2023年3月29日水曜日

【滋賀】小谷山(小谷城址)、近江孤篷庵のショウジョウバカマ

 桜が満開の時季、滋賀県長浜市の小谷城(おだにじょう)址に行ってきました。小谷城のある小谷山(おだにやま)は495mの山でびわ湖北東部にあり伊吹山地の山群に含まれる山です。

小谷山ハイキングの後、5キロほど東へ行ったところにある孤篷庵(こほうあん)でショウジョウバカマを見に行きます。



【小谷山編】

小谷城は戦国武将の一人である浅井長政(1545-1573)の城であることで有名です。浅井長政(あざいながまさ)は、織田信長と強い同盟を結び、信長の妹、お市を妻にしたにもかかわらず、信長と戦い敗れました。最初に戦った姉川の戦い(1570年)当時、長政は25歳、信長36歳、お市23歳でした。その3年後、信長に小谷山を包囲され長政は自害しましたが、お市と3人の娘は織田側に引き取られました。

(高野山持明院像)


お市はその後、柴田勝家の妻になりますが今度は豊臣秀吉によって勝家は滅ぼされ、お市は3人の娘だけは豊臣に預けて自害します。

(高野山持明院像)



小谷山は谷を挟んだ二つの尾根が馬蹄形の形をしており、小谷城は手前東側の尾根の上部に位置します。小谷山のピークは、西側の尾根にあります。小さな山城をイメージしていましたが、尾根沿い1キロメートルほどに延びる大きな城郭でした。さすが戦国を代表する武将だけある。



これが資料館にあった小谷城跡の詳細です。裏面にびっしりと説明が書いてあります。ただ、城の痕跡となるのは石垣の一部だけで、その他は全て想像するしかありません。


多くの人は小谷城跡を見学して戻るようですが、今回は一周ルートを歩きます。これが以下、写真で紹介した主な場所と詳細ルート図です。距離にして5.5km、3時間40分の行程で、累積標高460mです。登山というよりハイキングに近いコースで、小谷城のある東尾根は人通りも多くて良く整備されていますが、西尾根は滑りやすい坂もあるので靴はアウトドア用が必須です。



歴史資料館の駐車場に車を停めて、追手道(おってみち)を通って尾根に取り付きます。


望笙(ぼうしょう)峠からの眺め。「笙(しょう)」というのは雅楽器で縦に長い竹のハーモニカのような形をしています。ここからそういった形は見えないので名前の由来はわかりません。



番所跡からの景色。晴れているのですが黄砂のピークで景色はもやがかかっています。それでもぼんやりと竹生島が見えます。

この番所跡から先が本格的な城郭になっていました。このあたりの景色は浅井長政、お市夫婦が見た景色とそう大きく変わっていなんじゃないかな



南西に見えるのは虎御前山(とらごぜやま)。ここから6キロほど南の姉川の戦いで勝利した信長は、この虎御前山に陣城を建てて秀吉に城番をさせた。虎御前山の方が低いとは言え、常に見張られているのはさぞかし嫌な気分だったろう。



馬洗池。



6キロほど先で姉川の合戦が行われた。姉川の前の1560年、信長は強敵今川義元を桶狭間にて不意打ちで討ち取り一気に名を挙げましたが、その10年後に紆余曲折があり姉川で妹の婿である浅井長政と対決することになります。

両軍とも互角の力で大激戦であったと言われていますが、徳川家康に側面を突かれて朝倉・浅井連合軍は敗走していまいます。

長政が信長を裏切った理由は長政が古くから同盟を結んでいた朝倉を信長が攻撃したからと言われていましたが、どうやらその理由は江戸時代の創作であり、今でも明確な理由はわからないそうです。

明智光秀といい浅井長政といい、織田信長は理由がわからないのに裏切られてしまうのは何故でしょう。よっぽど部下に嫌われる上司だったのか...



大広間跡。長さ85m、幅35mの大きな広場。実際に何が建っていたのかはわからないようですが、思っていたより小谷城はずっと大きかったと実感します。この先の坂道の上が本丸跡です。

右手には大きな桜が二本あります。



せっかく満開の桜があるので少し早いですがランチにすることにしました。セブンイレブンで宣伝していた八代目儀兵衛監修のおにぎり。祇園のお店ではいつも行列だそうです。値段相応には美味しい。



このような山の上で花見が出来るとは思っていなかったのでうれしい。



小丸跡と書いてあります。本丸に対して小丸というのは他にはあまり聞きません。ここで長政の父、久政が自害しました。続いて5日後には長政も自害

浅井父子の首はドクロにされ朱塗りにされて、信長たちはそれを見ながら宴会をしたというのだから恐ろしい世界です。



当時の面影を唯一残す大石垣。高さ5メートルほどあります。



六坊。ここには平地にある6つの有力寺院の出張所があったそうです。この山城で長期滞在しつつ日々の仏事にも事欠かないようになっています。

ここから谷沿いの道が延びています。



ちょうどこのあたりが沢のツメで、二つの尾根の中間地点。白いコブシが咲いています。



コブシとモクレンの違いは、コブシは花びらが開いていてモクレンは閉じている。コブシ=拳(こぶし)が語源と言われているので、花が閉じていると覚えやすいんだけど逆になっている。



スミレ。



イワウチワです!

イワカガミといつも間違えるのですが、イワカガミは複数の花が寄り集まっている。毎春思い出しているのでいつか記憶が定着するのだろうか。



岩尾からの景色。左に伊吹山が見えます。ちょうど三角に削れているところが見える。



西側尾根にある小谷山の最高地点(495m)にあった大嶽城。大嶽と書いて「おおづく」と読みます。元々浅井氏はここを主郭としたけれど、後に東側尾根に移したそうです。南側から攻めてくる敵に対処しやすかったからか。

信長による小谷城への攻撃は、ここから約2キロ北にある山田山から嵐の日に、この大嶽城へ兵を南下させて油断していた朝倉の兵を蹴散らしてしまいます。形勢不利と見た朝倉軍は本拠地の敦賀へ向けて撤退しますが、それを追いかける信長軍が追撃して刀根越の戦いの後、一乗谷で殲滅してしまいます。

朝倉を討ち取った信長は敦賀から取って返して小谷山に戻り、小谷城に残っていた浅井軍を撃滅させてしまいます。朝倉軍無きあと、小谷城に残っていた浅井軍にはもはや勝ち目がなかったわけです。

信長の戦略として全軍をあげて、敵の連合軍の軍を個別に一つずつ潰すというのは、さすが信長だな、と思います。



山頂の表示板がコブシの木にぶら下がっている。



さてピークハントした後は下り道。向こうに虎御前山(とらごぜやま)が見えます。



展望台からの竹生島の景色。



「また ごんせ」。長浜地方の方言です。長浜は関ケ原を入り口とした中部地方の文化が混入しているので近江のなかでも特有の方言があるそうな。



西尾根の要衝、山崎丸。西尾根側は朝倉軍が守ったようです。



山崎丸の登山口に下りてきました。八重桜です。八重桜はソメイヨシノよりも一週間ほど遅れて咲くそうですが、急に暖かくなったせいか、しだれ桜もソメイヨシノも八重桜も一斉に満開になってしまいました。



八重桜の色がいわゆる桜の色なのですが、ソメイヨシノの方が人気があるのは、八重桜の花がちょっと密集し過ぎているのかな。



ここから見ると、右端からぐるりと左端へとぐるりと一周した道のりがわかります。
このあと歴史資料館で勉強した後、小谷山を後にしました。



【近江孤篷(こほうあん)編】

小谷山から車で東へ5キロほどいったところに近江孤篷庵があります。禅宗である大徳寺派のお寺で京都の孤篷庵とは姉妹的な関係。孤篷(こほう)とは、ポツリと浮かぶ一艘の舟といった意味で、実際、見つけるのに少し迷いましたが、いざ到着してみると洗練された美を感じさせる場所に驚かされます。



ちょうどこの時季の孤篷庵にはそこらじゅうにショウジョウバカマが咲いています。珍しい花ではないとはいえ、普段お目にかかることは少ない華麗な花です。




この桜はどうやら彼岸桜(ヒガンザクラ)と言われる種類のよう。



堂内に入ります。京都の洗練美を感じます。なんと無人で料金は箱に入れる。大丈夫かなと心配になる。



近江孤篷庵は有名な茶人、小堀遠州の小堀家の道場として江戸時代に建てられたものを昭和になって小堀家が再興したものです。

写真だと伝わりませんが、ここに佇むと人間の美意識が作り上げた自然美を感じます。この自然美のなかで一艘の舟にたゆたう寛ぎの贅沢さを味わえます。





小堀遠州は芸術家だと思っていましたが、調べてみると近江国のこの地の藩主大名で、父子で浅井氏から秀吉、家康と仕えてきた権力者でもあることがわかりました。45歳にて伏見奉行の地位まで昇進、伏見奉行時代には茶人の本領を発揮して茶の湯三昧に暮らしたそうです。

しかしながら小堀家はその後江戸時代中期に老中の派閥争いに巻き込まれ不正の嫌疑をかけられて改易させらてしまいます

(頼久寺所蔵『小堀遠州像』)


これはイカリソウ。強精剤など薬草効果もあるらしい。



ツツジも満開です。これは赤紫色が特徴のエゾムラサキツツジという品種のようです。



これは珍しい花でヒマラヤユキノシタというヒマラヤが原種の花です。ユキノシタというと岩の合間に小さくて可憐な花を咲かせる花ですが、この品種はかなり豪華な印象です。



小堀家歴代の墓のそばにはソメイヨシノが満開でした。

近江孤篷庵は長浜市の隠れた秘宝といっていいような所です。



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