2026年1月16日金曜日

【東海道】名鉄豊明駅、池鯉鮒宿、岡崎宿、名鉄美合駅

 長島から名古屋を横断して岡崎まで歩く東海道2泊3日の旅の3日目です。

2日目はコチラ

下に3日目のルートと記事で紹介したスポットを記します。

3日目の見どころは岡崎城です。また、街道沿いには松並木がよく整備されていて大変印象的でした。池鯉鮒宿や岡崎宿については、開発されてしまっていて面影はありません


今朝も6時に起きてアパホテルをチェックアウトして昨日のゴールである名鉄豊明駅までやってきました。時刻は8時すぎ。

境川を渡ると、尾張国から三河国に変わります。ちょうど国境だから境川ですね。現在は豊明市から刈谷市へ変わります。

弘法大師作の地蔵尊石碑の右奥が洞隣寺なのですが、案内板を読むと「刈谷の昔話で有名な、めったいくやしいの墓がある」と書いてあって気になったので調べてみると、このお寺の下女が隣寺の僧に恋をしてしまったが、成就するはずのない恋に気を病んでついに亡くなってしまい、下女を埋めた墓からは夜な夜な「めったいくやしい~」という声がした。という話。



トヨタ車体工場の南を進んで行くと、池鯉鮒宿に入ってきます。ここの地名は知立(ちりゅう)と言って、「池鯉鮒」も「ちりゅう」と読むのです。絶対読めるわけがない❗なので、池鯉鮒宿のかわりに知立宿ともいいます

知立寺に池(御手洗池)があって、鯉や鮒が泳いでいたから江戸時代に当て字を付けられたようです。「池」の音読みが「チ」なのは知っていますが、「鯉」は「リ」、「鮒」は「ホ/フ」が音読みだそうで、「チリフ」。たしかに「ちりゅう」になりますね。

知立神社の多宝塔。ここはお寺と公園が一緒のようになっています。




於万の方像とあります。お万(長勝院)は知立神社の神主の娘で、徳川家康の側室となりました。長勝院は家康との間に子供(秀康)を身ごもりましたが、家康の正妻(築山殿)は、これを認めなかったため、長勝院と秀康は追放されてしまいます。

その後、築山殿が亡くなり、秀康の兄の信康(築山殿の子)は父への裏切りの疑いで切腹、本来ならば次男の秀康が家康の跡継ぎになるはずが、秀康は秀吉に人質に取られてしまい、家康の跡継ぎは異母弟の秀忠、後の2代目将軍徳川秀忠となります。



その後、秀康は秀吉の元で羽柴姓を名乗るも、結城(ゆうき)家に養子に出されてしまったので、結城秀康と名前で知られることになります。

正四位下まで出世したはずの結城秀康ですが、肖像画をみると、なんとも情けない表情をしています。あちこちと親を替えられて不遇の人生だったのですね。



お万の方の銅像はとても良く出来ていて、誰の作か調べてみると愛知大学名誉教授の方による作だそうです。

像を見ると、お万の方(長勝院)は二人の赤子を抱いています。知立神社によれば、結城秀康には双子の弟がいましたが出産後すぐに死んだことにされ、ひそかに育てられて知立神社の神主になったと言われています。

江戸時代は双子というのは忌み嫌われていたのが理由のようです。家康の正妻の築山殿が認めなかったのも双子で産まれたから、という説もあるそうです。

今では双子はおめでたい!と言われるのですが、江戸時代とはそんな時代だったのですね。お万の方の表情も双子を抱いて呆然と行き先を憂いているように見えます。



知立城址。知立城も知立寺も永見氏という神官が保有していましたが、今川氏に仕えていたので、桶狭間の戦いで義元が討ち取られるとともに知立城も落城してしまいます。



広重の五十三次。「知立」ではなく「池鯉鮒」と書いてある。ここは馬市が毎年初夏に開かれることで有名だったそうな。

甲斐や信濃から馬が400~500頭集められて、多くの人が馬を売買しに集まったので、芸人や遊女もやってきたと案内板に書いてあります。



知立でもお祭りの山車蔵がありました。毎年5月に開かれる。



池鯉鮒宿の本陣跡。



この辺りから、東海道沿いの所々に松並木が続きます。街道を歩いていると「松並木跡」として数本の松が植えられていることは度々見かけますが、これだけ元気な松の並木が続くのは初めてでした

かつてはマツクイムシの被害をよく耳にしましたが、最近は防虫対策が功を奏して全国的に減少傾向になっています。

かつては昼でも暗くなるほど鬱蒼とした松並木だったそうですが、伊勢湾台風で6~7割の松が倒れてしまったと書かれています。



松並木に沿ってかわいらしい彫刻が並んでいます。



一里塚。近くの来迎寺には織田信長の砦があったが、攻め上る今川義元の軍に落とされてしまった。



青麻神社。何やら色々な石碑がゴチャゴチャと寄せ集められていますが目を引いたのが力士像。「清見潟(きよみがた) 又市(またいち)」という名前でここに大変詳しい経歴が載っている。

三河湾の村で生まれ育ち、江戸相撲に入門して清見潟の5代目を襲名したという地元の誇りです。幕内前頭筆頭まで行って大関に土をつけたこともあったと。幕末から明治の激動の時代を相撲一本で貫いた人生です。






明治川神社。この神社では古い水の神様であるミクマリノカミの他に明治用水の功労者4人が神様として祀られています

全長50km以上の明治用水は水漏れの少ない人造石を使った日本で最初の近代的用水路で、矢作川(やはぎがわ)を分水して、このあたり一帯の安城(あんじょう)の地を不毛の地から日本デンマークと言われるほどの農業地帯へと変貌させました。

今でも明治用水は工業用水としても利用されており、一度明治用水が停まった時は、トヨタ工場の操業に多大な影響が出たそうです。



雲竜の松。写真で捉えきれなかったが放射状に延びた大変見事な松です。

この松の奥には永安寺というお寺があり、宿場町の人夫として助郷を命ぜられた村の男が、村全体に対するあまりの厳しさに、お奉行に免除を訴えたところ、願いを聞き届けられた代わりに死罪にされたことを忘れないように建てられました。

街道を歩いていると、よくこういう話に出くわしますが、江戸時代の不条理な一面ですね。



予科練の碑。予科練とは海軍の飛行機パイロットの養成制度です。14~17歳の少年が集められました。



予科練の碑の横にあった説明板を見ると、東海道の北西部が岡崎海軍航空隊の基地があったことがわかる。当然、滑走路もある。



有楽屋というラーメン屋で昼食にする。やっぱり運動しているとお腹が減るのでラーメンライスにしました。

ここから岡崎市です



弥五騰(やごと)神社。気になったのは、右の石碑の下に書かれた「溺死菩提」の字。調べてみると、江戸時代後期の大雨で矢作(やはぎ)川が決壊し14名が犠牲になったことを弔っていることが分かった。



矢作川にかかる矢作橋にあった像は幼い日吉丸(秀吉)が蜂須賀小六に出会った場面。この先の味噌屋での窃盗を手助けして手柄を立てたとか。あまり褒められたものではない。



矢作川。ヤマトタケルが川の中州にあった竹で矢を作ったという伝説が名前の由来です。



東海道名所図会の矢作橋。かなり立派な橋がかかっていたのですね。

(国立図書館アーカイブより)


八丁味噌はここで誕生しました。岡崎城から8丁(870m)離れていたことが名前の由来です。矢作川の伏流水の水質と、水運に恵まれていたことで全国に広まりました。

一般的に味噌に使う麹は米麹を使うのですが、八丁味噌の特徴は豆麹を使うことで豆の旨味を強めています。



東海道は国道1号線の北を進むのですが、岡崎城は1号線南にあります。岡崎城を見逃すわけにはいかないので東海道を外れます。

岡崎城は徳川家康の正家である松平氏の城です。家康はこの城で誕生しました

少年時代の家康(竹千代)は今川家や織田家の間で人質として行き来しますが、岡崎城の城主として、桶狭間の戦いの後、信長と清洲同盟を結び、朝廷から三河守の位をとるために松平姓から徳川姓へと改姓しました。



岡崎城は明治の廃城令でほぼ全てが撤去されてしまいました。今の天守は昭和34年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。



天守のなかには入ることができます。展示室は新しく、これはジオラマで天守をライトアップさせた図。



岡崎城の見学後、再び国道1号を北に陸橋を渡って東海道へ戻ります。

宿場町を通る街道は、外敵の侵入に備えてクランク型に折れ曲がっていることがよくありますが、ここ岡崎宿の街道は、三河の中心の岡崎城そばだけあって、27箇所も折れ曲がっています



実際に筆者が歩いたルートです。東海道は左下の岡崎城周辺には入らず国道1号線北を進みますが、筆者は遠回りして岡崎城を見てから再び東海道に戻っています。

27曲りの道も、いまでは縦横に道が整備されているので江戸時代の面影はありませんが、当時はこの道以外の道は無かったのでしょう。

27個の角を数えたわけではないですが、いままで歩いたどの宿場町よりも角が多いのは確かです。

この異常なほどの角の多さは宿場町の防御目的だではなくて、旅人に買い物をさせる目的があったそうです。デパートのエスカレーターがフロアを周らないと次のエスカレーターに行けなくしているのと同じですね



東海道名所図会を見ると、確かにクランク形状の町並みが描かれています。

岡崎は都会で商人(あきんど)が多いと書いてあります。左には「仙方延寿の良薬」とやらに人が集まっています

中央右に女郎たちに見送られて気分よく店を出ていく男に店の女が丁寧にお辞儀しているのが面白い。

岡崎宿は旅籠100軒以上で6500人の人口を抱えていたので熱田宿ほどではないけれど、桑名宿くらいの大規模な宿場町でした。

(国立図書館アーカイブ)


籠田(かごだ)公園角の常夜燈。町の開発に伴いあちこちに移設されてここに落ち着いたと書いてある。



籠田公園にある戦災復興の碑。岡崎市は他の名古屋衛星都市同様、1945年5月にB-29の大空襲を受けて町の1/3が焼けて280名が死亡しました。

さきほど出てきた海軍岡崎飛行場は空襲の被害に遭わなかったということですが、レイテ沖海戦で海軍航空隊は全滅したので、米軍はどうでもいいと思ったのでしょうか。



松が立っているところが本陣なのかなぁ。特に案内板がみつかりませんでした。知らずに歩く人には、ここが宿場町で27角あったなど全くわかりません。



路傍に置かれたオブジェ。助郷だそうですが、妙なキセルをくわえています。



岡崎宿を後にして、東名高速の岡崎ICを越えます。街道歩きで、高速道路ICにぶち当たると、歩道を見つけるのが実に厄介です。今回も迷ったあげく順路を発見、なんとか向こう側に行けました。



太平一里塚。エノキがかなり深く剪定されているけど大丈夫かな。ここは江戸から80里(320km)とのこと。まだまだ歩けるね~~。



乙川を越えて再び松並木を歩きます。そろそろゴールインのはず。



4時前に名鉄美合駅に到着。ここから再び名古屋へ戻ります。



5時前の名古屋駅の京都行新幹線のホームより。右の高いホテルビルの後ろがアパホテルでした。

次回は再び名古屋に戻って浜松あたりまで歩くつもりです。




2026年1月15日木曜日

【東海道】近鉄烏森駅、熱田宿、鳴海宿、名鉄豊明駅

2泊3日で名古屋横断して岡崎まで歩く旅の2日目です。


2日目の詳細ルートを示します。熱田宿(宮宿)までは佐屋街道を歩きます。江戸時代の多くの旅人は桑名から熱田宿まで七里の渡しという舟で進みますが、海が荒れた日だったり、なかには舟が苦手な旅人もいて、佐屋街道はそういった旅人むけに用意された脇街道です。

2日目の旅の見どころは、日本の神社のなかでも最重要クラスの熱田神宮、そして織田信長の大バクチ的戦いであった桶狭間古戦場です。また、桶狭間近くの有松地区は日本遺産に認定されていて当時の街道の面影を良く保存された場所でした。

さらに、街道歩きを終えた後で、名古屋城にも見学に行きました

おかげで4万歩超えになったのでちょっとハードになってしまいました。



昨夜はアパホテル近くの焼き鳥屋「鳥開」で名古屋コーチンを食べてアパホテルの温泉に入ってゆっくり休みました。西口にはアパホテルのビルが2棟建っています。温泉が広くて露天風呂まであって良かったです。

翌日は早起きして昨日のゴール地点の近鉄烏森駅に到着したのが8時前。

名古屋駅につながる中川運河を渡ります。中川運河は名古屋港と都心を接続する物流水路として昭和の初めに開削されました。



名古屋高速道路の先にある堀川を渡る尾頭橋(おとうばし)が地名になっています。このあたりは大正時代から昭和にかけて花街や遊郭だったそうで、なんとなくそんな雰囲気が残っています。



国道沿いを南へすすみ熱田神宮の西側へ出てきました。烏丸通りから見た京都御所にとても良く似ています。入り口かと思ったけれど、神社になっていて中には入れない。下地我麻(しもちかま)神社とかいてある。



境内に入って巨大な御神木。



本宮です。まだ正月のせいか階段全体が巨大な賽銭箱になっています。

熱田神宮は三種の神器の一つである劔(草薙劔)が祀られています。昨日、七所社で日本武尊の腰かけ岩がありましたが、ヤマトタケルは東征のあと草薙劔を尾張の豪族の妻に預けて、伊吹山の怪物と素手で戦って敗北してしまいます。

ここに祀られているのはその劔であります

残り2つの神器である八咫鏡(やたかがみ)は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は赤坂御所にあるようです。

三種の神器は壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に水没して鏡と勾玉は源氏によって発見されたものの、剣は紛失してしまいました。ですが、いつの間にか復帰したことになっています。

太平洋戦争で敗戦間近になった日本は「国体の維持」が最重要条件でありました。国民は1億玉砕しても国体は守らねば、と。

昭和天皇は「伊勢と熱田の神器を守って運命を共にする」と言われたそうです。



本宮の後ろをぐるりと周るコース(こころの小路)を歩いてみました。10分弱くらいのコース。撮影禁止なので写真はありません。清水社では石に清水を3回かけて願いをかけました。



こころの小路出口にあった神楽殿。



このあとベンチでサーモスから熱いお茶とビスコで小休止しました。

熱田神宮正門付近で見かけた散歩する鶏。御神鶏と言われる聖なるニワトリ様。筆者が昨夜食べた❗名古屋コーチンとは違う小国鶏(しょうこっけい)という種類の日本原産ニワトリのようです。



熱田神宮から堀川の渡しにつづく道。このあたりが熱田宿(宮宿)があったところです。熱田宿は大変大規模な宿場町で旅籠の数が250軒、1万人の人口がありました



堀川の七里の渡し場に出てきました。筆者は佐屋街道の陸路を進みましたが、桑名から出立した渡し舟はここに到着します。



左奥の堀川からこちらに向かって舟がやってきました。いまでも舟の行き来はあるようですが、江戸時代の熱田湊は尾張最大の湊でした。




左に描かれているのは江戸時代初期に造成された出島でそこには東浜御殿が造られました。
東浜御殿は名古屋城の本丸御殿に匹敵する規模で徳川家光上洛の際に宿泊したそうです



熱田湊を後にして再び東海道に戻ります。

呼続村の立派な道標。昔はこのそばまで浜になっていて、舟が座礁しないように声をかけあって舟を漕いだのが「呼続き」の由来だそうです。浜は「あゆち潟」と呼ばれていたのが、県名「愛知」の由来だと書いてあります



ちょっと疲れてきたので長楽寺のある呼続公園のベンチでひと休み。大陸系の様相をした石像があちこちにあってお寺の由来を調べてみたけどヒントになるものはなく、ペット供養を前面に出されているようだ。



名鉄本笠寺駅ちかくの笠寺観音。十一面観音の幟がすさまじく立っている。

奈良時代に呼続の浜に光る霊木が流れ着き、上人が観音を彫ったが、その後ずっと観音像は放っておかれ風雨にさらされて気の毒に思った女中の娘がそっと笠をかぶせてあげると、たまたまそばを通りがかった関白の息子に見初められて結婚し、お寺を建立した、という由来が書いてあります。



笠寺一里塚。今回の旅はよく一里塚が保存されています。しかし肝心の宿場町が開発されてしまっているのが残念。



天白川を越えてお昼どきになってきたのでランチを探す。今回は名古屋市なのでお店には事欠かない想定でカップヌードルもお湯も持参してきていません。

「昭和レトロ横丁」とあるのでお好み焼きとかラーメン屋を期待しましたが、スナックとかキャバクラでした。昭和カラオケ専門か?



ランチの良いお店がなかったのでマクドナルドでお昼にしました。疲れている時に甘いマックシェイクは効果的です。

鳴海宿の入り口あたりにある常夜塔。「秋葉大権現」とあります。宿場町が火事に遭わないようにとのことでしょう。



生涯学習センターになっていますが、このあたりが本陣があったところのはず。昔は海辺の潮騒が聞こえたので「鳴海」という名前が付いたそうです。いまでは港まで5kmも距離があるので随分埋め立てが進んだのですね。



広重の五十三次「鳴海宿」。鮮やかな青い暖簾は、この地で有名な絞り染めで、白い模様の部分を糸で絞って染まらないようにする工法です。

ここから桶狭間まで数十メートルの登り坂になりますが、広重の絵も坂道が描かれています。



名鉄鳴海駅そばにある松と石のレリーフ。飛脚と身分のある旅の女性が描かれています。



ここにも秋葉大権現の常夜燈。ここまでが鳴海宿だったのでしょう。



鳴海宿を過ぎてしばらく歩くと有松地区になりますが、ご覧の通り江戸時代の雰囲気がとても良く残されており、日本遺産に認定されています。

有松は五十三次の宿場町ではないのですが、次の池鯉鮒(ちりゅう)宿まで距離があったので設けられた間宿(あいのしゅく)でした

尾張藩は鳴海宿と有松にだけ絞り染めを許可したので、ここの名産になりました。元々は、有松を間宿にする際に、桶狭間村から移住してきた職人が絞り染め技術を持っていたそうです。



歌碑があります。「あり松の柳しぼりの見世にこそしばしと人の立ちとまりけれ」。旅人が足を停めて有松絞りを買い求めている風景が浮かびます。



東海道名所図会。「有松村の名物は、細き木綿をいろいろに絞りて、紅と藍とに染分、諸国へ商ふ。これを有松しぼりといふ」と書いてある。

屋内で女たちが布をねじって伸ばしており、外では男が染終えた布を干している。

細くてものすごく長い(10メートルくらい?)が、何に使うのだろう?腰ひも?

(国立公文書館より)


とても広い間口に虫籠窓が印象的な岡谷住宅。絞り問屋だったと書いてあります。



こちらも絞り問屋の重厚な蔵。窓の扉を見ると四層にもなっています。貴重な絞り染めか染料が置いてあったのか?それとも儲けた大金で買ったお宝?



有松は宿場町であることに加えて、祭りもありました。いまでも毎年10月に開催されていると書いてある。

この山車倉(だしこ)は平成17年の新築だそうですが、木造で宿場町にマッチしていてとても良いです。昨日の神守宿の山車倉も立派な金属製だったけれど、やっぱり木造のほうが神様が宿ってそうで良い。



右の海鼠(なまこ)壁も絞り問屋さん。よっぽど絞り染が売れたのですね。他にも立派な住宅が色々ありました。

有松は桶狭間も近いし、東海道の見どころの一つでしょう。



さて、有松から南の坂道を登っていくと、桶狭間の戦いの中心地だった桶狭間古戦場公園に出てきます。



公園の案内板の説明図。

今川勢は右の沓掛城から西へ向かい、織田勢の鷲津砦と丸根砦を落とします。勝利の戦果を聞いた義元は中央右の桶狭間山に本陣を構え油断していたところを、織田信長は鷲津砦、丸根砦を奪還するとみせかけて、清州城から少人数で雨の中、この地、田楽坪にまっしぐらに突き進み、義元の首を討ち取りました

今川軍2万5千に対して織田軍は3千で勝利しました。

ちょうど、このブログを書いている時、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で桶狭間の戦いが出てきました。小栗旬の信長は、ちょっとカッコつけすぎですね。



二人の大将の銅像。今川義元は肥っていたと言われていますが、銅像はそうでもありません。ただ、扇子を持って座っているところが油断を表しています。

信長の像は一世一代の大バクチの前にかの有名な敦盛「人間五十年~」を舞っている様子でしょうか。



古戦場公園から少し坂を上ったところに桶狭間山の今川勢本陣跡がある。ちょうど雨と落雷で今川勢が混乱しているなかに少人数の信長隊が奇襲してきたので、今川軍は驚いて大将の首を取られてしまった。

桶狭間は山に挟まれた場所といったイメージでしたが、今ではすっかり住宅地になっていて、坂道ではありますが、当時の地形がどうなっていたのかよく分かりませんでした。



坂を下って元の東海道に戻る付近に今川義元の墓がありました。ただ、首についてはどこに葬られたのかはわからないようです。多分、信長たちは首を前にして酒盛りをしたのでしょう。

ちなみに首を取られたあとの胴体については今川の家臣が随分と東へ戻った寺に葬られています。



桶狭間を後にして東海道を進むと、阿野一里塚。一応ちゃんと両側に残っています。



3時前に名鉄豊明駅に到着。これで本日の東海道歩きは終了ですが、このあと名古屋城へ向かいます。



名鉄金山駅で大津線に乗り換えて名古屋城駅まで40分ほど。本丸御殿の受付が4時締切なので忙しい。

名古屋城は、元々、那古屋城が元祖ですが、その後織田家との紆余曲折があり、立派な城普請をされたのは徳川家康の時代です。それまでは尾張の中心は清須だったのを町ぐるみで名古屋城一帯へと引っ越しさせました。

空襲で天守も本丸御殿も焼けてしまいましたが、戦後復元されました。特に本丸御殿は2018年に復元、公開されたばかりです

筆者は名鉄名古屋城駅で下車、東門から入ります。

(名古屋城サイトより)


築城には曳き石の上で音頭をとっている加藤清正たち西国大名たちが動員されました。清正は熊本城で有名ですね。



なんとか4時前にすべりこんだ本丸御殿。狩野派の絵師たちが描いた襖絵の復元作品は大変見応えがあります。





なかでもひときわ絢爛豪華なのが上洛殿です。




天守閣。頂上の金のシャチホコが目立ちます。



天守の横腹に刺さっているエレベータは耐震設計上問題があるとかで現在稼働していません。現在、鉄筋コンクリートを木造に復元するプロジェクトが進められてるようです。



西南隅櫓から見た天守の図もきれいです。ここから正門を通って城を出ました。



このあと地下鉄丸の内駅まで歩いてから名古屋駅に戻りました。

5時過ぎですが、かなり疲れて居酒屋に行くのも面倒なのでアパホテルそばの吉野家でビールと牛丼大盛り+豚皿で夕食にしました。コスパ抜群です。

翌日にそなえてゆっくり休みます。3日目はコチラ