2024年11月13日水曜日

【福井県】三十三間山(842m)

(尾根から見える三方五湖の景色)

若狭湾の山々はずいぶん色々登りましたが、今回は三方五湖が見えるという三十三間山(842m)に登ります。関西百名山の一つになっています。

三十三間山の場所はちょうど福井県と滋賀県の県境に位置しており、京都方面から湖西道路、鯖街道を走れば日本海に出る手前から登れるので割と近い位置にあります。

京都の三十三間堂は誰でも知っている名刹ですが、その建築のための木材をここから切り出したという伝説が山名になっているようですが、他にも色々説があるみたいです。

そもそも「三十三」というのは観音菩薩が33の姿に変化(へんげ)して衆生を救うという仏教の教えからきているので、「西国三十三所」のように観音信仰で付けられた名前なのかも知れません。


倉見駐車場にあった登山ルートの案内版です。真ん中のルートの駐車場から山頂までが最短ルートであり、今回我々は最短ルートの往復だったのですが、右のろくろ山(662m)や左の能登越(695m)を周る周回ルートもあるようです。



下が倉見駐車場から頂上までの最短ルートの往復の行程図です。

最短ルートだけあってひたすら連続する登りがそれなりにキツイですが、風神を越えて尾根道に取り付くと一気に視界が開けます。尾根道から三十三間山頂上までは芝地になっていて三方五湖や日本海も見渡せるとても気持ちの良い景色が楽しめます。頂上には景色はありません。

全体では所要時間約4時間、距離7.7km、累積標高760mの結果となりました。



倉見の駐車場は鯖街道の国道27号を横道に入ったところにあります。横道は舗装されていて狭くはありません。無料の駐車場もとても広いです。さすが関西百名山の一つと言ったところ。

駐車場を出たのが9時すぎ。



5分ほどで登山口に出てきます。左の看板の住吉神社は帰りに立ち寄ります。


しばらくスギ林の林道が続きます。わきに瓦が積み上げられています。ところどころ石垣もあって、かつて寺院などがあったんじゃないかと思われます。

かつて鯖街道の往来が活発であったころはこの倉見集落も宿場があったみたいなので、集落の規模も大きかったのでしょう。鰣(はす)川に流れる沢も通り水場もあって生活に便利でもあります。

集落が小さくなって空いた土地に杉を植林したんじゃないかという気がします。


いよいよ登りに入ります。頂上まで3kmの看板。


風神の滝。ここから北北東に沢が流れていますが、登山道はここから尾根への直登コース。風神はこの先尾根道手前に出てきます。



尾根道にとりつくまで約600mの直登で登り続けなので時々休まないとしんどいです。落ち葉が多くて滑りやすいのも神経を使う。

でも11月中旬にしては暖かく薄い半そでTシャツで汗ばむほどでした。

途中にあった夫婦松。夫婦に見える二本の幹が伸びていたのでしょうが、残念ながら枯れてしまっています。


尾根道手前に出てきた風神。このそばに石塔があるのですが見過ごしました。江戸時代(天保3年)に村で疫病が流行ったときに行脚中の僧が村の辻にある石塔を山中に祀れと告げたので、ここに石塔を設置したところ疫病が治まったという伝説があるようです。

天保と言えば江戸の三大飢饉の一つ、天保の飢饉が頭に浮かびますが異常な低温が原因の凶作とインフルエンザの大流行がちょうど天保3年頃から発生したようです。

日本海に近いこの地でも大変な寒さだったのでしょう。

風神・雷神の風神というのは風を吹かす神であるとともに、風邪や邪気を追い払う神でもあるそうです。


ようやく尾根に出てきました。左が山頂(842m)で右にいくと轆轤(ろくろ)山(662m)です。


尾根から山頂までは芝地になっていて視界を遮るものがありません。三方五湖から若狭湾の景色が大変すばらしい

三十三間山を関西百名山にせしめている理由はこの尾根道の景色にあるのは間違いないでしょう。



地図で調べると5湖のうちの3つは確認できましたが、2つは山に隠れているようです。



雲谷山は三十三間山への尾根をどんどん北北東へ進んだところにある山で、上の写真ではさらに右にある山です。ちょうど4年前の今頃登った時の写真ですが、三十三間山よりずっと近いだけあってよりはっきり見えています。

しかし近すぎるので久々子湖と日向湖は見えていません(写真右手方向で視界から切れている)。



山すそを眺めると紅葉が始まっています。



中央が山頂。尾根道はこのような芝地で見晴らしが素晴らしいのですが、なぜか頂上だけ樹々にこんもりと覆われています。


途中にあった細い鉄塔。説明版を見ると風況観測敷と書いてあります。



この観測塔は細い鉄柱の三方向がワイヤーで地面に固定されていて風を受けて前後に揺れるようにできています。見えていると酔ってきます。

6年後の稼働を目指して風力発電の設置計画があり、実際の風の強さを測定しているとのことですが、尾根沿いに180メートルの風力発電塔を17基設置する計画のようです。

ひょっとして三十三間山の風神にちなんだ計画?

完成すれば10万キロワットなので小規模の火力発電所ほどの発電量があり、世界の喫緊の大問題である地球温暖化にとっては必須の打ち手であることは確かなのですが、植生の破壊や猛禽類への影響を懸念する声が大きいようです。

なによりこの素晴らしい芝地の尾根道が巨大な風車の列に覆われると思うと複雑な気持ちになります。

再生可能エネルギーの単位発電のコストが火力発電を下回った現在、太陽光パネルや風力発電塔をどんどん設置すべきなのですが、土地の少ない日本には課題が多いようです

こういうのを英語でNIMBY(not in my backyard)と言うそうです。「賛成だけどウチのそばはやめて」という意味。

でも、日本は海が広いので海洋に太陽光パネルを敷き詰めるのが最も優れたソリューションのように思えるのですがどうなんでしょうか?



山頂842mに到着。やっぱり展望はありません。


落ち葉に隠れていた大きなヒキガエル。表皮に毒があるので触ると危険。



山頂は景色がなかったので尾根の芝地に座って昼ご飯にしました。さすがに尾根は日本海からの風が吹くので上着を着ないと寒い。それでも手袋がいるほどの寒さではありませんでした。



頂上から1時間半ほどで下りてきたので帰りに住吉神社に寄ってみます。道元は鎌倉時代の禅宗の曹洞宗の開祖ですが、祖父というのは誰なんでしょうか?

調べてみると道元の父親は諸説あるなかで源道親と言われており、その父親は源雅通(まさみち)ですが、どう関わりがあるのかわかりませんでした。

もう一つは時代は400年程下って織田信長。三方五湖の東に国吉(くによし)城があり織田信長による越前の朝倉攻めの拠点として使われていたので多分そのつながりなのでしょう。

いずれにせよ、もうちょっと説明する案内版が置かれていてもよいかと思います。


この看板を見てわかりました。道元は久我家の出身なので道元の祖父を内大臣の久我通基(みちもと)だとしているのですね。

法華経は天台宗の重要な経典で貴賤を問わず人々の救済を説き、その慈愛は自然の動植物まで広がっています。おそらく久我通基の歌なのでしょうが、山の自然の美しさを歌ったこの歌も法華経と関係しているということでしょうか。


入口に迷いましたが住吉神社の境内です。住吉神社は全国に無数にありイザナギ、イザナミの時代の非常に古い神様を祀っていますが、これはどうやら江戸時代のものらしい。

さきほどの法華経とはどういう関係があるのでしょう。神仏習合で三井寺の権勢に飲み込まれたのでしょうか。



境内に祀ってあった謎の黒い石。越前の方で採れた黒曜石を祀っているのでしょうか?


謎に満ち満ちた住吉神社からでると三十三間山の頂上が見えました。まだ13時過ぎなので近くで美味しい海鮮丼でも食べようかと思って2軒ほど訪ねましたが、貸し切りだったり2時閉店のオーダーストップだったりで、食べられませんでした。



2024年11月8日金曜日

【西国街道】玖波宿(大野浦駅)~関戸宿(新岩国駅)

 (残念社から瀬戸内海を望む)

廿日市宿(古江駅)から歩き始めた2泊3日の西国街道の3日目です。といっても2日目は宮島の弥山に登ったので、西国街道歩きは1日目からの続きになります。1日目と2日目のリンクを貼っておきます。


下が今回3日目の記事で紹介した場所をプロットしたマップです。3日目のルートは西国街道らしさを思わせる面影はほぼないものの、残念社からの展望を始め、時折り見える瀬戸内の景色が素晴らしいのと、時々、道路から突然里山の小道に入ってヒヤヒヤすることが印象的でした。

行程的には22km、6時間、3.2万歩でした。終点がちょうど新幹線の新岩国駅だったので終わりにしましたが、もうちょっと歩けたかなといった感じです。



前日は岩国駅近くの東横INNに泊まりました。無料の朝食がついて10500円。最近のビジネスホテルのように大浴場はないものの、清潔で快適なホテルでした。前々日の宮島のホテル(リブマックス安芸宮島)がダメだったので岩国のホテルは満足のいくものでした。

昨夜の夕食はせっかくの広島なので生牡蠣や新鮮な魚を求めてGoogleMapでかなり綿密に調査をしたのですが調査結果の一位「源蔵」は休み、二位「歩留都」は満席だったので、新しめで口コミ評価の高い「縁家」に行ったところ生牡蠣はなかったのですが刺身盛りがたいそう美味でした。

さて、翌日11月8日(金)の朝8時前に6日に歩いた終点のJR大野浦駅に到着。街道歩きをリジュームします。


国道2号線沿いを歩いていくと、丸石浜のあたりで突然変な脇道に入ります。今回3日目のルートはこういうパターンが多いのです。


地図でみるとこのあたりは宮浜温泉郷となっています。歩いていた時は温泉旅館は見当たらなかったのですが10件ほどあるようです。昭和になってから開発された温泉地のようです。

温泉郷の上を進む西国街道の坂が四十八坂と書かれています。下の地図は昭和25年のものでまだ温泉郷は開発される前のものです。

(「今昔マップ」より)


下は宮浜温泉のマップで真ん中を横切る青い山陽自動車道の上下に通る道が四十八坂で今回歩く西国街道になります。

(「宮浜温泉公式ホームページ」より)


四十八坂に入るとすぐのところにある石碑。九州探題の今川貞世(さだよ)が通りかかった時の歌です。廿日市宿を過ぎたイボ観音堂のところにも今川貞世の歌がありましたが、こちらの歌は「海辺で藻塩を焼いているのかと思ったけれど、よく見ると蜑(あま)の小舟の火だった」という内容。

藻塩というのはホンダワラ(ヒジキの種)などの海藻を焼いて採った塩のことで、瀬戸内海でかつてやられていたそうです。また「蜑(あま)」というのは海人とも書き海で魚介や海藻を採っていた人たちのことです。真珠とりの海女も「あま」ですね。

以前「現代語訳 魏志倭人伝」を読みましたが古墳時代の日本人というのは豊富にとれたアワビやトコブシを食べていたようで、そういう習慣が鎌倉、室町にも続いていたのでしょうか。「蜑」という字には「虫」が入っていて古代からの先住民に対する差別意識が感じ取れます。




四十八坂はあまり人が歩いていない道でなにやら悪い予感がします。


高速道路(山陽自動車道)です。街道歩きの大敵なのは高速道路でロクな道はありませんが、作業車に道をふさがれています。


しかたがないので作業車の横をすり抜けようとしたところスズメバチの巣です❗

マジ勘弁して欲しいよなぁー。作業車の反対側を恐る恐るすり抜けました。



四十八坂から景色が広がりました。左は宮島の西端で、中央右の小さな島は可部島(かべしま)。無人島です。



坂を進んで行くと「残念社」の案内版が。なんだそりゃ?と一人で笑っていたら西国街道はそっち方向へ行けと。


ヤマレコのルートを見るとどうみても高速道路の下から左に入る道を指している。本当に悪い予感しかない。四日市宿手前の松子峠がとんでもない荒れ地だったのでその記憶が蘇ります。とにかく人工物に壊された自然の道が一番酷い



歩いてみると案内版もあって人通りの感じられない道ですが、松子峠のようなことはなさそう。



何やら石垣の横の細い道のようなものを不安にかられながら進む。



残念社がでてきました。思っていたよりもマトモ(?)。丹後宮津藩士で幕府軍の和平の使者として依田伴蔵(当時44歳)が長州にむけて走っていたところ、監視していた長州兵が狙撃してしまい、伴蔵は死に際に「残念」とつぶやいて絶命したとされ、地元の人がそれを哀れんで建てたのがこの残念社だそうです。

長州征伐については詳しいことは知りませんが、蛤御門の変をきっかけに1864年から始まり一旦は収まったものの、第二次長州征伐が1865年から始まり幕府長州の交渉が決裂して本格的な戦闘が始まったのが1866年6月からで激しい戦闘が繰り広げられましたが7月になって将軍徳川家茂の急死と福岡の小倉城が長州軍に落とされたことことに衝撃を受けた幕府は和平を提案し、9月に宮島で勝海舟(幕府)と井上薫(長州)との和平会談が行われました。

残念社の話に戻って依田伴蔵が絶命したのは7月6日とされています。将軍家茂が死去したのが7月20日なので和平の使者が走るには早すぎるようにも思えますが、何か他にも消えてしまったストーリーがあったのでしょうね。



残念社そばには松が植えられた展望台があり今日の旅のなかで一番素敵な場所でした。悪い予感いっぱいで進んだ四十八坂でしたが、このような場所にたどり着けて幸いでした。



残念社からはさらに山奥へ進む道がありますが遠慮しておきました。この先の神社はなんと依田伴蔵の神社で、彼が刀槍の使い手だったことから居合道の社とされているそうです。

和平を伝えられずに殺されたのは無念でしたが、神様にされるほどでもないと思うのですが。



四十八坂が舗装道路に変わるあたりから大竹の工業地帯が見えました。



高速道路を南へくぐって八坂の住宅街を通ります。家からこの景色を毎日見れるのは羨ましいなぁ。



急な階段を下りて海沿いの道へと戻って行きます。



玖波(くば)駅の手前で国道2号線に戻るのかなと思うと再び里山の道に入ります。この地区は玖波宿手前の鳴川村で昔から石畳が敷かれていたのをいまでも保存されているようです。




多分このあたりを鉾(ほこ)の峠というのでしょう。峠と言うほどの高度はありませんがJR山陽本線のトンネルの上を通る道になっています。うまい具合に電車がやってきました。



普通トンネルの上は危ないので通行禁止になっているので珍しい体験です。



玖波駅手前のJR山陽本線の下のトンネルを北へくぐったのですが、本当はその手前が玖波宿でした。高札場跡があったらしいのですが、気がつかずに通り過ぎてしまいました。

廿日市宿でもそうでしたが玖波宿本陣も長州戦争の際に焼失してしまったので、面影が消えたまま現在に至るのは寂しい限りです。

写真は玖波駅北の恵川を渡ったところから宮島を眺めたものです。



玖波宿を過ぎると再び高速道路沿いの道になり2度ほど迷いながら西国街道を踏んでいきます。御園地区を通る道にある柵の左側は高速道路ですが、橋姫神社と書かれた簡素な社があります。

高速道路建設でここに移設されたと書いてありますが昔の地図にもそれらしきものはなく由緒は全くわかりません。



御園トンネルのところで今度は鉄パイプ階段をあがります。全く高速道路沿いはロクなことがない。



登山道といった風情の里山の道。



コンクリートの避難所みたいな構造物に郵便のマークが?何だろうと調べてみるとGoogle Mapに「逓信省装荷線輪装置用ケーブルハット跡」と書いてありました。

大正時代から敷かれた電話の市外通話用のための構造物で、この中には荷線輪装置と呼ばれる特殊なコイルが入っていたようです。コイルは長距離ケーブルを流れる電気信号の減衰を小さくするための目的ということです。

海外でも気軽にビデオ会議ができてしまう今から思えば、たかが市外通話...と思ってしまいますが技術の進歩というのは無数の先人たちの努力の成果の賜物なのですね。



ここは大竹市だけあって急に竹林がでてきました。ベンチがあったので一休み。案内版にはこの場所が幕府軍と長州軍の戦場であったと書かれています。

幕府勢は1千、長州勢が200だったにもかかわらず正面側面から突かれた幕府軍は撤退を余儀なくされたそうです。

ここは苦の坂峠という難所の一つだったとも書かれていますが、標高100m程度なので実感が湧きません。こんなん難所って言ってたら中山道の碓氷峠(1200m)とか和田峠(1500m)なんかとても通れません。

まぁ、ここは当時は地形が随分違っていたのでしょう。



苦の坂峠の道は歩きやすいのですが、ここは途中で軽い土砂崩れがあって倒れた竹をよけて歩くのに一苦労。



苦の坂峠が終わりました。この案内版にも長州戦争のことが書かれています。1866年6月の戦闘はこのそばに流れる小瀬川を挟んだ布陣から始まったけれど、前の案内版にあったように長州勢が幕府軍の側面を突き、さらに混乱した幕府軍の背後に周りこんだので恐れをなした幕府軍は潰走したそうです。

やはり地元の兵は地の利を生かせますね。



小瀬川沿いの道に長い階段の神社があり体力に余裕があったので登ってみました。



大元神社とあります。歴史研究に熱心な大竹市のサイトによると、江戸時代後半頃の新しい神社。そのころに急ピッチで土地の開発(多分田んぼが広がり人口が増えた)そうです。



神社の神楽殿や拝殿のなかの写真や絵を見ると色々分かることがあるので見てみます。



この写真は昭和15年1月と書いてあり何やら意味深だなと大変興味を持ちましたが日露戦争の旅順攻略時の写真でした。中段左から二人目が乃木希典。土地とは何の関係もない。



以前もどこかの神社で古い船の写真が拝殿に飾られていましたが、1911年(大正元年)に建造されたこのシンヨウ丸も多分、移民に関係しているのではないかと思います。S.S.とはStore Ship、輸送船であり人を運んだのでしょう。

色々調べると大竹市でも明治の終わりから大正にかけてハワイやアメリカへ移民した人がいたようで、当時の村人の何人かがシンヨウ丸で旅立っていったのかも知れません。



小瀬川は西国街道時代は橋がなく舟で渡していたと案内版にありました。山に囲まれているせいか田んぼが少なくて和紙を作って生計を立てていたそうです。



渡しといっても舟をならべて橋をかけていたと図にあります。大勢の大名行列もこうすれば効率よく渡れますね。

そういう筆者も橋の場所を間違えてずいぶん先まで行って引き返す羽目になりました。



小瀬川を越えると山口県岩国市です。西国街道歩きもついに最後の県となりました。



西条宿と海田市宿の間の瀬野川沿いにもありましたが、この小瀬川沿いにも吉田松陰の江戸への護送中の歌が石碑になっています。

自分が江戸で獄死することがわかっているので、夢路にももう戻ることはできない、小瀬川を渡るのも今日が最期か、という内容です。まだ30歳で大成しているのがすごいです。山口県に入ってからの西国街道、長州藩の神様的存在である吉田松陰先生関連の碑が多そうな予感。



小瀬峠を越えます。標高150mなので今回の旅で弥山を除いてもっとも高い地点。まぁ別にたいしたことはありませんが。

このすぐ横に県道1号線が走っているので、旧道であるこの西国街道は舗装道路ですが車は全く通りません。



小瀬峠を越えて関戸地区にでてきました。左の上を走っているのが県道1号線。



関戸宿にたどり着きました。ここが本陣跡と書かれています。本陣、脇本陣のほかに駅家(うまや)が置かれ常時20頭ほどの馬が待機していたとのこと。レンタカーみたいなもんですね。

また、ここにも吉田松陰先生の石碑が。東遊なので22歳で初めて江戸へ行ったときの記念碑だそうです。龍野川の時のブログにも書きましたが「ペリー提督日本遠征記」で強引にペリーの船に乗ってきてアメリカへ連れていけと嘆願した2人の若者の話が載っていましたが、吉田松陰と金子重之助で二人とも23歳。初めての江戸でさっそくアメリカへ行こうとしたのはスケールが大きいというか無鉄砲というか、若くなければできませんね。



手前の倉庫が邪魔ですが、錦川をはさんだむこうに見える横山(標高200m)の上には岩国城跡があります。ここからだと何も構造物は確認できません。



GoogleEarthで岩国城から歩いてきた西国街道のルートを鳥瞰するとこんな感じです。岩国城は吉川広家(きっかわひろいえ)が関ヶ原の戦いの後で築城したものです。吉川広家は毛利輝元の家臣でありながら関ヶ原では西軍に勝ち目がないと信じており東軍と内通していたとされる人物です。

しかしながら岩国城は築城7年後に幕府の一国一城令により廃城になってしまい、コンクリート製で昭和に再建されました。



西国街道歩きで初めて見た終点の下関。まだ150kmもあるのか。山口県は広いですねぇ。



お昼時でも見つからない食べ物やさんが岩国市多田でようやく見つかり、閉店2時の30分前に駆け込んだのが、お好み焼き「はまや」さん。岩国市でもやっぱりお好み焼きなんですね。



アツアツの鉄板でいただきます。ずっと広島のお好み焼きはそばと餅が入っているものだと思っていましたが、前回のお好み焼き屋さんで聞くと餅が入りだしたのは最近らしく、スタンダードはやっぱり、この、そばだけの肉玉だそうです。



2時すぎに新岩国駅に到着。今回は涼しくて気候もよく、もうちょっと歩けたのですが新幹線の駅で次に始めるにも便利なのでこちらで旅の終点としました。