2025年3月1日土曜日

暗峠(くらがりとうげ)~暗越奈良街道

 前回の記事から4ヵ月ぶりのブログ更新です。12月15日の風の吹く日にテニスをやっていてボールを踏んづけて転倒し足首をグキっと捻挫をやってしまいました

人生初の捻挫で未だに完治していません。テニスは年明けからやっていたのですが、ガタガタ道で足首に負担がかかると痛みが走るのでハイキング系は控えていましたが、今回はリハビリの古街道歩きです。

江戸時代の「おかげ参り」は有名ですが、イスラム教のメッカと同様、古くから日本人は一生に一度は伊勢参りをという願望があったようで伊勢神宮に向かう様々な街道が存在しています。

江戸方面からは四日市宿から分岐する伊勢街道、西日本からは大坂から奈良街道、堺の港からは竹内街道のルートで奈良に入りました。

今回は奈良街道の一部を歩きます。


この奈良街道は生駒山地を横断するルートで暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)とも呼ばれています。生駒山地の峠部分の地名が暗峠(くらがりとうげ)という名前になっています。

この街道は平城京と港であった難波を最短ルートで接続し、奈良時代から使われていた道です。標高455mの暗峠(くらがりとうげ)は樹木に覆われていたからとか諸説あります。



今回歩いたのは暗峠前後の近鉄枚岡(ひらおか)駅から近鉄南生駒駅の間の道です。距離8km、累積標高500m、時間3時間半弱でした。

暗峠の大阪側はかなりの急坂が続くので息切れがしますが、奈良側はゆるやかです。

行程のほとんどが国道308号になっていて舗装されていますが、なにせ道が狭くてきつい坂道なので滅多に車は通りません。暗峠は全く暗がりではなくカフェとかランチのお店が2,3あります。


京都から近鉄大和西大寺駅で乗り換えて枚岡駅に到着。まずは枚岡神社を参詣します。

石碑には「元春日平岡大社」と書いてありますが、ここから春日大社へ勧請されているのですね。かなり由緒ある神社のようです。また過去には「枚岡」ではなく「平岡」と言われていたそうです。


神社にあった案内版。生駒山周辺は色々なハイキングコースがあります。今回のルートは中央縦の赤線ですが、生駒山山頂から暗峠の上部横の青線ルートを歩いている人も多かったです。



奈良なので鹿が狛犬のかわりになっています。枚岡神社は、この神社の後ろにある神津嶽を行場とする山岳信仰が発端で、その後中臣氏の氏神になりました。


境内から少し南に行ったところに梅林があるので見に行きましたが、まだ開花したばかりでした。今年の2月は連日ニュースで大雪が伝えられたほど寒かったので梅の開花は例年より遅いらしい。

去年の酷暑を考えれば寒い方がずっとマシですが、春の訪れは良いものです。


水仙は満開でした。



神社から街道へ向かう道にあった「姥ヶ池」。枚岡神社の油を盗んで生活していた貧しい老婆が盗みが発覚して池に身を投げたという伝説。



暗越奈良街道に出てきました。もうすでに奈良盆地を見下ろすほどの標高になっています。ここでいったん近鉄の線路まで戻ってから街道を歩きなおす。


芭蕉の碑。「菊の香に くらがり登る 節句かな」。旧暦9月は菊の節句だったそうで我々とは逆ルートで奈良から大阪に入り、翌月大阪で亡くなったそうです。死ぬ前月まで旅を続けていたのですね

芭蕉は死期が近いことを知っていたのか生まれ故郷の伊賀に戻り、その後でこの奈良街道を通ったのですが、伊賀で私の好きな句を詠んでいます。

秋ちかき心の寄るや四畳半」。芭蕉はどこへ行っても弟子やファンに囲まれていて、伊賀でも狭い四畳半で和気あいあいと俳句を詠んでいた様子がうかがえます。


「禊行場(みそぎぎょうば)」とある。神津嶽は山岳信仰の山だったことがわかります。左が奈良街道ですが、かなりキツイ勾配です。これでも国道(酷道?)でたまに車がやってきます。



法照寺。奥に観音像が見える。


山岳信仰を思わせるお不動さんと、庚申さんのような石碑が並んでいる。


街道歩きをしていると秋葉神はよく見かけますが、「お玉大神」「熊鷹大神」というのは初めて見たような気がします。どうやら両方ともお稲荷さん関連のようです。


厳しい急坂が続きます。それでも大阪ー奈良間の生駒山を横断するにはこの道が一番ラクだったから街道になっているわけです。


「くらがり峠」の道標石が出てきました。左は「髪切山慈光寺」とあります。調べてみると役行者が鬼退治をして成敗の印に鬼の髪を切ったのが山名の由来だそうな。



途中にあった弘法の水。「毎日汲みに来る人がいる」と書いてあり、硬水で美味しかった~と思ったら、その下に別の看板に「飲料不可」と書いてあった。幸いお腹はなんともない。

奥さんはスキンケアをしています。



ようやく暗峠の最高点(455m)までやってきました。

案内版によると江戸時代は20件ほどの茶屋や旅籠があって伊勢参りの人々で賑わったそうです。これは「河内名所図会」。松並木が風情があります。この絵は江戸時代後半なので「芭蕉翁碑」とあります。また暗峠ではなく「椋嶺(くらがね)峠」と書いてある。



現在の峠にはDIY好きのカフェのようなお店になっています。今日は土曜日ですが営業されていませんでした。



カフェの裏の生駒山山頂への道を少し登ったところにお地蔵さんが祀られていたので、お賽銭があげてからそばに腰かけてランチにしました。2月末は寒い日が多かったのですが、今日(3/1)は、暖かくて汗ばむくらいです。



信貴生駒スカイラインの下のトンネルをくぐって奈良方面への下り道に入ります。このトンネルのなかは確かに暗がり峠だわ。


峠周辺には棚田があります。ここは今でもお米を作られているようです。考えてみれば明治の初めくらいまでの日本人は村から外へ出ることはしなかったので、山では人口が増えると棚田を開いていくしかなかったのですね。

筆者は大津市の棚田で稲作体験を毎年していますが、棚田は農業機械が使いにくくて効率が著しく低いのです。しかし、その代わり新鮮で冷たい水が使えるので美味しいお米が採れます。


石垣の上に本陣跡と書いてあります。地元の藩(郡山藩)の大名行列に使われたようです。名所図会の端に描いてある家屋かな。


棚田の代わりに乗馬体験や鶏小屋をされているところもあります。こちらは卵の無人販売。紙袋も置いてあって微笑ましい。


トンビなどの鳥よけにテグスが張ってある。


大阪方面とは違って奈良方面はゆるやかな坂なので天気もよく散歩気分で歩いていると、途中で南生駒駅方面から歩いて登ってきたと見受けられる女性から「すみません、ラッキー〇△□と言うごはん屋さんはこの辺りですか?」と聞かれ、店名はわからなかったけれど、暗峠にあったランチ屋さん(友遊由)のことだと思って「このまま登って行けばあります」と答えてしまいました。

あとで調べると、奈良街道から北に分岐した道にある「ラッキーガーデン」というお店だったことがわかり大変申し訳ないことをしてしまった。

スリランカカレーで大変有名なお店のようです。奈良方面から歩いて登って食べにくるくらいだからよっぽど美味しいのでしょう。

途中にあった阿弥陀如来の立像。ここは奈良街道の旧道ですが、入り組んでいるせいで国道308号は別になっています。



帰りは近鉄南生駒駅から電車で帰りました。大和西大寺からは「おをによし」という特別列車に乗りましたが、テーブル付きの対面2席で夜に乗るとさぞかし雰囲気があるだろうと思いました。

大和西大寺駅は構内なのにお土産だけでなく野菜などのショッピングやお酒も飲めるバーや焼肉屋まであってびっくりしました。近鉄もなかなか頑張ってますね。




2024年11月25日月曜日

【中山道】須原宿、野尻宿、三留野宿

<阿寺渓谷のエメラルドグリーン(阿寺ブルー)>


 

中山道の木曽路の中ほどにある福島宿から三留野宿まで1泊2日の旅の二日目です。

一日目の福島宿から須原宿までの記事はこちら

二日目のルートと記事で紹介したスポットを下に記します。二日目の街道も国道の脇道が主で特に難路はありません。宿場町もそれなりの面影を残していますが、一番の見どころは街道沿いではありませんが、阿寺渓谷の美しいエメラルドグリーンの水面でした。


民宿すはらに泊った24日の夜はとても寒くて寝ていても顔が冷たく、朝は霜が降りていました。やはり木曽路は寒いですね。

朝は昨夜コンビニで買ったサトウのごはんときんぴらごぼうを電子レンジで温めて食べたら7時半に出発です。

須原宿にある定勝寺の紅葉。今の建物は秀吉の時代に再建されたもので、それまで木曽川の氾濫で三度流されたそうです。



定勝寺そばにあった水舟。



子供だけ魚つりOKの看板。大人がやると商売目的になるからなのでしょうが、とても良いアイデアだと思います。



七笑って時々聞いたことある銘柄ですが飲んだことはありません。水の良さは文句なしですが、お米はどこで作ってるんだろうと思い調べてみると寒さに強い美山錦で諏訪湖の北東で生産されているようです。


黒ずんでいてよく読めませんが「水害記念碑」と書いてあります。これは木曽川の氾濫ではなくて大正時代の土石流で26名が犠牲になったそうです。すぐ東に壁のような木曽山脈があるのでいったん土石流が発生すると恐ろしい被害になったのでしょう。

豊富な水の恵みの裏にはこういう危険もあるのですね。



歩いてきた方向を振り返ると三沢岳(2846m)がよく見えます。



野尻宿手前で。70~80年代に描かれたものでしょうか。


野尻宿。かつては千人以上が定住する奈良井宿に近い大きな宿場町だったのですが、明治と昭和の火事により江戸時代の面影は無くなってしまったそうですが、それでも街道らしさは残っています。



野尻宿は外敵来襲にそなえて「七曲り」といい、このようにカーブが多かったそうです。この家は野尻宿の西のはずれにあるので「はずれ」と呼ばれていたと書いてあります。あまり良い名前ではないですね。

ここを右(南東)に曲がると中山道の迂回路である与川道に入ります。


与川道はこの先の山道を進んで三留野宿(JR南木曽駅)まで続いています。

与川道は本道である中山道が木曽川の氾濫で歩けなくなってしまった場合の迂回路で14㎞ほどあり、歩くと5時間くらいかかるようです。

本当は今回の旅に加えて与川道を歩くつもりだったのですが、今月11月初めに野尻の先で落石があり歩けなくなってしまいました。



野尻宿を過ぎたところで紅葉で大変有名な阿寺(あてら)渓谷に寄り道をすることにします。これは入り口にあった案内版です。



木曽川の橋を渡って渓谷の入り口にやってきました。渓谷の道はきれいに整備された車道になっていて時折観光目当ての車が出入りしています。

渓谷なので当たり前ですが登り坂になっています。木曽川がすでに標高500mでそこから700mまで登ることになるので歩くのはちょっと骨がおれますが、新しく履いたALTRAの靴は足指でキックする感覚があり比較的楽に登れました。



千畳岩。渓流の音が反射するらしい。コンサートホールの天井や壁もこんな感じです。目をつぶって聞いてみるとたしかに壁側からサワサラと音がする。


目当てにしていた紅葉はほぼ全くありません。考えてみれば木曽路でも紅葉がほぼ終わっているのに、さらに標高の高い阿寺渓谷ではもっと終わっているというわけです。

その代わり水面の美しさに目を奪われました。案内版には「阿寺川は雨が降っても濁らない」と言われていると書いてありました。その理由は渓谷が溶結凝灰岩というとても硬い岩石でできているので風化によって微粒子になりにくい性質があるとのこと。

溶結凝灰岩というのは火山の噴出物が堆積したものが熱と重力によって固まった岩石だそうで、陶器みたいなものでしょうか。


この鉄道の陸橋は大正から昭和時代に使われていた日本で最初の森林鉄道跡です。阿寺渓谷の林は明治時代は御料林、つまり皇室所有の林であり皇室の貴重な収入源になっていたそうです。



川の真ん中に岩塊が。どこからか転がってきたのでしょう。何千年前?何万年?


この美しいエメラルドグリーンは「阿寺ブルー」と言われています。




なかでも阿寺ブルーが一番美しかったのが狐、狸ヶ淵と呼ばれる場所です。日照の具合が特に良かったのかと思いますが、エメラルドグリーンがキラキラと光り輝き、岩陰に向けてターコイズブルーへと変わっていきます



阿寺渓谷のベストショットかな。車で来ている人は通り過ぎていましたが、ここを見ずに帰るべからず。



犬帰りの淵。断崖が厳しいので怖くなった犬が帰ってしまう。




駐車場があり渓谷沿いに遊歩道が設けられているので歩いてみます。



遊歩道というからウッドデッキみたいな道を想像していたらちょっとした登山道でした。



六段の滝。滝というのはいつも名所になるのですが、行ってみると感動するような景色は少ないような気がします。多分、あちこちでいろんな滝を見過ぎてしまったからでしょうか。




30分弱でしたが登山気分を楽しめました。本当の登山だとこういう沢道が何時間も続いて疲れるものです。

阿寺渓谷はまだ奥のキャンプ場まで続くのですが、時間を考えて引き返すことにします。



帰路に見つけた阿寺山の神と呼ばれる神社。案内版に杣人(そまびと)のことが書いてあります。

杣人については山本常一さん「山に生きる人々」に詳しく書かれていましたが、代表的な杣人が「木曽のナァ~中乗りさん~」の歌に出てくる「中乗りさん」であり、伐採した丸太の上に乗って枝に引っかからないようにして山の斜面を川まで下りていくという仕事です。

非常な熟練が必要で1000人に1人くらいしかできる人がおらず、夏は豪雨で筏が流されるので寒い冬の仕事だったと書いてありました。

案内版には杣人たちの月に一度の楽しみがこの山の神の前で法被をきて木曽節を歌って踊ることだったと書いてあります。

いかに現代に生きる我々が幸せかがわかりますね。



阿寺渓谷を出て木曽川を渡る橋の手前で見えた木曽山脈。



下がARヤマナビのアプリによる解説。今回の旅で木曽山脈のオールスターが見えたのはここだけです



木曽川に映るオールスター。護岸工事がなければベストショットになっていたでしょう。



中山道に戻って三留野宿に向けて再び歩き始めます。



十二兼(じゅうにかね)駅手前で見えたきれいな稜線は伊勢山(1373m)。変わった名前の駅だなと思い調べてみると、セ(狭)、ニ(土地)、カ(窪地)、ネ(尾根)、つまり「セニカネ」が「ジュウニカネ」になったとあります。理解が難しいですが、変化の厳しい土地なんだなということは分かります。

ちなみにJR中央線が伊勢山を貫くトンネルが読書(よみかき)トンネルといいますが、これは、ヨ(与川)、ミ(三留野)、カキ(柿其)、つまり「ヨミカキ」が「読書」になったそうです。

ダジャレのセンスからして、この二つを命名した人は同一人物ではないでしょうか?

特に読書トンネルの由来については景色が見れないので本を読むしかないと誰もが思うことでしょう。

十二兼駅の東、つまりこの写真の右側には柿其(カキゾレ)渓谷という名所があり、阿寺渓谷と同じように紅葉と美しい水の色を楽しめるようです。



ブロック状に割れている方状節理がよくわかる。



木曽川の石の色が白くなったと思い地質図を調べてみるとどうやらこのあたりから花崗岩に変わってきているようです。



ガイドブックを見るとちょうどこのあたりに、かつて羅天橋という名前の桟(さん)があり、木曽の桟に負けず劣らずの難所だったそうです。



信州デジタルコモンズのサイトで木曽路名所図会が閲覧できたので羅天橋を探してみましたが多分これでしょう。恐ろしすぎます。

(信州デジタルコモンズより)


あとはずっと木曽川沿いの国道わきの道だったのでひたすら歩いてようやく三留野宿にやってきました。

この先からずっと京都まではすでに踏破済みなので、ついに中山道コンプリートです❗❗

JR南木曽(なぎそ)駅に着いたのが14時過ぎで、次の列車まであと30分ほどあり駅前の喫茶店で外国人に囲まれながらケーキセットを食べて7年間の中山道の旅を思い出して感慨にふけりました。

中山道と並行して始めた西国街道の旅もすでに山口県に入って終盤ですので、来年はいよいよ東海道にチャレンジしたいと思います