長島から名古屋を横断して岡崎まで歩く東海道2泊3日の旅の3日目です。
下に3日目のルートと記事で紹介したスポットを記します。
3日目の見どころは岡崎城です。また、街道沿いには松並木がよく整備されていて大変印象的でした。池鯉鮒宿や岡崎宿については、開発されてしまっていて面影はありません。
今朝も6時に起きてアパホテルをチェックアウトして昨日のゴールである名鉄豊明駅までやってきました。時刻は8時すぎ。
境川を渡ると、尾張国から三河国に変わります。ちょうど国境だから境川ですね。現在は豊明市から刈谷市へ変わります。
弘法大師作の地蔵尊石碑の右奥が洞隣寺なのですが、案内板を読むと「刈谷の昔話で有名な、めったいくやしいの墓がある」と書いてあって気になったので調べてみると、このお寺の下女が隣寺の僧に恋をしてしまったが、成就するはずのない恋に気を病んでついに亡くなってしまい、下女を埋めた墓からは夜な夜な「めったいくやしい~」という声がした。という話。トヨタ車体工場の南を進んで行くと、池鯉鮒宿に入ってきます。ここの地名は知立(ちりゅう)と言って、「池鯉鮒」も「ちりゅう」と読むのです。絶対読めるわけがない❗なので、池鯉鮒宿のかわりに知立宿ともいいます。
知立寺に池(御手洗池)があって、鯉や鮒が泳いでいたから江戸時代に当て字を付けられたようです。「池」の音読みが「チ」なのは知っていますが、「鯉」は「リ」、「鮒」は「ホ/フ」が音読みだそうで、「チリフ」。たしかに「ちりゅう」になりますね。
於万の方像とあります。お万(長勝院)は知立神社の神主の娘で、徳川家康の側室となりました。長勝院は家康との間に子供(秀康)を身ごもりましたが、家康の正妻(築山殿)は、これを認めなかったため、長勝院と秀康は追放されてしまいます。
その後、築山殿が亡くなり、秀康の兄の信康(築山殿の子)は父への裏切りの疑いで切腹、本来ならば次男の秀康が家康の跡継ぎになるはずが、秀康は秀吉に人質に取られてしまい、家康の跡継ぎは異母弟の秀忠、後の2代目将軍徳川秀忠となります。
その後、秀康は秀吉の元で羽柴姓を名乗るも、結城(ゆうき)家に養子に出されてしまったので、結城秀康と名前で知られることになります。
正四位下まで出世したはずの結城秀康ですが、肖像画をみると、なんとも情けない表情をしています。あちこちと親を替えられて不遇の人生だったのですね。
お万の方の銅像はとても良く出来ていて、誰の作か調べてみると愛知大学名誉教授の方による作だそうです。
像を見ると、お万の方(長勝院)は二人の赤子を抱いています。知立神社によれば、結城秀康には双子の弟がいましたが出産後すぐに死んだことにされ、ひそかに育てられて知立神社の神主になったと言われています。
江戸時代は双子というのは忌み嫌われていたのが理由のようです。家康の正妻の築山殿が認めなかったのも双子で産まれたから、という説もあるそうです。
今では双子はおめでたい!と言われるのですが、江戸時代とはそんな時代だったのですね。お万の方の表情も双子を抱いて呆然と行き先を憂いているように見えます。
知立城址。知立城も知立寺も永見氏という神官が保有していましたが、今川氏に仕えていたので、桶狭間の戦いで義元が討ち取られるとともに知立城も落城してしまいます。
広重の五十三次。「知立」ではなく「池鯉鮒」と書いてある。ここは馬市が毎年初夏に開かれることで有名だったそうな。
知立城址。知立城も知立寺も永見氏という神官が保有していましたが、今川氏に仕えていたので、桶狭間の戦いで義元が討ち取られるとともに知立城も落城してしまいます。
広重の五十三次。「知立」ではなく「池鯉鮒」と書いてある。ここは馬市が毎年初夏に開かれることで有名だったそうな。
甲斐や信濃から馬が400~500頭集められて、多くの人が馬を売買しに集まったので、芸人や遊女もやってきたと案内板に書いてあります。
知立でもお祭りの山車蔵がありました。毎年5月に開かれる。
池鯉鮒宿の本陣跡。
この辺りから、東海道沿いの所々に松並木が続きます。街道を歩いていると「松並木跡」として数本の松が植えられていることは度々見かけますが、これだけ元気な松の並木が続くのは初めてでした。
かつてはマツクイムシの被害をよく耳にしましたが、最近は防虫対策が功を奏して全国的に減少傾向になっています。
かつては昼でも暗くなるほど鬱蒼とした松並木だったそうですが、伊勢湾台風で6~7割の松が倒れてしまったと書かれています。
松並木に沿ってかわいらしい彫刻が並んでいます。
一里塚。近くの来迎寺には織田信長の砦があったが、攻め上る今川義元の軍に落とされてしまった。
青麻神社。何やら色々な石碑がゴチャゴチャと寄せ集められていますが目を引いたのが力士像。「清見潟(きよみがた) 又市(またいち)」という名前でここに大変詳しい経歴が載っている。
三河湾の村で生まれ育ち、江戸相撲に入門して清見潟の5代目を襲名したという地元の誇りです。幕内前頭筆頭まで行って大関に土をつけたこともあったと。幕末から明治の激動の時代を相撲一本で貫いた人生です。
全長50km以上の明治用水は水漏れの少ない人造石を使った日本で最初の近代的用水路で、矢作川(やはぎがわ)を分水して、このあたり一帯の安城(あんじょう)の地を不毛の地から日本デンマークと言われるほどの農業地帯へと変貌させました。
今でも明治用水は工業用水としても利用されており、一度明治用水が停まった時は、トヨタ工場の操業に多大な影響が出たそうです。
この松の奥には永安寺というお寺があり、宿場町の人夫として助郷を命ぜられた村の男が、村全体に対するあまりの厳しさに、お奉行に免除を訴えたところ、願いを聞き届けられた代わりに死罪にされたことを忘れないように建てられました。
街道を歩いていると、よくこういう話に出くわしますが、江戸時代の不条理な一面ですね。
予科練の碑。予科練とは海軍の飛行機パイロットの養成制度です。14~17歳の少年が集められました。
矢作川にかかる矢作橋にあった像は幼い日吉丸(秀吉)が蜂須賀小六に出会った場面。この先の味噌屋での窃盗を手助けして手柄を立てたとか。あまり褒められたものではない。
東海道は国道1号線の北を進むのですが、岡崎城は1号線南にあります。岡崎城を見逃すわけにはいかないので東海道を外れます。
予科練の碑。予科練とは海軍の飛行機パイロットの養成制度です。14~17歳の少年が集められました。
予科練の碑の横にあった説明板を見ると、東海道の北西部が岡崎海軍航空隊の基地があったことがわかる。当然、滑走路もある。
有楽屋というラーメン屋で昼食にする。やっぱり運動しているとお腹が減るのでラーメンライスにしました。
ここから岡崎市です。
弥五騰(やごと)神社。気になったのは、右の石碑の下に書かれた「溺死菩提」の字。調べてみると、江戸時代後期の大雨で矢作(やはぎ)川が決壊し14名が犠牲になったことを弔っていることが分かった。
矢作川にかかる矢作橋にあった像は幼い日吉丸(秀吉)が蜂須賀小六に出会った場面。この先の味噌屋での窃盗を手助けして手柄を立てたとか。あまり褒められたものではない。
矢作川。ヤマトタケルが川の中州にあった竹で矢を作ったという伝説が名前の由来です。
東海道名所図会の矢作橋。かなり立派な橋がかかっていたのですね。
(国立図書館アーカイブより)
八丁味噌はここで誕生しました。岡崎城から8丁(870m)離れていたことが名前の由来です。矢作川の伏流水の水質と、水運に恵まれていたことで全国に広まりました。
一般的に味噌に使う麹は米麹を使うのですが、八丁味噌の特徴は豆麹を使うことで豆の旨味を強めています。
東海道は国道1号線の北を進むのですが、岡崎城は1号線南にあります。岡崎城を見逃すわけにはいかないので東海道を外れます。
岡崎城は徳川家康の正家である松平氏の城です。家康はこの城で誕生しました。
少年時代の家康(竹千代)は今川家や織田家の間で人質として行き来しますが、岡崎城の城主として、桶狭間の戦いの後、信長と清洲同盟を結び、朝廷から三河守の位をとるために松平姓から徳川姓へと改姓しました。
岡崎城は明治の廃城令でほぼ全てが撤去されてしまいました。今の天守は昭和34年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。
天守のなかには入ることができます。展示室は新しく、これはジオラマで天守をライトアップさせた図。
岡崎城の見学後、再び国道1号を北に陸橋を渡って東海道へ戻ります。
岡崎城は明治の廃城令でほぼ全てが撤去されてしまいました。今の天守は昭和34年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。
天守のなかには入ることができます。展示室は新しく、これはジオラマで天守をライトアップさせた図。
岡崎城の見学後、再び国道1号を北に陸橋を渡って東海道へ戻ります。
宿場町を通る街道は、外敵の侵入に備えてクランク型に折れ曲がっていることがよくありますが、ここ岡崎宿の街道は、三河の中心の岡崎城そばだけあって、27箇所も折れ曲がっています。
実際に筆者が歩いたルートです。東海道は左下の岡崎城周辺には入らず国道1号線北を進みますが、筆者は遠回りして岡崎城を見てから再び東海道に戻っています。
27曲りの道も、いまでは縦横に道が整備されているので江戸時代の面影はありませんが、当時はこの道以外の道は無かったのでしょう。
27個の角を数えたわけではないですが、いままで歩いたどの宿場町よりも角が多いのは確かです。
この異常なほどの角の多さは宿場町の防御目的だではなくて、旅人に買い物をさせる目的があったそうです。デパートのエスカレーターがフロアを周らないと次のエスカレーターに行けなくしているのと同じですね。
東海道名所図会を見ると、確かにクランク形状の町並みが描かれています。
岡崎は都会で商人(あきんど)が多いと書いてあります。左には「仙方延寿の良薬」とやらに人が集まっています。
中央右に女郎たちに見送られて気分よく店を出ていく男に店の女が丁寧にお辞儀しているのが面白い。
岡崎宿は旅籠100軒以上で6500人の人口を抱えていたので熱田宿ほどではないけれど、桑名宿くらいの大規模な宿場町でした。
(国立図書館アーカイブ)
籠田(かごだ)公園角の常夜燈。町の開発に伴いあちこちに移設されてここに落ち着いたと書いてある。
籠田公園にある戦災復興の碑。岡崎市は他の名古屋衛星都市同様、1945年5月にB-29の大空襲を受けて町の1/3が焼けて280名が死亡しました。
さきほど出てきた海軍岡崎飛行場は空襲の被害に遭わなかったということですが、レイテ沖海戦で海軍航空隊は全滅したので、米軍はどうでもいいと思ったのでしょうか。
松が立っているところが本陣なのかなぁ。特に案内板がみつかりませんでした。知らずに歩く人には、ここが宿場町で27角あったなど全くわかりません。
路傍に置かれたオブジェ。助郷だそうですが、妙なキセルをくわえています。
岡崎宿を後にして、東名高速の岡崎ICを越えます。街道歩きで、高速道路ICにぶち当たると、歩道を見つけるのが実に厄介です。今回も迷ったあげく順路を発見、なんとか向こう側に行けました。









































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