2017年4月29日土曜日

角屋と島原

島原は京都の花街として栄えた場所で、角屋は島原で営業していた揚屋さんのこと。揚屋とは遊女を呼んで遊ぶところを言うのだけれど、角屋に関しては娼館としての機能はなく、宴会のみだったそうです。一階が台所だったので客は二階に上がるところから揚屋と呼ばれるようになったという。

角屋は見学ができるようになっているが二階の見学は予約が必要です。

約30分くらいですが二階のお部屋を丁寧に説明してもらいました。残念ながら二階は写真撮影禁止だったのですが、部屋ごとに違う、細部までこだわった装飾が角屋の風格を感じさせました。座敷の部屋がいくつかあり、小部屋は無かったので確かに娼館という感じはしませんでした。

写真は角屋の入口。



角屋敷地内の井戸と立派な木。



自分の写真ではないですが、一番驚嘆したのがこの障子のデザインで、このように右からみると二本線が浮き上がって見えるのに、左から見ると一本線が浮き上がって見える。実際は平坦で、この波状の桟(さん)は木を熱で曲げたりしたものではなく、波状に彫刻したそうです。ものすごい手間のかけ方です。



一階の襖絵。見事な孔雀です。


中庭。


これはお庭ですが、奥に見える黒くなってしまったのは枯れた初代の松だそうです。


一階にあった刀箪笥。ここで刀を預かり、二階の座敷ではリスクフリーで楽しんで頂くという趣旨。でも二階には刀で柱を斬りつけたあとがありました。新選組のしわざと説明されていました。ちなみに新選組の服の色は、浅葱色(あさぎいろ)という薄い藍色で、二階のお座敷の土壁の一部にも使われていました。ただし大部分の壁は蝋燭の煙のせいで真っ黒に煤けてオリジナルの色がわかるのはほんの一部分。


これは外の柱。まったく酔っ払いに刀を持たせるのは恐ろしい。これも新選組だそう。


角屋をでたすぐのところに、置屋の輪違屋(わちがいや)。いまでも細々と営業を続けているらしい。置屋は芸者や遊女を派遣することを生業としているのだが、輪違屋に関しては、お茶屋の機能も兼ねていた。お茶屋は小料理を出すレベルといったところ。

もともと京都の花街は柳馬場二条にあったのを、六条三筋といって東本願寺の北に移動し、そこからまた島原に移したらしい。移動の際のてんやわんやの騒ぎが当時の島原の乱を彷彿させるところから島原と名付けられたといいます。


これは島原の門。普通にタクシーが出入りしていた。


近くにおしゃれなカフェHygge(ヒュッゲ)を見つけたので自家製カレーを食べた。


ちょうとKYOTOGRAPHIEのイベントで、虎屋ギャラリーでフランス国立ギメ東洋美術館の古写真コレクションをやっており芸者さんの写真があった。

丈夫は「じょうぶ」と呼ばれたり「たゆう」と呼ばれたりするが、最高級の位なのだそう。京の島原、江戸の吉原、大坂の新町、長崎の丸山におられたということ。


吉原では丈夫は廃止され、かわりに花魁(おいらん)が誕生した。子供の手を引く花魁の後ろ姿。髪飾りと着物の装飾が豪華だ。


これは鴨川かな?お客一人に4人の芸者さんがついている。キリンビールのビンがあるからそんなに昔ではないのだろう。


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