駅前の洋食屋さん「やおりき」。この辺りは昔は大いに栄えた遊郭だったというのは前回の発見だったが、今はお年寄りが多く住む中に建売住宅がポツポツと建っていて、生活感を感じる。
こちらは駅のそばの建物の二階だが、昔は外からこの楼閣の中が見えて、妖しげな美人が流し目を使っていたのではと想像してしまう。
立派な鯉の彫り物。
こちらも二階から三味線の音が聞こえてきそうだ。
淀川の堤防に上がって遊郭跡を裏から見てみた。石造りの土台が立派。昔は一戦交えたあとは煙草を加えてここから淀川の流れを見ていたのかな。
人家の間の細い路で見つけた綺麗な花。調べてみると著莪(シャガ)というアヤメの種類の花らしい。遊郭の時代に植えられたものが未だに育っているのかな。
同じく淀川堤防から。なかなか風情がありますね。
橋本を後にして進んでいく。新しい建売住宅があるかと思えば廃墟もある。大井川を渡ったところにかなり大規模なホテル「リベロ」が廃墟になっていた。白亜の宮殿のようなイメージ。言っちゃ悪いがこんな場所で隆盛を誇った時があったのだろうか。
廃墟の中には車が何台かカバーを掛けた状態で置いてあった。一台はカバーが溶けたように車体が露出しているが、アンティーク車のようだ。このホテルは廃墟とは言え、そんなに古そうには見えない。
調べてみるとコレでした。光岡自動車のビュート。アンティークっぽいデザインで、なんと今でも売っている。このホテル、当然経営破たんしているだろうになんでこれらの車を売らないのだろうか。それとも持ち主が失踪しちゃったとか?
大谷川を越えたところにあった常晶院。男山を背景にしているのでよく目立つお寺だ。
ちょうど石清水八幡宮に向かう京阪のケーブルカーが出発するところだったので慌てて乗り込んだ。ICカードは使えない。5分から10分で到着。
到着駅のすぐそばに階段があり、「100万弗の景色」と書いてあったので登ってみる。男山から京都を見下ろす方向で、右手に比叡山、左手に愛宕山が見える。京都タワーも見えます。
南北朝時代から明治維新の戊辰戦争でも男山が舞台となった戦いは多かったですが、こうしてみると京都を一望にできるこの立地は戦略上非常に有利だなと実感しました。
そもそも男山って平地にボコっと隆起してあるのがどうも妙なのですが、調べてみると男山と天王山はつながっているらしく、一つの山が淀川で分けられたようです。
さて、石清水八幡宮です。宇佐神宮、鶴岡八幡宮とともに日本三大「八幡宮」の一社、と聞くとものすごいようですが、そもそも「八幡宮」って何か知らなかったので調べてみると八幡宮は八幡神(やはたのかみ)を祀る神社で、八幡神とは応神天皇(おうじんてんのう)の神霊のことだそう。応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)以外にいろいろな別名を持っている第15代の天皇で、この天皇の何がすごいのか、なぜ15代だけ特別なのかについてはよくわかりませんでした。応神天皇の前の天皇は実在したかどうかわからないけれど、応神天皇は確実に存在したということくらいかな。でも実際、八幡神は応神天皇だけではなく、いろいろな神様を祀っているようなので、もはや八幡神というブランドが一人歩きしているような状態ではなかろうかと思う。これらは武運の神だったというから、やはり戦略的要地である男山に八幡宮が存在するのはつながっています。
平成28年の2月に国宝に指定され、きれいに塗り直されています。
下りのロープウェイを降りて男山をバックに京阪電車。
淀川の堤防を上がったところでもう一枚。パノラマモードで。
木津川にかかる大きな橋。御幸橋の名の立派な親柱(おやばしら)がある。
木津川を渡ったところに、「さくらであい館」があり展望タワーが無料だったので登ってみました。左が木津川で右が宇治川。
自分は元々大阪に馴染みが深いので、淀川が三つに分かれるように錯覚してしまうんだけど、木津川は三重の伊賀から、宇治川は琵琶湖から、そして桂川は京都市から真北に約25キロ上った佐々里峠という場所が源流。それぞれ違ったところから集まった水が淀川という大河になっている。
宇治川の橋の上を歩きながら西の方角をみるとこの付近の宇治川がいかに自然のまま美しく残されているかがわかる。のんびりカヌーで川下りしてキャンプでもしたいような気分になる。
さて宇治川の橋を越えたら北東方面に向かってあるく。これはラベンダー?たぶん違うような気がするが自然なままの姿のようです。
実はこのラベンダーらしき?花畑はこの道沿い。この道がまさか京街道だったなど街道好きでなければ誰も想像もつくまい。
いよいよ終着点の淀城に到着。淀城と言えばまっさきに思いつくのが淀君(茶々)なんだけど、実は淀君の懐妊とともに秀吉が与えた淀城は別の場所にあったということがわかった。次回訪ねることにします。
で、この淀城はと言えば、徳川秀忠(二代目将軍)が松平定綱(さだつな)に築城させたもの。もともとは船上輸送の荷物の集積地だったということ。
江戸時代は川や運河で構成されたような場所だったのですね。伏見城や鳥羽離宮もそうけど昔は水とともに暮らすといった生活だったのでしょう。
現存するのは城壁のみです。
若干堀の跡が小さな川のようになっており、堀の周りを歩けるようになっている。
堀の下から城壁跡を眺めてみました。今年最後の桜の見納めです。
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