▼

2026年10月28日水曜日

【北国街道】水落駅,浅水,福井,九頭竜川,森田駅

 新シリーズの北国街道歩きの今庄宿から福井宿の先までの2日目です。

(1日目はコチラ)

2日目のルートは下記になります。2日目は昨日の今庄宿のように見るべき場所も少なく単調だったせいか、天気も良くなかったのもあり、出だしから疲労感が強くて、本当は丸岡駅まで28km歩くつもりだったのですが、森田駅までの20kmでゴールとしました。


朝8時から水落宿をスタートに歩き始めます。


泰澄(たいちょう)誕生の地だと書いてあります。



泰澄は奈良時代、天武天皇の世の僧で白山を開山した人です。3年前に白山に登る前に平泉寺白山神社に登山の無事を祈願しましたが、これが泰澄のお寺兼神社です。


浅水(あそうず)川に架かっているのは今は普通の鉄筋コンクリートの橋だけれども昔は「あさむつ橋」という北陸道のかなめであったと書かれている。清少納言も「橋はあさむつ橋」と詠んだという。

名前の由来は新田義貞の妻が夫の戦死をこの場所で聞いて気絶してしまい、周りの介抱するなかで意識がもどったのが朝六ツだったという話から来ていますが、清少納言は新田義貞のはるか以前の人なので、その由来話は怪しい。

浅水(あそうず)川にかかっているから、その名前が「あさむつ」に変化しただけじゃないのかしら。



浅水宿。ひさしぶりに宿場町であることを示す石碑があった。ここは北国街道と東の大野を結ぶ場所になっています。

大野に至る途中に朝倉氏の本拠地である一乗谷があります。以前訪れましたが、近年修復されて静かで美しい景観が印象的でした。県立の朝倉氏一乗谷博物館は大変立派な博物館でした。


稲荷神社で休憩。まだ10kmも歩いていないのに疲労感があるのでしばし休息。



親鸞上人像。

五木寛之の「親鸞」は面白かった。小説は法然に弟子入りしたけれど法然の弟子たちが風紀を乱したせいで後鳥羽上皇の逆鱗にふれて一部の弟子は処刑され、法然の一団は解体させられてしまい、親鸞も死罪にという声があがったけれども越後の流罪で済みました。小説はそこで終わりますが、越後で親鸞の第2の人生が始まるわけです。

この像は越後に行く旅姿の親鸞ではないかと思われます。




福井宿に入ってきました。豆腐、厚揚げ、醤油の自動販売機。福井は厚揚げの全国消費量第一位です。


金蔵商店の厚揚げを入手。帰宅後におでんに入れて食べましたが外側がパリっと揚がっていて美味しかったです。



足羽川(あすわがわ)を渡る九十九橋を越えます。現在は普通の鉄筋コンクリート橋なのですが...



九十九橋は葛飾北斎が「ふくゐ橋」として浮世絵にしています。この橋は半分で色が変わっていますが、手前が石造り、向こうが木造という変わった橋なのです。

柴田勝家が架けた橋だと言われていますが、なぜこんな変な設計にしたかというと、敵に攻め込まれそうになったときに木造部分だけ壊せるからともいわれていますが、諸説あってよく分かっていません。

この石造り部分の石材は足羽山で採れる笏谷石(しゃくだにいし)という凝灰岩で、足羽山は福井市中心部のすぐ西にあります。




九十九橋から先のあわら市までは芦原(あわら)街道と言われています。

ここから東に寄り道すれば県庁になっている福井城跡や、柴田勝家の北庄城跡があるのですが、しんどいのでパスして街道を進むことにします。

ここの商店街もほぼ全ての店が閉まっています。



なんの変哲もない道ですが、左の案内板にはここが加賀口の御門であったと書かれています。

ここは福井城に通じるいくつかの出入り口のなかで加賀に通じる最も重要な口であり、両側には濠や土居がめぐらされており、加賀の前田氏に対する防衛が主たる役割だったとのこと。

太平の世の江戸時代に加賀藩が攻めてくるわけないと最初は思いましたが、この門を作ったのは関ヶ原合戦の直後に越前に移封された結城秀康(徳川家康の庶子)で、その頃はまだ政情が安定していなかったのでしょう。

「福井」と名付けたのも秀康で、それまでは北ノ庄と言われていました。柴田勝家の城も北庄城です。

それにしても今の風景とあまりに違う...


コシヒカリ育成の地。昭和31年にコシヒカリは福井で育成されたと書いてある。コシヒカリは今でも品種シェア第1位で約3割を占めます。

「育成」という意味はコシヒカリの元となった最初の20種の種は新潟県で交配され、それが福井に送られて正式なコシヒカリとなって広まったからです。

コシヒカリは美味しい以外に寒さに強いのが特長ですが、その親の農林1号が寒さに強い第一号で、これによって事実上日本の凶作はなくなったのだからすごい。




近くにあった新宝来という店で天津麺とライスでランチにする。かなりしんどい。


九頭竜川を渡ります。すぐそばに舟橋の史跡があって、初めて橋をかけたのが柴田勝家だと書いてあります。舟橋といって48艘の舟を鉄の鎖でつないだものだったそうです。



九頭竜川は、越前を有数の米どころにした恵の川であると同時に「崩れ川」といわれるほどに氾濫した川でした。最初の治水をやったのが継体天皇だといいます。




まだ20kmほどしか歩いていませんが、次の丸岡駅まであと8kmあって歩けそうにないのでここで今回の旅を終了します。


ハピラインふくい(旧北陸本線)の森田駅から敦賀に向けて帰路につきました。続きは多分来年かな。



2026年10月27日火曜日

【北国街道】今庄,湯尾,鯖波,脇本,武生,鯖江,水落駅

 中山道、西国街道歩きを達成して、現在は東海道を東に歩き静岡県富士川まで来ています。

本来であれば東海道歩きを続けるはずなのですが、10月になっても台風が到来したりで天気が良くなく富士山を拝むことができないので、次の街道にと考えていた北国街道歩きを始めることにします。

北国街道は、東海道などと違って統一したルートがあるわけではありません。筆者の住む近畿では、「北国街道」と言えば主に京都から敦賀までのルートを指します。司馬遼太郎「街道をゆく」でも近江から敦賀までの道のりを探訪されています。

そこで筆者が決めた北国街道のルートは下図のようになります。

敦賀に至る北国街道は大きく分けて琵琶湖西を通るルートと東を通るルートがあります。湖西ルートは平安時代から使われていた古い道ですが、東のルートは戦国時代に新しく柴田勝家が開拓したルートになります。安土城の織田信長との最短距離を確保したのが目的です。

筆者の越前までのルートは平安時代に紫式部が父親に連れられ越前国府(武生)に向かうルートにしました。京都から大津湊まで歩き、そこから船で近江塩津湊まで行ったというシナリオです。

越前から日本海沿いに進み上越から信濃に向かって南下します。関東で「北国街道」と言えば中山道からの分岐の信濃追分から善光寺に向かう道を言うので、その道を進み、信濃追分を終点とします。これは北陸新幹線と同じルートなので、今後は何度も北陸新幹線をつかうことになるでしょう。


近江塩津から今庄までは完全に歩けていませんが、いったん歩いたことにします。

  1. 近江塩津~敦賀間の一番面白い深坂古道は2024年に歩いた
  2. 敦賀~今庄間のこれまた一番面白い新保から今庄までの間は2019年に歩いた

ということで、今庄からスタートして北国街道を東へと進むことにします。それで今回は今庄から福井の少し先までを一泊二日で歩くことにします。


今回の旅をまとめるとこんな感じになりました。1日目の今庄から越前国府があった武生までは思いがけず峠があったり街道らしさの残る道のりでしたが、2日目の福井前後の道は面白みに欠ける道のりでした。

参勤交代のルートは、越前藩は近江方面から中山道に合流したのに対して、隣の加賀藩は逆方向の越後方面から中山道に合流したので、筆者の2日目のルートは参勤交代でほとんど使われることがなかったから面白くなかったのではないかと推測しています。

  • 【1日目】今庄,湯尾,鯖波,脇本,武生,鯖江,水落駅 26km 6時間半
  • 【2日目】水落駅,浅水,福井,九頭竜川,森田駅 20km 5時間半


朝9時前に今庄駅に到着。この駅は2019年以来7年ぶりです。あの時は、ここから東へ旅にをするとは考えていませんでした。また、2019年時点では今庄駅はJRでしたが、今は「はぴラインふくい」という経営会社に代わっています。

この新会社は北陸新幹線開通に伴って不採算路線の在来線がJRから切り離された結果の第三セクターです。

不採算路線で売られてしまった今庄駅ですが、江戸時代の今庄宿はなんと旅籠が55軒もあった!というのが驚きです。東海道の中規模クラスに相当します。大名行列以外にも北陸から京都や伊勢に行く旅人で大いににぎわったそうです。

また、街道の大きな宿場町は難所の手前であることが多いのですが今庄宿も同様で、敦賀に行くには木ノ芽峠を越えねばならず、中山道方向へ行こうと思えば栃ノ木峠を越える必要がありました。



立派な建物は昭和会館。名前の通り昭和5年建築。ここは江戸時代は加賀藩が利用した脇本陣だったようです。今庄のある越前は福井藩であったけれど、加賀藩にも使わせていたのでしょう。

ただ加賀藩の参勤交代は主に越中、越後ルートなので、あまり使わなかったのでないかと思われます。



江戸時代の面影が残る酒屋さん。当時はこの宿場町に酒屋が15軒もあったというからビックリしますね。



今庄宿の入り口。



道がわからなくなって確認すると、線路脇の小道を進むことがわかる。なんとなくイヤな予感。



予想していなかったけれどこの先は峠を越えなければいけないようです。道路が縦横に走っている現代と違って江戸時代は峠を避けられなかったんですね。

通行止めは、峠の上の石垣が崩落の危険があるとのこと。



途中、坂をショートカットしようとしてえらいしんどい思いをしましたが、ちょっとした登山道を上ると湯尾峠の頂上に出てきました。

こんな峠でも柴田勝家が大改修した道だそうです。明治11年に明治天皇の北陸巡幸の際もこの峠を通ったので、れっきとした公式ルート。

松尾芭蕉の句

「月に名を包みかねては 疱瘡(いも)の神」

この上の山には疱瘡の神を祀る神社があって、あまり見目麗しい神社じゃないけれど、月明かりで見えちゃってるなぁ、という意味。疱瘡を「イモ」と呼ぶところが昔の疱瘡のすごさを感じます。



湯尾峠の下り道に「血頭池入り口」とある。説明書きを読むと南北朝時代にこのあたりで合戦があり、敵将の首を洗った池だそうです。

ここから北東にあった瓜生城の瓜生保が、足利尊氏配下の高師泰(こうのもろやす)の軍を討ち取ったと書いてあります。太平記を読んだのはずいぶん昔だけれど、南北朝の争いは応仁の乱と同様、複雑すぎます。



ようやく峠道が終わる。

登山道を歩くつもりじゃなかったので熊鈴を持ってきてなくて、時々手をパンパンたたいて音を立てて歩いた。一番いいのは大声で「ハッ!」と叫ぶのがいいらしいが、万一人に遭うと逆に怖がられそうで...



湯尾峠の先の街道も古い面影を感じます。ここは「初音の小坂」という名前がついていて、芭蕉が「奥の細道」で北陸からここまで歩いてきて、初めて鶯の声を聞いたことが名前の由来になっている。

芭蕉の「奥の細道」のルートは今庄から木ノ芽峠を越えて敦賀に入っているので筆者と同じルートですが、深坂古道は通らずに、戦国時代に新たにできた新道を通って木之本へ向かいました。新道が今の国道8号線です。

この辺りが一応、湯尾宿があったそうで、おそらく湯尾峠を越えるための人足や馬の手配などをしていたのだと思われます。



道に迷うが線路の内側に歩行者用の鯖波トンネルがあることを発見。線路の右側の道路は加賀まで北国街道沿いを走る国道365号。

すぐ横に道があるのに何故トンネルがあるのか?不思議な感じがしますが、おそらく大正2年に北陸本線が山裾のギリギリに敷設されてしまって、向こう側に行けなくなったので1992年にこのトンネルが掘られたのでしょう。

ここにも明治天皇御巡幸の碑がありますが、明治天皇のころには電車もなく右側を普通に歩いて通られたのだと思われます。



トンネルを出て振り返るとトンネルの上には白山神社がある。なんとも変わった地形です。



湯尾宿のすぐ先にあったらしい鯖波宿。鯖波宿は旅籠3軒ほどのごく小規模な宿場だったようです。

それにしても明治天皇の御巡幸の碑がやたらと多い。東海道などと比べてマイナーな街道に来ていただいたことによほど感激したのでしょう。



「鶯の関跡」。ここはまだ福井藩内なので関所があったというわけではなく、鶯の鳴き声があまりに素晴らしいので旅人が皆立ち止まってその歌声を楽しんだといった意味でしょう。



途中、どこかに脇本宿があったはずですが、どこかわかりませんでした。鯖波宿と同様、小規模な休憩地といった感じだったのではないかと思います。

やがて進行方向右手に「越前富士」の愛称を持つ日野山が見えてきました。この角度から見ると全然「富士」には見えませんが、左方向先端部分から眺めるときれいな山容を楽しめます。

この山は今月初めに登ったばかりです。紫式部が日野山に降る雪を眺めながら京の都をなつかしんだ歌を歌っています。



歩きながら、ダイコンやハクサイの秋植えの作物を眺めるのが好きなのですが、見かけない作物の畑があります。

調べてみるとキャッサバでした。キャッサバはタピオカの原料でちょっと前からブームになっているので栽培されているのでしょう。主に熱帯の作物でいくら地球温暖化とはいうものの、越前で育つのでしょうか。

食用にするには簡単な毒抜きが必要ですが非常に栽培が簡単で栄養価も高く、世界的の栽培規模はサツマイモよりも多いとのこと!



北陸在来線を西に渡りますが、この駅の名前が「しきぶ駅」。もちろん紫式部からの命名ですが、ハピラインふくいに移管されたあとの新設駅。今年3月からの開業だそうです。



武生の町に入ってきました。このあたりが府中宿があった場所で、なんとなく面影があります。「府中」とは越前国府のことです。

打刃物(うちはもの)のお店がまさに軒を連ねています。

打刃物は越前の名産で特に農業用の鋤や鍬などで名高かったそうです。明治の初めには全国の鎌生産の3割が越前だったそうです。

筆者も鋤や鍬で土づくりに格闘していますが、このあたりの春は土がカチカチになるから性能の良い農具の進歩があったのでしょうね。

加えて越前は漆器も有名で、漆かき職人が越前産の専用の鎌で全国から漆を集めに周ったとのことです。

日野川では砂鉄も採れたようなので鍛鉄がさかんだったのでしょう。



近くの庄境屋(しょうさかいや)というそば屋さんで、やまかけ蕎麦を食べました。江戸時代からの老舗のようで、おいしかったです。

「タンス町通り」を抜けます。江戸後期から明治にかけて指物師と言われるタンス職人が越前に集まりました。

先ほどの打刃物と漆器が有名になったので、そこからタンス職人も集まってきたというわけです。素晴らしい好循環ですね。



越前国府の拠点とされている総社大神宮。「総社」とは国司が任されている国の神々をすべて周ってお参りできないので、逆に神々の方を集めて国司が一度にお参りできるようにした神社をいいます。



これは奈良時代にさかのぼる国分寺。



今月初めに日野山登山した帰りに立ち寄ったそば屋の名店「うるしや」。以前は本当に漆を扱っていたのを蕎麦屋に転業されたそうな。

今日も人気です。



府中宿を出て日野川を渡った橋の名前が白鬼女橋。妖女の伝説があるという。



ベンチがあったのでしばし休憩。ちょうどこのあたりが鯖江宿のはず。

鯖江の名前の由来は色々伝説があって良くわからないようです。鯖江は越前海岸からかなり内陸なので鯖が採れるというわけでもない。

鯖江から福井にかけて、いくつか商店街を通りますが平日ということもあってほとんど閉まっていて寂れた町といった様子。

特に鯖江駅は、かつてサンダーバードの停車駅だったのがサンダーバードが廃止され北陸新幹線は停車しないことになったので衰退に拍車がかかってしまっています。

それでも鯖江は今でも国内のメガネフレームの生産シェア90%以上をキープしているのは立派。ただ国内販売の8割以上は海外生産なので手放しでは喜べません。

鯖江のメガネはチタン加工技術で一躍有名になったそうで、さきほどの打刃物、漆職人、タンス職人と、クラフツマンシップが息づいてきたわけですね。



地蔵橋跡にあったお地蔵さんたち。何やら仰向けになって寝ています。

説明書きを読むと、織田信長が朝倉の一乗谷を攻め滅ぼした後に、そこにあった数多くの石地蔵を川に投げ捨てて石橋の代わりにしたそうな。

後になって哀れに思った村人たちが救いあげて祀ったのが現在の姿。長年、人馬に踏まれ続けてすり減っている姿が痛々しい。



水落宿がこのあたりのはずです。偶然にも宿場町に今日の宿ホテルサンルートがあるので今日のゴールとしました。午後3時すぎ。26kmなのでいつもより少し短いのですが、久しぶりに歩いたせいか疲れた。

宿について大浴場に入ってから焼き鳥の秋吉に行きました。秋吉は大好物で京都や滋賀でも頻繁にいっていますが、福井が発祥の地なので、福井県には27店(!)もあります。実際、ホテル周辺にも3軒ありました。

行きのタクシーで女性の運転手さんと秋吉の話をしたのが楽しかった。