3月に入って再び冬のような寒さが戻ってきました。世界ではアメリカとイスラエルがイランに攻撃を仕掛けて再び大混乱になっています。
1月からの東海道歩きの続きです。今回は岡崎宿を過ぎた名鉄美合(みあい)駅をスタートして、いつものように二泊三日の旅で、遠海国(とおとうみ)に入り浜名湖を越えた舞阪宿まで歩きました。
3日の行程は以下のようになりました。1日目は街道歩きの後に浜松城を見学、3日目は浜名湖展望のロープウェイに乗ったので、いつもよりは少し歩いた距離が短いです。
今回の街道の印象は、一部松並木の美しい旧道もありましたが、全体的に国道一号の道路沿いが多かったです。ただ、宿場町には充実した資料館があり少しは江戸時代の気分に浸ることができました。また、最後に食べた浜名湖の鰻はやっぱり美味しかったです。
今回の宿は豊橋駅前に2泊しました。
- (名鉄美合駅)、藤川宿、赤坂宿、御油(ごゆ)宿、(名鉄国府(こう)駅) 18km、4時間40分
- (名鉄国府駅)、吉田宿、二川(にのかわ)宿、(JR新所原駅) 24km、7時間
- (JR新所原駅)、新居(あらい)宿、白須賀(しらすか)宿、舞阪宿 20km、5時間
1日目の詳細ルートと記事で紹介した場所です。
京都駅から新幹線で名古屋駅まで行き、名鉄に乗り換えて30分強で前回の旅の終着点である美合(みあい)駅に到着。名古屋駅の乗り換えも前回の旅ですっかり覚えたのでもう迷うことはありません。
交通の便が良いので、9時過ぎからのスタートです。やはり東海地方は筆者の住む滋賀県よりも温暖で、歩き始めてすぐにパフジャケットを脱ぎました。
藤川宿に入ってきました。右の石碑は黒くて何やらわかりませんが、芭蕉の句碑です。三河名物の「むらさき麦」を詠んだ句です。
「藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」
調べてみると「棒鼻」というのは宿場町東西の出入り口を言い、出入り口の標識(傍示杭)のことを「杉のしるし」といい、道沿いに赤い穂を垂れている藤のことを、ゆで蛸の足と言っています。花より団子の豊広のユーモアです。
これが広重の描いた藤川宿「棒鼻の図」。広重は豊広の弟子なので、師匠の歌に合わせて描いたんじゃないかな。中央に立っているのが「杉のしるし」かと思います。
この場面は朝廷に献上される馬を連れた行列に頭を下げる人々。
藤川宿本陣跡。この横が資料館になっています。藤川宿は本陣が1つ、旅籠が35軒ほどだったので比較的小規模。となりの岡崎宿が商店も多くて栄えていたので、藤川宿の泊り客が少なくて経営が苦しかったと書いてある。
筆者の畑でも土づくりを目的にエンバクを育てますが、なんとなく似ています。ただ、5月に実がなるにしてはちょっと小さいような気がしますが。筆者のエンバクは120cmくらいになって2月頃に枯れてくるので刈り取って緑肥にしています。
資料館の中には立派なジオラマや音声ガイドもありました。写真はジオラマを撮ったのですが、なんだかリアルな写真になりました。
本陣裏が傾斜面になっているので石垣にして敷地を拡げています。こういう本陣も珍しい。
資料館の中には立派なジオラマや音声ガイドもありました。写真はジオラマを撮ったのですが、なんだかリアルな写真になりました。
本陣近くにあったレンガ風壁4階建ての建物は、人形屋さんです。立派なホームページもあります。
インドの蛇使いがコブラを踊らせる笛。そういえば昔、ゼンジー北京って奇術師がいたなぁと思って調べると、コブラ使いは東京コミックショーでした。
藤川宿の東の端の出入り口を東棒鼻といいます。案内板によると江戸時代の棒鼻を再現したのは東海道400年を記念した東海道ルネッサンスという名の復興活動があったそうです。国土交通省の中部、関東が音頭取りをやっていたようです。
家康はずっと松平の姓を名乗っていましたが、三河守の称号を朝廷からもらうために徳川の姓を名乗ります。
さて、この法蔵寺、近藤勇の首塚があると書いてあるので、境内に入っていくことにします。

首塚のそばには、徳川家康が武田信玄に敗れた三方ヶ原の戦いの際の徳川側の戦死者が祀られていました。
赤坂宿に入ってきました。梅の花がきれいです。このあたりから岡崎市から豊川市へ変わります。
赤坂宿の陣屋跡の休憩所。陣屋とはお役所みたいな場所のこと。ここから豊川市で人気の宮路山(361m)のハイキングコースが続いています。紅葉の写真が飾ってありました。
赤坂宿の一般の旅人向けの旅籠だった大橋屋が資料館になっています。62軒の旅籠があったと書いてあるので中規模の宿場ですが、次の御油(ごゆ)宿がすぐそばなので、2宿がつながったような宿場町になっていました。
さて、この法蔵寺、近藤勇の首塚があると書いてあるので、境内に入っていくことにします。
総髪の近藤勇像がありました。新選組については子母澤寛(しもざわかん)さんの「新選組始末記」が明治の生き証人たちの話が載っていて大変面白いのですが、それによると、鳥羽伏見の戦いで幕府軍とともに敗れた新選組は、甲陽鎮撫隊に名を変えて甲州へ転進したけれど、近藤勇は「甲州城をとったら十万石の大名じゃ!」と芸者遊びをしながらボツボツ進んだので、先に板垣退助に入城されて城攻めに失敗したそうです。
その後、近藤勇は大久保大和の名を名乗り身を隠していたのが、捕縛されて断首、京都三条河原に晒されました。享年33歳。
「始末記」によれば胴体は掘り出されて鳥羽伏見の戦いの前に撃たれた左肩の銃創で本人と確認され、丁寧に埋葬されたと書かれてありますが、首については特に記述はありませんでした。
案内板によると、近藤勇の首塚はずっと土の覆われて忘れられていたのが、昭和33年に寺の記録を調べていたときに、ここに近藤の首が埋葬されているとわかったそうです。
「新選組」って何やら改革のイメージがあって変な政党名にも使われていますが、幕府の傭兵なので改革を邪魔する側で、そもそも隊士たちは特にイデオロギーを持っていたわけでもない。

首塚のそばには、徳川家康が武田信玄に敗れた三方ヶ原の戦いの際の徳川側の戦死者が祀られていました。
赤坂宿に入ってきました。梅の花がきれいです。このあたりから岡崎市から豊川市へ変わります。
赤坂宿の陣屋跡の休憩所。陣屋とはお役所みたいな場所のこと。ここから豊川市で人気の宮路山(361m)のハイキングコースが続いています。紅葉の写真が飾ってありました。
赤坂宿の一般の旅人向けの旅籠だった大橋屋が資料館になっています。62軒の旅籠があったと書いてあるので中規模の宿場ですが、次の御油(ごゆ)宿がすぐそばなので、2宿がつながったような宿場町になっていました。
2宿とも飯盛女が多かったそうです。
2階は旅籠の部屋らしい雰囲気があります。
浜名湖が近いので、うなぎ屋さんがチラホラ出てきます。ここは「うなぎ屋」といううなぎ屋さん。お昼時だったので入ろうかと思ったのですが、ちょっと店の感じを見てパスしました。
「1 1/3」(イチとサンブンノイチ)という面白い名前のうどん屋さんがあったのでお昼にしました。海老の天ぷらは食べ応えがありましたが、値段が1600円。
2階は旅籠の部屋らしい雰囲気があります。
天上の立派な梁。
東海道五十三次の36番目、御油宿。
副題が「旅人留女」ですが、強引に引っ張って首が締まっています。右が飯盛女でしょうか。
浜名湖が近いので、うなぎ屋さんがチラホラ出てきます。ここは「うなぎ屋」といううなぎ屋さん。お昼時だったので入ろうかと思ったのですが、ちょっと店の感じを見てパスしました。
赤坂宿から御油宿間の松並木も見事なものです。国の天然記念物で「日本の名松百選」の一つと書いてある。
赤坂宿ー御油宿間は東海道五十三次でも最も短かった。
「1 1/3」(イチとサンブンノイチ)という面白い名前のうどん屋さんがあったのでお昼にしました。海老の天ぷらは食べ応えがありましたが、値段が1600円。
そういえば土山宿のカレーの2000円だった。物価高のご時世ですねぇ。
このあたりが本陣のはずだけど、御油宿は特に復元、保存はしていないようです。
音羽川を渡ります。この先で東海道から姫街道に分岐します。
姫街道は、浜名湖を舟で横断する今切の渡しを避ける内陸側のルートです。舟が苦手な人や、今切の関所での女性に対する厳しい取り調べ(入り鉄砲に出女)を避ける行路になっていました。
桑名宿から七里の渡しを避ける佐屋街道と似ていますね。
(Wikipediaより)
ソメイヨシノかと思うような梅に続く参道の先は大社(おおやしろ)神社で、三河国府鎮守社。
美合駅から歩いて18km。まだ歩けるのですが、駅の場所を考えて今日はここで終了。でもまだ時間が2時前なので、浜松駅まで行って浜松城を見学することにします。
さっきの大社神社が示す通り、ここは三河国の国府があった場所ですが、駅名の「国府」は「こう」と読みます。
浜松駅までまだ意外に遠くて1時間もかかりました。そこから路線バスに乗って浜松城。
徳川家康が武田信玄と闘った三方ヶ原の舞台となった古い城なので、石垣は野面積み。「石を引き抜かないで」と注意書きがある。
天守は思っていたよりも随分と小さい。考えてみれば家康が天下を取るずっと前の城だし、天下を取った後も、負け戦のイヤな思い出の城なので手をかけずにいたのでしょうか。
三方ヶ原の戦いは、老齢と労咳の病の中、上京の夢をかなえるために遠江に侵攻してきた武田信玄(53歳)を迎え撃つ徳川家康(30歳)との戦いでした。
浅井、朝倉戦で余力のない織田信長から十分な援軍をもらえない家康は、浜松城に籠城しますが、信玄は城攻めをせずに無視するように素通りして西へ軍を進めます。
侮辱された家康は、血気にはやって城を出て北方の三方ヶ原で信玄の軍に襲い掛かりますが、実はこれは信玄の策であり、軍を急転回させ、武田勝頼の騎馬隊が家康軍の後ろに周った時点で勝負がつきました。
戦さに勝利した信玄ですが、真冬の寒さのなかの戦いが労咳を悪化させて、その4ヶ月後に病死してしまいます。
このまま信玄が上京を続けて、織田信長と相まみえていたら...?というのは戦国時代ファンがわくわくする想像ですね。
浜松城を観光した後、JRで豊橋駅に戻り、駅前の焼き鳥屋でビールを飲んでルートイン豊橋で泊まりました。








































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