2025年12月19日金曜日

【東海道】JR朝日駅、桑名宿、近鉄蟹江駅

 関宿から桑名宿の先までを2泊3日の旅で歩く最終日3日目です。

2日目の記事はコチラ

下の地図が3日目のルートと記事で紹介した場所です。3日目は合計23km、6時間の歩きになりました。

江戸時代、桑名からは「七里の渡し」という舟で熱田宿まで渡ったので、筆者は桑名から国道1号線を歩いたのですが、旅行の後で同じ江戸時代に長島の先から熱田宿までを結ぶ佐屋街道という別の陸ルートがあることを知りました。国道1号じゃなくて佐屋街道を歩くべきでした


3日目も昨日と同様無料の朝食を食べてホテルをチェックアウトして7時半の関西本線に乗ります。昨日のゴールのJR朝日駅は桑名駅から一駅なので8時前にはスタートです。



昨日のルートの終盤で富田と小向(おぶけ)が焼き蛤の名所だったと書いてありましたが、ここが小向です。

東海道名所図会を見ると実に大量のハマグリをドンドン焼いている様子が見えます。昨日の焼き蛤は4個で2000円だったので江戸時代がうらやましい。

(国立公文書館デジタルアーカイブ)



員弁川(いなべがわ)を渡ります。桜並木が堤防の役目を果たしていると説明板。



安永集落の常夜燈。員弁川の舟運や東海道往来客相手に茶店があり賑わったと書いてある。



矢田集落の火の見櫓。ここも休憩場所(立場)になっていて茶店があったという。ここで東(右)へ曲がる。



桑名の町に入ってきました。筆者が泊まったホテルやJR桑名駅は西側(左)ですが桑名宿は東へ折れます。



桑名城の外堀です。桑名城は安土桃山時代に築城され、本多忠勝が拡張整備をして、その後は徳川家康の出身である松平家の城になりました。

天守閣は江戸時代中期の大火で焼失してしまい、その後は天守なしの城で使われてきました。


内堀。城の石垣もなく城跡というより公園といった風情です。



二の丸から本丸へ渡る橋。



本丸南東角にあった辰巳櫓跡。砲台があるので明治新政府軍と戦ったのかと思いましたが、無血開城したとのこと。



本丸があったところには神社(鎮国守国神社)があります。



これが桑名城の縄張(城の全面図)。天守や櫓は残っていないが、掘や水路は今もそんなに変わっていない。



揖斐川沿いの七里の渡し跡に出てきました。東海道を行く旅人はここから舟に乗って7里(約28キロ)先の熱田宿まで進みました


東海道五十三次の桑名「七里の渡し」。背景の桑名城が立派。広重の時代には天守はすでに焼失しているので鯱屋根は辰巳櫓と神戸櫓か。

当然、風力と人力だったので7里を進むのに4時間かかったそうです。



宝暦(江戸時代中期)の治水工事の説明板があった。これから渡っていく木曽三川といわれる揖斐川、長良川、木曽川は網の目構造になっており、大規模な氾濫を繰り返したので治水工事をしたという話ですが、幕府はなんと薩摩藩に命じたと書いてある。

なぜ薩摩藩に?と思い調べてみると当時、薩摩藩は琉球貿易で私腹を肥やしていたとして幕府に睨まれたからだそうです。

三川の網の目構造を一部分断させることは出来たのですが、薩摩藩士数十名が赤痢による病死の他、自害したとされています。総監督だった薩摩家老も多くの犠牲者を出したことに責任を感じて切腹しています。

この幕府に対する薩摩藩の恨みが、明治維新の倒幕へつながった原因の一つであることは間違いないでしょう。

その後、明治20年にオランダ人技術者を10人招いて本格工事を始め、25年に分流工事を完成させました。



揖斐川を渡る伊勢大橋に向けて歩きます。薩摩藩の工事や明治の工事を経て、揖斐川沿いは犬が散歩するような整備道になりました。



桑名の七里の渡しから熱田宿まで舟で行く代わりに、筆者は歩くので、この先国道1号線沿いに近鉄蟹江駅まで歩いて今回の旅を終えました。

が、しかし!あとでこのブログを書きながら色々調べていると、なんと七里の渡しの別ルートとして三里の渡しというのがあるのがわかりました。

三里の渡しは長島にあった川を横断して佐屋に着き、そこから佐屋街道という公式ルートを通って熱田宿につながっています

筆者はそれを知らずに長島を越えた後、最短ルートの国道1号沿いを歩いてしまいましたので、次回の旅は長島からやり直しということになります。

佐屋街道は江戸時代陸地が不安定だったので熱田には北へ迂回したルートになっていて宿場が3つあります。

七里の渡しは海難事故や船酔いがキツイので、基本河川をいく三里の渡しを好んだ旅人も多かったそうです。

今回、近鉄蟹江駅までおおよそ8km歩いたのですが、8kmをご破算にして次回やり直しですわ。



上記について何も知らない筆者は、例によって「スナックラジオ」を聞きながらまずは揖斐川と長良川にかかる伊勢大橋を渡ります。

伊勢大橋は昭和9年開通、1.1kmの長い橋です。鉄骨製の古い橋なので車が通ると揺れと振動が伝わってきます。

後で知りましたが空襲時の米軍機による機銃の弾痕があちこちに残っているそうです。



割堤を挟んで2つの川が合流していますが、揖斐川の源流は滋賀県方向伊吹山地の東、長良川の源流は岐阜県方向大日ヶ岳あたりを源流にしています。

(水資源機構より)

二艘の舟が上流に向かっていますが、ハマグリ漁の舟かな?



長島に入って面白い形の神社があったので行ってみる。松ヶ島神明社という神社。長島も木曽三川を主とした毛細血管のような河川で網の目のように島々に分かれていて、それぞれ堤防で囲まれた島を輪中(わじゅう)といいました

この松ヶ島も輪中のなかの一つの島の高所にあったんじゃないかと思います。




神社のなかでサーモスのほうじ茶を飲んでホッと一息。1kmの伊勢大橋を渡るのが長くてちょっと疲れた。それでも滋賀のびわ湖大橋よりちょっと短いかな。



消防署の前を通りがかったとき場外放送で「くらかけ峠、積雪で通行止めになりましたー!」と流れたので、調べてみると、鞍掛トンネルは御池岳を東西に貫く国道306号線の最高部にあるトンネル。多分、酷道だろうから夏でもクルマで走りたくない。

「ここは東海道じゃない」と思い長島を適当に歩いていると道標に「前ヶ須街道/宮 名古屋」と書いてあります。

調べてみると、明治時代になり土砂蓄積で佐屋湊が使えなくなったのと干拓が進んで迂回ルートの佐屋街道を通らずとも直線ルートが使えるようになったことで、今の国道1号線に近い前ヶ須街道が国道として新設されたとのことです

それに伴って三里の渡しもお役御免となり、長島からは木曽川を越えた対岸の前ヶ須に渡るだけの「ふたつやの渡し」が使われるようになりました。

木曽三川と東海道は、調べるとなかなか奥が深いですね。



歩きながら「旧街道っぽいなぁ」と思っていましたが、明治の東海道だったのですね。



長島の東端に出てきました。いよいよ木曽川を渡ります。

尾張大橋は昭和8年開通なので伊勢大橋の1年前。この橋が出来るまで、さきほどの前ヶ須街道につながる「ふたつやの渡し」が使われていたのです。



尾張大橋は900m弱なので伊勢大橋よりも少し短いのですが、それでも長い。どういうわけか舗装の表面が靴裏に時々引っかかって、つんのめりそうになって疲れた。

木曽川を越えるといよいよ愛知県です!



木曽川を越えてひたすら国道1号線を歩き続けます。途中でお昼になったので「ラーメンずんどう屋」で和風ラーメン大盛りを食べた。ニンニク生絞りが無料でもらえたのが疲労回復に寄与。

そのあと善太川を渡って写真は日光川を渡るところ。川が多い。

木曽三川には遠く及ばないがそれでも大きな川です。



国道沿いを歩くのは全然楽しくないけれど、食べ物屋さんについては選び放題なのが長所です。

ここから左に曲がって近鉄蟹江駅に2時ごろ到着、名古屋駅から新幹線に乗って京都へと帰路につきました。

次回は長島まで8km戻って佐屋街道を歩くことになります。




2025年12月18日木曜日

【東海道】JR加佐登駅、石薬師宿、四日市宿、JR朝日駅

 関宿から桑名宿の先までを2泊3日の旅で歩く2日目です。

1日目の記事はコチラ

下の地図が2日目のルートと記事で紹介した場所です。2日目は合計25km、6時間20分の歩きになりました。


今回2泊3日の宿は桑名駅前の桑名ステーションホテルでした。大浴場に無料の朝食つきで2泊で1万5千円という昨今の物価高のなか大変がんばっているホテルでした。

2日目は桑名駅で7時半の電車に乗り、30分ほどかけて1日目のゴールだった加佐登駅に降り立ちます。乗客の大半は途中の四日市駅で下車していきました。

三重県の県庁所在地は津市ですが四日市市が人口数では三重県トップです。



駅を出てしばらく鈴鹿川の北岸を歩く。水害を恐れてかほとんど建物がなく、そのおかげで景色がよく見えます。

筆者の住んでいる滋賀県はこれら鈴鹿山脈のちょうど裏側(西側)です。鈴鹿山脈を東に見ながら歩くのは珍しくて楽しいです。



鈴鹿山脈の山々に東海道をプロットした図です。⑦は鈴鹿セブンマウンテン、⑩は鈴鹿十座、「カ⑦」は亀山7座の山々です。上の写真は南の野登山から北の釈迦ヶ岳の先まで見渡せています。



石薬師の一里塚。



石薬師寺に立ち寄ります。真言宗で本尊は弘法大師が一夜で彫ったと言われてる石仏ですが、「弘法大師が一夜で~」というのは大変良く見かけますね。

薬師如来の石仏が石薬師宿の名前の由来です。



お百度石の上のお地蔵さんが可愛い。毛糸の帽子を被らされています。



東海道五十三次「石薬師」に石薬師寺が描かれています。



板張りと瓦が立派な倉。斜めにかかる松の枝が大変美しい。



佐々木信綱の資料館になっています。バサラ大名の佐々木道誉に関連した人かなと思いましたが時代が全然違っていて、ここ薬師村出身の歌人でした。



信綱資料館の横が石薬師宿の本陣(小澤本陣)。亀山宿、庄野宿と同様、民衆に人気のお伊勢参りはこのルートを避けて通ってしまうため旅籠経営は厳しかったそうです。旅籠の数は庄野宿と同じたったの15軒。

本陣といっても小ぶりです。



浪瀬川手前に静かに佇んでいる北町の地蔵堂。白いサザンカとの組み合わせが風情がある。


鈴鹿市を出て四日市市に入り、しばらく国道沿いの面白くない道が続きます。道路沿いの食堂にあったのが采女(うねめ)の一里塚。

采女とは宮中の下級女官の名であり四日市の富田といわれるこの地で、采女になった娘が多かったことが由来になっています。


四日市にむけて40mほどの下りの道。石薬師宿のあたりが台地のようになっています。



景色の先をよく見ると名古屋のある濃尾平野を通り越して雪化粧した木曽の御嶽山(3067m)が見えます!さらに左の奥には乗鞍岳(3026m)の姿も。

御嶽山は今年9月に登りましたが、あらためてよくあんな山に登ったもんだと思います。



血塚社(ちづかしゃ)。怪我をした日本武尊がここで血を封じたとされていることが由来。



境内には日本武尊の塚があります。伊吹山でバケモノ(古事記はイノシシ、書記は大蛇)と闘って負傷したヤマトタケルは亀山の能煩野(のぼの)という場所で亡くなったと言われています。能煩野は昨日、ナゾの飛行機があったあたりです。

とすると伊吹山からの帰り、ここで止血はできたけれどもその甲斐なく少し進んで死んでしまったのですね。

以前中山道歩きの際、醒ヶ井で清水で傷を洗って回復したという伝説を目にしましたが、そうすると伊吹山の戦いの跡、いったん彦根方面におりて醒ヶ井に立ち寄ってからこの地に来たことになります。



さきほど御嶽山が見えた場所から血塚社のある40mほどの坂は、よほどの坂道だったようで杖衝坂(つえつきざか)という名前がついています。杖を突きながらなんとか坂道を登ったのでしょう。

坂にあるのが芭蕉の句。

歩行(かち)ならば 杖つき坂を落馬かな

歩けばよいのに杖衝坂を馬で登ろうとして落馬してしまった、という歌です。「奥の細道」を始める前年、伊勢へと向かう道中です。



筆者は下り坂でしたが、そんな大変な坂にはとても思えませんでした。整備される前はガタガタだったのでしょう。



坂から再び見えた御嶽山と乗鞍岳。



内部川(うつべがわ)を渡ります。遠くに尖った鎌ヶ岳と右に御在所岳が見えます。この内部川も鈴鹿川に合流して伊勢湾へと向かいます。



日永の追分と呼ばれる東海道が伊勢街道に分岐する地点(追分)です。鳥居が向いている左方向が伊勢街道、手前から右方向が東海道です。




江戸方面からお伊勢参りをする人は東海道からこの日永の追分を経由して津を通り伊勢神宮へ向かいました。なので日永の追分は人通りも多く、正式な宿場町ではない間宿(あいのしゅく)として賑わったそうです。



鳥居の立っている分岐点にはベンチがあったのでサーモスから熱いほうじ茶を入れて一休み。日永の追分では名物「追分まんじゅう」を売る茶屋が軒を連ねていたらしい。



広重「東海道五十三次」追分の図。たしかに「まんぢゅう」を楽しそうに食べてますね。



見事な一本松の巨木。このあたりは松並木が続いていた。



砲弾の形をしているので戦争関連の碑であることがすぐわかります。街道歩きをしていると村々で頻繁に見かけます。これは志那事変(日清戦争)の忠魂碑。日露戦争、太平洋戦争は多いですが、日清戦争はあまり見かけません。

忠魂碑のそばの看板に、日永集落の村人たちが手をつないで輪になって踊る「つんつくおどり」が紹介されていました。



天白川(てんぱくがわ)を渡ります。もう鈴鹿川とは別の流れになりました。鈴鹿山脈も鎌ヶ岳が後ろに見えるようになります。



日永駅そばにある大宮神明社。昔は500mほど内陸側にあったのを火事がきっかけで東海道沿いのこの地に移設したと書いてある。内陸側にあった昔はこの辺りは海だったので舟付神社と呼ばれていたそうだが、東海道ができた時は陸地になっていたことになる。

日永駅のある路線は四日市あすなろう鉄道が運営しています。



四日市市街に入ってきました。商店街の名前はこの先にある諏訪神社に由来しています。



商店街はそれなりに賑わいがあります。この気持ちの悪い人形は自動で首が伸び縮みしています。サンタの帽子が全く似合っていない。

これは大入道と言われ、毎年夏に行われる四日市祭りの山車に載せられたことが由来のようです。こちらでは山車のことをネリと呼んでいるみたい。



四日市祭りの様子を描いた明治時代の版画絵。大入道以外にも巨大な魚に人間の足が生えているのも見える。かなりのゲテモノ。

大入道がろくろ首のように首が長いのも祭りで目立つからなのでしょうね。



さきほどの「スワ栄」と「スワマエ」が四日市の2大商店街。

この辺で時間が12時なのでどこかでお昼のお店を探しますが良いお店が見当たらない。



諏訪公園に出てきました。なにやらアールヌーボーとシュールレアリスムの中間のようなデザイン。すぐ向こうに諏訪神社がありますが、優先順位はランチ。



諏訪公園西の歓楽街のなかにタイ料理店(カルアータイ・イーサン)が営業していたので少々不安になりながら入ると、タイ人のお母さんが溢れるような笑顔で「サワディー・カー」と挨拶してくれました。

お母さんが作ってくれたパッタイ定食は本場の味で美味しかったです。

歓楽街や風俗街の朝や昼のお店って、本当に「休んでいる」雰囲気があって何故か癒されますね。



タイ料理を後にして諏訪神社に向かいます。岩座の上の柱には「廣く会議を興し萬機公論に決すべし」とあり、これは明治天皇の五箇条の御誓文の第1条。明治元年の前に発布されました。柱は五角形になっていて側面、裏面に残りの4条が記されています。



諏訪神社。諏訪湖そばにある諏訪大社を中心にして全国にありますが、ここは鎌倉時代に勧請されたそうです。

鎌倉時代は東国武士が実権を握った時代だったので、東国で国譲りの太古から信仰されていた諏訪の神を勧請したんじゃないかという気がします。



三滝川を渡ります。この川の手前が四日市宿があったところ。四日市宿は大変にぎわったようで旅籠の数も100軒近くありました。山の景色も鈴鹿山脈の北端の霊仙山から関ヶ原の向こうの伊吹山が見えてきました。



「東海道五十三次」四日市「三重川」。三重川は三滝川のことです。河原の風で飛ばされた笠をあわてて追いかける旅人。

ちなみに「三重県」の由来はヤマトタケルが東征の帰りで足が三重に曲がる(?)ほど疲れたという話からだそうです。その状態で伊吹山の怪物と闘ったせいで大怪我をしたわけです。



カステラ屋さんにあった大入道。首が長い上にベロまで出している。

四日市のカステラは長崎カステラに四日市のお茶の風味を利かせているのが特徴だそう。



羽根村のあたり、ここは街道沿いに松並木があったが今はこの樹齢200年のこの松だけになった。この地域を川原津とよばれていたのにかけて江戸時代から変わらずの「かわらづの松」と名付けたと案内板。



小さな社は八幡地蔵尊で、本尊は地蔵尊なのに阿弥陀如来の姿をしていて「仏のことをよく知らない石工によるもの」と案内板。間違えてもお地蔵さんとして地域にとけこんでいるのが面白い。

左後ろの石碑はこの地に八幡神社があったことを記している。神社が無くなった理由は明治の「一村一社制」だと書いてあるが知らなかったので調べてみると、明治末に神社の威厳を保つために枝葉末節な社を取り潰す政策が打ち出されたとのことです。

ただ色々反対などがあって全国で徹底されなかったけれど、最も強力に実行したのが三重県で一村一社制の結果、神社の数が9割も減ったそうです。

古事記や日本書紀の神々よりも古い庚申さんとか男根崇拝的な神様(淫祠)が排除されたんじゃないでしょうか。



八幡の常夜燈。建てられたのは明治後期なので比較的新しい。さきほどの「かわらづの松」で記されていたようにこのあたりは松並木が続いていたけれど明治末には人通りの寂しい道で追剥ぎが出没したので、旅人の安全のために常夜燈が立てられたと説明版にある。

調べてみると関西本線の四日市ー桑名間は明治27年に開業されているので、そのあたりから東海道は寂れてきたのですね。

説明版には江戸時代の東海道の全盛期には、このあたりまで四日市宿の飯盛り女が迎えにきていたとあります。



右の石碑は明治後期に760mの暗渠による水路を通したことの記念碑。三重県特有の言い方で素掘りの用水路のための暗渠をマンボ(間歩)と言う。

しかし伊勢湾台風で水田も暗渠も破壊されてしまったと書かれています。伊勢湾台風は昭和34年に発生、被害規模は関東大震災に匹敵した。

石碑の後ろにある力石は120キロあって大正時代の力自慢たちが持ち上げて競い合ったそうな。



薬師寺の慰霊塔。これは大東亜戦争。薬師寺の本尊である如来像は弘法大師が彫ったとあるが、ここでは「一夜で~」とは書いていない。



富田村に入って案内板を読むと「そうは桑名の焼き蛤」はここ富田と、北に朝明川(あさけがわ)をはさんだ小向(おぶけ)村の名物だった、と書いてあります。

富田村と小向村が桑名藩に属していたので「桑名の焼き蛤」と言われたけれど、桑名城あたりではなかったと。

焼き蛤は今日桑名駅そばで食べる予定です。



すこし休憩したかったので街道を少し外れた公園で一休み。公園はかつてお寺があったと説明版。今日の旅は説明版が多くて面白い。



朝明川(あさけがわ)を渡ります。御在所岳が後方になりました。



3時前に今日のゴールであるJR朝日駅に到着。朝日駅からホテルの桑名駅までは一駅なのですぐです。



桑名市は四日市市ほどではないですが小都市といったところです。



面白いのは桑名駅は4つの鉄道会社のハブになっていることです

JRと近鉄は前後含めてかなり重複しています。南へは日永の追分からJRは東海道、近鉄は伊勢街道沿いに続いています。

養老鉄道は明治の終わりに実業家によって敦賀と四日市をつなげたいという野望をもとに設営されましたが山地に阻まれて岐阜県揖斐までとなり、その後経営が傾き近鉄グループに入ったものの現在はグループから外されてしまいました。

山岐鉄道はセメント会社が設立した鉄道で鈴鹿山脈で採った石灰を原料に製造したセメントの移送を目的に設営されて旅客用にも運用しています。


ホテルで一休みしてから待望の「桑名の焼き蛤」を食べに繰り出しました。一番良さそうだった「丁子屋」は予約でいっぱいなので、駅前の「蛤将軍」にいきました。

大きさは普通のハマグリぐらいですが4年物。4個で2000円なのでいいお値段します。

身は張りがあってツルっとした気持ちよい口当たりですが、味のほうは、まぁ、ハマグリですね。もう一回2000円出して食べようとは思いません。

ハマグリは98%が輸入物だそうです。桑名産も干潟の減少などで一時は絶滅かと言われたけれど、人工干潟や漁獲制限などで昨今は増加傾向にあるそうでよかったです。

この後ホテルに帰り大浴場で疲れをとってから睡眠をとります。

3日目最終日はコチラ。