

 厚狭宿から下関までの旅の2日目です(1日目はコチラ)。30日間かけた西国街道歩きの最終日です!

これが2日目のルートマップです。2日目は街道の距離は短くて歩くだけなら4時間もかからなかったと思いますが、長門国の国府である長府でウロウロ寄り道をしていたので6時間も歩きました。


宿泊地の下関駅近くのドーミーインを7時過ぎに出て2両編成の山陽本線に乗り込みます。



8時に長府駅に戻ってきました。



なんと、民家の塀の中にこんな立派なお不動さんがいます。朱色に塗られている炎がとても印象的です。

「大日大聖不動明王」と書いてあります。不動明王って仏像の両脇に立っているガードマン的イメージがありますが、大日如来の化身であることを意味しています。



長府に来てから赤土の土塀をよく見かけるようになります。

調べてみると、石垣の台座の上に土を練り固めた壁をつくり上部に雨除けの瓦を載せた構造で、家屋の造作については毛利藩が身分に応じて細かく規則を作っていたそうです。

この土は、このあたり豊浦でとれる赤土のようです。



まったく予期していなかったのですが、筆者が好きな日本画家の一人である狩野芳崖(ほうがい)の自宅跡に出くわしました。旧宅は何も残っていませんが「覚苑寺境内に坐像が建っている」と案内板に書いてあるので後で行ってみることにします。

狩野芳崖は最後の狩野派であり、明治維新の怒涛の時代を生き抜いた絵師でもあります。



長府宿に入ります。毛利藩の櫛崎城が海沿いにあったので、掘の役割もしていたように見えます。



この道は「乃木さん通り」という名前がついていますが、宿場町を思わせる跡地や案内板は見当たりません。

考えてみれば長府は萩に続く毛利藩のお膝元なので、宿場町(長府宿)というものは無かったんじゃないかと思います

大名行列でここを通過するとすれば九州の藩ですが、おおむね海路を使いました。ただ薩摩藩については海難事故が多く江戸中期から陸路を用いたとされています。でもさすがに長府は通らなかったんじゃないでしょうか。



乃木神社への坂手前の正円寺にあった山口県天然記念物の大イチョウ。



大イチョウの横には住職が20年かけて集めたという昭和コレクション。オロナミンCの崑ちゃんに色んなバージョンがあるのを知りました。崑ちゃんは94歳でまだご存命です。オロナミンCのおかげかな?



乃木神社の参道。これも乃木坂ですね。乃木坂46のメンバーは乃木希典の名前を知っているのでしょうか。

後で知りましたが乃木神社って全国にあるのですね。京都伏見にも乃木神社があるというのも知りませんでした。

明治の実在の人物が神格化されて数多くの神社になっているのは乃木希典以外にないんじゃないでしょうか



乃木神社の乃木夫妻像。軍人が妻と一緒に像になっているのは大変珍しいんじゃないかと思う。明治天皇崩御直後に夫妻で自刃により亡くなりました。

映画「二百三高地」での仲代達矢の名演が記憶に残っています。

この後「立ち入り禁止」の札が見えず、神社の中に入り込んで掃除のおばさんに叱られました。



乃木旧邸(復元)。「邸」というにはあまりにも小さなお家です。

説明版によると乃木希典は江戸の毛利藩邸で生まれて10歳の時に父とともにここへ帰り、16歳で萩に留学するまでこの家で暮らしたと書いてあります。

6畳と3畳の2部屋しかない家に父母との3人暮らし。父は厳しく、幼い希典は泣き虫だったというので、さぞかし窮屈な少年時代を過ごしたと思われます。



乃木神社にもあった赤土の土塀。なぜか落ち着いた気分になりました。



小路を歩いて、狩野芳崖の坐像があると言われる覚苑寺へ向かいます。



ここから北にかけた一帯が奈良時代に建てられた国分寺だったと書いてあります。加えて、この地を訪れた山頭火の句が書いてありました。

松が三本 国分寺跡といふ芋畑

防府を歩いた時に山頭火の生家を訪ねましたが、大正、昭和の時代は芋畑だったのですね。



覚苑寺にやってきました。ちょうどこのお寺は紅葉の名所だそうで、いい時に来たものです。拝観料200円をとても親切な男の人に払う。



ありました。狩野芳崖坐像。芳崖の時代は怒涛のように西洋絵画が日本に流入してきた時代で、狩野派自体が硬直してきたこともあり、日本画の人気は全くありません。

芳崖は狩野派の原点である雪舟に立ち返ろうとしますが、廃藩置県で俸禄もなくなり生活苦に陥っていたところを岡倉天心と出会い、フェロノサに見出されます。



覚苑寺裏に登り窯があったので覗いていたら、おばさんが開けてくれました。和同窯という登り窯で焼いた陶器で、藤本尚己という陶工で有名だそうです。



長府記念にと湯のみを買いました。いくつかの色柄からこれを選ぶと、おばさんは「和同焼きらしい色を選びましたね」と言ってくれました。なかなか見る眼があるんじゃないの、オレ?と悦に入ります。

家に帰ってお茶をのむと、唇に当たる感触が心地よく日常使いにとても良いなと思いました。

少し赤みがさしていますが、和同焼に使われる土も、土塀の赤土も同じ豊浦の土なのかも知れません



なぜかベンチが入った構図に惹かれる筆者。



ここにも乃木希典の像がありました。背景の紅葉と相まって良い写真だと思います。

以前、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで司馬さんが伊地知孝介は勿論のこと乃木さんにも大変辛辣な書き方をしていて驚いた記憶があります。

少し前に読んだ渡辺延志(のぶゆき)さんの「日清・日露戦争の真実」という本によると、司馬さん連載の2年前にそれまで秘密にされてきた「機密日露戦争」が世に出たことが「坂の上の雲」のベースになっていて、そこではやはり大本営の言うことに耳を貸さず次々と兵士を旅順要塞に送り込む伊地知と、伊地知を制御できずにノイローゼ気味になっていた乃木希典のことが書かれていました。

ホントのホントはどうなのかわかりませんが、それでも乃木さんが国民にこれだけ崇拝されるのは単なる「軍神」ではなく、その人を引き寄せる力だったのかも知れないな、と感じました



長府藩の藩士の屋敷にあった長屋跡。



土塀の情緒ある小路には横枕小路という名がついている。さきほどの乃木神社の西横を通る。



ここにも昭和コレクターが。こちらの方はセクシー系に興味がおありのようで。バスローブの美女のコピーは「愛すコーヒー」。



やり過ぎ感があります。



長府毛利邸。大変立派な石垣に囲まれた邸宅です。江戸時代の建物かなと思いきや、明治から大正にかけて使用された邸宅。



下関歴史博物館に立ち寄ります。これは源平合戦絵巻のなかの那須与一の扇の矢の場面。



1864年の四国艦隊との戦争時に彦島(下関西端)に設置されていた砲台。この砲台は上陸してきたフランス軍のライフル隊に奪取されてパリの博物館で展示されていたもの。

現在はフランスからの「貸与」という形になっている。



上記の戦争に従軍していた藩士が描いた図。両者とも数十名の死傷者がでた。

その後の下関協定で長州藩はしたたかにも「幕府に命令されてやったので賠償金は幕府が払います」と言ったそうな。

将軍家茂は無理やり攘夷を宣言させられていたので払うと言ったけれど払うお金がなく、結局払ったのは明治政府。



東郷平八郎(上)と乃木希典(下)の合装。東郷元帥はイメージ通り澄んだ男気を感じる一方で、乃木希典は真面目さを感じさせる。



歴史博物館のあとは下関美術館へ向かいます。下関美術館は櫛崎城があった湾側にあるので西国街道から随分歩かなければなりません。



20分ほど歩いて下関美術館に行ったらなんと臨時の休館日でした。Google Mapで営業日だと確かめたのですが、やっぱり公式サイトで確認すべきであった。

下関美術館には以前から見たいと思っていた狩野芳崖の「鏻姫(れいひめ)」があるというので、是非見てみたかった!

毛利藩主の娘、鏻子のお嬢様っぽい流し目と狆のあどけない表情がよい。

以前、熱海のMOA美術館でもお目当ての北斎が見れなかったし。なかなか名画を見るのは難しい。



下関美術館でどっと疲れが出たので、下関歴史博物館までタクシーで戻りました。DIDIを初めて使ってタクシーを呼びましたが意外に高齢のドライバーがDIDIに反応してくれました。

歴史博物館からずうっと茶臼山の後ろを抜けて海沿いに向けて歩いて行きます。海沿いの国道9号線に出るのかとおもったら、国道を見下ろす細い道が街道になっていました。

おそらく水害を避けて高所に作られているのだと思います。こういう道を歩くと、このあたりが漁村だったんだなぁと感じました。




関門橋が見えてきました



火の山ロープウェイは閉業してしまっています。公式SNSを見ると2027年にパルスゴンドラとして生まれ変わると書いてあります。パルスゴンドラとは停車駅でゴンドラが自動減速する方式だそうで、アップグレードということですね。



ここが博物館の絵にあった砲台跡です。本物は博物館にあった青銅製で、これはFRP製のレプリカですが、当時の様子が想像できます。100円を入れると砲口から煙が出ます。



砲台の横が壇ノ浦古戦場跡になっています。源平合戦については吉川英治の「新平家物語」を読んだ2018年に屋島に行っています

源平合戦は平清盛の死後、木曾義仲から逃げて都を捨てた後、神戸での戦いが第1ラウンド、屋島での戦いが第2ラウンド、そしてここ壇ノ浦の戦いが最終の第3ラウンドでした。

最初は海流に詳しかった平家が潮の流れに乗って優勢でしたが、潮目が変わったことで逆転して敗北、安徳天皇とともに海に身を投げた建礼門院は源氏の熊手に長い髪がからまって命を救われました。


ちなみに屋島にも檀ノ浦がありあちらでは「檀」の字を書きます。どちらも船団の意味で昔から海戦の基地として使われていました。



関門大橋の下を通ります。



ちょうどタンカーが通りかかり絵になる構図に。道路橋の関門大橋は全長1068m、1973年に開通しました。

鉄道は彦島の下を通る関門トンネルですが、もう一本道路用の関門トンネルが関門大橋の下を通っており1958年に開通しています。

関門トンネルは対面2車線しかなく、その後交通量増加により関門大橋が建設されたというわけです(関門大橋は6車線!)。



入水した安徳天皇を祀る赤間神宮。鎌倉時代になってから建てられました。安徳天皇は歴代天皇で最も若くして崩御した天皇で、権力争いに翻弄されただけの、たった6年の人生でした。



境内のなかから壇ノ浦を背景にした水天門。この構図で描かれた絵を見ました。



日清講和記念館にあった伊藤博文と陸奥宗光の像。

現在、高市首相の発言がきっかけで日中関係が険悪化していますが、いつも思うのは日本と戦った政体の流れは今の台湾であり、中国共産党とは国民党配下の第八路軍ではありましたが主役ではなかったんですよね。

なのに台湾と日本は良好な関係というのが歴史が皮肉なところです。



12時を過ぎてお腹がすいてきたので「海峡ごちそうステーション カモンワーフ」へ寄り道しました。


3階にある中華料理屋さん敦煌で担々麺+ライスを食べて休憩。


ランチ後にしばらく歩くと、赤間関街道一里塚跡であり西国街道(山陽道)終点に到着しました❗❗❗

石碑がポツンとあるだけで拍子抜けしましたが...とにかく30日間、600kmの行程をここで無事閉じることができました

下関は明治時代に改名される以前は赤間関と呼ばれていました。改名した理由は下関のほうが言いやすいし近代的だからだそうです。



ホテルのドーミーインに戻る途中に「オーヴィジョン海峡ゆめタワー」の展望台に寄り道します。地上高153mだそうです。




思った以上の素晴らしい景色。これは登って正解でした。



ちょうど軍艦らしき船が海峡を航行しています。調べてみると多分ですが護衛艦「やまぎり」。練習艦だそうで女性が艦長をされています。

基準排水量3500トン。太平洋戦争の頃の大型駆逐艦ほどのサイズです。



関門大橋と護衛艦。かっちょえ~。戦前戦中に少年たちが血を沸かしたのもわかります。ちなみに大和の基準排水量は65000トンなのでほぼ20倍の大きさ。

大和は海面高30メートルなので関門大橋の半分くらいの高さまであったと想像するとその巨大さがわかります。

とりあえず自分が生きている間は実戦にならないことだけを祈ります。



南西方向に目を向けると中央に船島が見えます。

船島は別名、巌流島。武蔵vs小次郎の果し合いは豊臣秀頼の頃にあったとされています。



小倉方面。中央に小倉城が見えている...かな?



西に転じると彦島が見渡せます。下関の地図をじっくりと見たのは初めてなのですが、下関の西端は島になっていたのですね。橋ではなくて埋め立てによる人工の陸繋島になっているので、本州の一部という位置づけ。



このタワー、日本海まで見渡せるのがすごいところです。

遠くで日本海に突き出しているのが毘沙ノ鼻(びしゃのはな)と言われる岬で、なんとあそこが本州最西端だということ。下関じゃなかったんですね。これは彦島を本州にカウントしたとしても、毘沙ノ鼻のほうが西に位置しています。一応GoogleMapで確認しましたが、完全に毘沙ノ鼻の方が西でした。

といっても毘沙ノ鼻も下関市なので、下関が本州最西端であることは変わりません。



4時ごろにホテルについて一休みしていると、岩国城と錦帯橋を観光してきた奥さんが合流してきて、西国街道コンプリート打ち上げの待望のふぐ料理に向かいます。

下関駅の北西にある「ふく料理しのだ」でふぐコースをいただきました。さすが地元だけあって厚みのあるてっさは歯ごたえがあり新鮮です。



本来は12月からだそうですが、今日は白子の初物が入ったということで出してもらいましたが、これが忘れられないようなお味でした。



ここから先は街道歩きとは関係ない3日目の記録です。

ドーミーイン下関はプレミアムというタイトルがついているだけあって朝食は2500円もしますが、フグのから揚げや一夜干し、フグ雑炊にフグ飯などがビュッフェになっていて大変美味しいものでした。



3日目は奥さんの希望でしまなみ海道を通った大三島(おおみしま)にある大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)に、新幹線の新尾道駅からレンタカーを走らせていきました。

ここは筆者単独で去年、矢掛宿から三原宿を歩いた時に寄り道したのですが、今年になって奥さんが連れて行けと言うので、二度目の来訪になります。

樹齢2600年のクスノキは未だ生命力衰えず。



この後、宝物館で刀剣や甲冑を見ました。



大山祇神社の後は、車で千光寺公園へ。尾道市から向島が見渡せました。



これは千光寺の巨石。3つの別々の岩が重なって、しかもこちら側に迫って傾いているのは大変珍しいと思います。



瀬戸内の島々が絵のように美しい。やはり西国街道は瀬戸内の美を堪能する旅だったなぁと感慨を持ちました。

この後、新尾道から新幹線で京都へと帰路に着きました。