西国街道の岡山の旅の3日目、最終日です。
2日目のブログはコチラです。
岡山駅近くのスーパーホテルで起床し温泉に入って朝食を食べてホテルを出たのが8時過ぎ、平日の朝なので時刻表を気にせず岡山駅に行くと、次の伯備線が1時間近く先でした。
ローカル線はちゃんと確認すべきだったと後悔。
しかたがないので8:25の山陽本線に乗って倉敷駅で下車、タクシーに乗って昨日の終着点の井原(いばら)鉄道の吉備真備(まきび)駅まで行ってもらいました。タクシー代3800円かかりましたが時間の節約にはなりました。
3日目の詳細ルートを示します。
タクシーを降りて歩きだしたのが9時です。
駅から西国街道を歩き始めたすぐのところに「まびき公園」がありますが、平成までの地図には「吉備大臣の墓」と書いてあります。なぜ今の地図には書いていないのだろうか。
吉備真備大臣については後に銅像がでてくるのでそこで紹介します。
まびき公園にあるいくつかの神社の一つが八田神社。以前の八田村の村社が合祀(ごうし)されたもので、吉備真備とは関係はないようです。
「熊埜権現宮」、埜の字は「の」と読むので熊野神社です。階段を登ると古墳が出てきました。
「黒宮大塚古墳」と書いてある中を見ると石棺があったような方形のくぼみがありました。勾玉などが出土したそうで弥生時代から古墳時代の誰かの墓のようです。
耕地整理というのはバラバラに開発された耕地を全体的に牛馬や資材が通りやすいように矩形に区切った形に整理することで、明治の終わりに法整備されたそうです。
地図を見るとこのあたり、昭和の初めまでは真っ白な田んぼだったのが、山陽道(西国街道)にそって長方形に均等に区切られているのがわかります。
備中呉妹(びっちゅうくれせ)駅から鳥ケ嶽へ登山コースがありました。
姫路あたりからずっとこのような200m弱の小山が並んだ地形なのですが、地質学的にどうやって形成されたのか知りたい。
駅名の「呉妹」はここの村名で、中国の呉の国から来た人が絹織物を伝えたことが由来だそうです。呉の国は三国志にでてくる孫権が王の国ですが、西暦200年代の話です。そう言えば、呉服というのも呉から伝わった服という意味なのですね。
鳥ケ嶽(164m)には4メートルの石造毘沙門天立像があるようです。室町時代末期の作品。
(くらしき地域資源ミュージアムより)
調べてみると、このあたりではシジミ採りができるそうです。シジミのオルニチンが肝臓にいいので、飲んだ翌日なんかシジミ汁がおいしく感じられますが、自分で採るのもいいですね。
このあたり一帯が公園になっていて、桃畑もありました。
矢掛宿を過ぎて荏原駅まで歩いて行く途中には、このように集落の名前を示す案内板がところどころにありました。地域を愛する心を感じます。
歩道のガードレールの外の下ギリギリに地蔵菩薩像がありました。以前は街道沿いにあったのが邪魔なので外に出されたのでしょうか。可哀想な気がしますが、ちゃんとお供えされています。
小田川沿いの歩道が整備されていて気持ちよく歩けます。看板にある「おかやまアダプト」とは、自分が担当する地区を自分の養子(Adopted Child)のように可愛がるという活動団体とあります。とても素晴らしい地域の活動かと思います。
やはり公共は行政に任さず自分たちで作ることが大切です。自分はなかなか出来ていませんが。
このあたり三谷村で徴兵された人々の戦没者碑です。100~200人の名簿が一人一人彫られています。働き盛りの男たちが全員いなくなったわけです。どこに送られたのでしょうか。
吉備大神宮です。
吉備真備(きびまきび)の銅像。吉備津彦と同じ孝霊天皇の系列ですが、時代はずっと後の奈良時代の人です。
遣唐使で唐に18年もの間、文化や技術を学んだそうです。帰国後はその成果を評価され10階級昇進したというからすごい出世です。吉備地方の人というより吉備出身の奈良朝廷の中心人物の一人のようです。
阿弥陀如来とお地蔵さん。第7番(?)と書いてあるようですが、吉備四国八十八箇所霊場というのがあるようで、その中の一つなのかも知れません。
ここから先が、下道(しもつみち)氏の墓で、国指定重要文化財と書かれてあるので上に登って行きます。下道氏というのは吉備氏の先祖にあたる家系のようです。吉備真備も以前は下道氏を名乗っていたと書かれています。
50段ほどの石段の途中にはトイレもありました。どんな墓があるのだろうと期待して登っていった先にあったのが、簡素な石臼のようなモノ。
「何故コレが国指定重要文化財?」と思い、調べてみると江戸時代にこの場所で銅製の骨臓器(骨壺)が発見され、容器のフタに吉備真備の祖母の骨が収納されていると書かれてあったからだそうです。吉備真備は下道家出身なので下道氏の墓となっているわけです。
石碑には「右大臣真吉備公の墓」と書いてあります。吉備真備は71歳にして右大臣まで昇りつめたのですが、吉備真備自身の遺品は見つかってはいないようです。
写真は国立歴史民俗博物館に保存されている複製です。
(Wikipediaより)
井原鉄道の三谷駅を過ぎます。井原鉄道は福山市の神辺(かんなべ)駅まで続いていて、西国街道沿いを走ってくれているので、街道歩きをする身には大変重宝します。
井原鉄道の路線を見ていて不思議に思ったのは、何故のどかな田舎を走る電車なのに高架にしているのだろうということです。無数の橋脚が立っている割には、車両は1つか2つ。本数も1時間に1,2本です。
井原鉄道の会社設立は1986年。バブルの真っ盛りの頃です。川に鉄橋をかけ、トンネルで山をぶち抜いて、直線最短距離で岡山と福山の内陸部を接続してまえ!というノリじゃなかったのかなぁ。
でも気になったのが無数の橋脚、コンクリートの耐用年数が一般に50年と言われているので、建築が1990年とすれば、2040年には橋脚を全部大規模修繕しなければならない計算になりますが、ICカードシステムさえ導入できない状況を考えるとかなり心配にはなります。
いよいよ矢掛宿にやってきました。大変人気の宿場町なので楽しみです。旧街道でこんな看板が出ているところは、ほとんどありません。
想像以上の美しさです。道は石畳で舗装されていて、両側の家々はとてもよく宿場町の面影を残しています。
なまこ壁に虫籠窓、街道好きにはたまりません~。
矢掛ビジターセンター問屋の横の屋敷の間の小路。
ビジターセンター内部。内部の梁も再現されています。江戸時代には因幡屋という屋号で馬や物資の手配などを行っていたそうです。
12時半なのでランチにします。ご飯屋さんも色々あって迷いましたが、「満点茶屋」に入りました。ランチメニューも6種類ほどありますが、エビマヨランチに。とても美味しい。店内は80~90年代のハリウッド映画のメモラビリアとポップミュージックが。
石井家住宅。案内してもらって内部を見学できます。石井家は酒造業をやりながら大名など高位の客を泊める本陣を経営していた。
矢掛宿の家々が細かく記された地図がありました。全部で200ほどの京町屋のような長細い家々がびっしりと立ち並んでいます。
大名が宿泊、休憩した上段の間。VIPルームです。
欄干のクローズアップです。ブドウのツルと実が彫られています。
一里塚跡。
井原市に入ります。岡山県の最後の市です。井原市は国指定重要無形文化財である備中神楽(びっちゅうかぐら)で知られています。元々は神職による神事だったものを江戸時代に民俗芸能として完成され今に伝わっているそうです。
ただ、ここに立っているのは備中神楽ではなくて歌舞伎の名優を題材にした井原市出身の彫刻家による作品だそうです。
井原鉄道の荏原駅です。6時間半、3.2万歩ほど歩きました。
帰りの井原鉄道の車両は2両で、うち1両はこのような新しくて落ち着いた内装になっていました。田園風景を見ながらゆっくり電車にのるだけの旅も楽しそうです。
この後、岡山駅から山陽新幹線で帰宅しました。
次回はいよいよ広島県入りです!
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