京都から始めた西国街道の旅ですが、前回は藤井宿の手前、播州赤穂線の香登(かがと)駅まで歩きました。ここまでで通算10日間かかっています。
今回の二泊三日の旅では矢掛(やかげ)宿を過ぎた井原(いばら)鉄道の荏原(えばら)駅まで歩きました。今回のルートはずっと岡山県になります。
行程はこのような結果になりました。今回の旅は美しく街道風景を残した矢掛宿や岡山城など今までの西国街道で一番良かったと思います。鉄道駅も多いので体力の許す限り歩けたので比較的多く歩くことができました。
- 1日目:香登駅-藤井宿-岡山宿 25km 6.5時間 3.7万歩(岡山城観光含む)
- 2日目:岡山宿-板倉宿-川辺宿-吉備真備駅 30km 8時間 4.1万歩
- 3日目:吉備真備駅-矢掛宿-荏原駅 22km 6.5時間 3.2万歩
今回の宿は岡山に連泊しました。
さて旅日記です...
一日目の詳細ルートと記事にしたスポットをまとめたのがコレです。
山陽新幹線で岡山駅で下車、播州赤穂線に30分以上乗車し香登(かがと)駅で降りたら旅の開始です。時刻は10時前です。
さっそく旧街道らしい風景です。左の家のタイル張りの壁は、「なまこ壁」と呼ばれるもので、瓦を張り付けて防火性を目的にしています。この家のように水平に瓦を並べたものや、斜めに並べたものがありますが、江戸時代の武家屋敷に多く見られるようです。
なまこ壁の由来は、瓦の目地に盛った漆喰が盛り上がってナマコのように見えるからだそうです。なんか変な名前です。
最上稲荷。この横が登山道で熊山(509m)に登って北側の山陽本線熊山駅に抜ける10キロほどの登山コースがあるようです。
吉井川を渡る手前の長船(おさふね)は刀剣の里とあります。
近くの説明版には、国宝、重要文化財の刀剣のうちの7割が備前刀であると書いてあります。刀鍛冶の鉄を打つ音が四方から鳴り響き大名行列が足を止めて聞き入ったというほど盛んだったようです。Wikiにも長船派は日本刀最大の流派である、と書いてあります。
このあたりは特に日本刀造りに適した松炭が豊富に採れたことが特徴だったようです。
吉井川手前、明治天皇巡幸記念碑。前回の姫路からの道中のあちこちにもありました。明治5年(1872年)に西国、四国、九州に巡幸された時のものです。
吉井川にかかる備前大橋の歩道に備前焼のタイルが貼られています。
このあたりから岡山市にかけて明治時代の地図が再び存在してきます。ここは明治時代「御休村」。きっと明治天皇が小休止されたのでしょうが、それが村の名前になってしまうのですね。ちなみに隣村は「行幸村」です。
サザンカが植えられた道。ツバキとサザンカはよく似ていますが、ツバキは花の塊ごと落ちるので見分けがつきます。こういう道があると地域社会がきちんと機能してるんだなぁと感じます。
岡山市のあちこちに見かけたポスター。いよいよ3月18日に屋内においてもマスク着用は個人の判断になります。個人主義の欧米と違って、和の文化の日本は「個人の判断」と言っても「周りの様子を見て」ということになるのでしょうが。
丸山公園のグラウンドそばのベンチでランチにします。気温が5度くらいなので寒い。
農林文化線センターの三徳園入り口。昭和9年に才一生命創設者が作った青少年教育のための三徳塾が前身だそうです。
腰が張ってきたので横田珈琲でコーヒー休憩。今回はできるだけ腰に負担をかけないように歩いていますが、寒さもあってかなり腰の筋肉が硬直してきました。
山陽本線の上道(じょうとう)駅を過ぎたあたりにいくつかこんな畑があります。多分、岡山なので桃じゃないかなぁ。特徴的なのは支柱がコンクリートになっていることで、このことからも果実が相当な重さになることを意味しています。
古い工場のような建物。「第五共撰場」と書いてあります。調べてみると「共撰場」とは畑で採れた桃を選別する場所のことだそうです。桃だけに使われる用語のようなので、やはりさきほどの畑は桃畑で間違いなさそうです。今はおそらくもっと大規模な場所に集積、選別されているのでしょう。桃の香りで一杯の場所に町の人々が集まってみんなで選別していた風景を想像してしまいます。
ここは比較的大きな桃畑。ビニールをしている畑とそうでない畑がありました。温度を上げて収穫を早める工夫でしょうか。
岡山は桃の生産では全国5位(1位は山梨県)ですが、白桃に限れば全国1位だそうです。収穫は夏で、寒さに強く夏の多雨が苦手なようです。
安国寺再建の碑。このあたりの鉄(くろがね)と言われます。里山が多いので、たたら製鉄所があったのではないでしょうか。
藤井宿の説明版があります。以前は少し上の宿村が宿場町だったのを、宇喜多秀家がここ藤井に付け替えてから大名行列などで大いに栄えたと書いてありますが、これ以外に宿場町の面影をしのばせるものはありません。
宇喜多秀家は、豊臣秀吉に可愛がられ猶子(ゆうし、親子関係のない子供)となり、関ケ原の戦いでは西軍の主力として戦いましたが小早川秀秋の寝返りにより東軍に敗れ、薩摩、駿河と点々とし最期は八丈島に流されて84歳で亡くなりました。
素戔嗚(スサノオ)神社横の道に「ここより新往来」と看板が立っている。幕末に攘夷運動が盛んになり、長州藩が下関発砲事件を起こした3年後に幕府は長州討伐令を出したことをきっかけにして各藩が武装して西国街道を通ったので警戒した備前藩が岡山城を迂回した道に付け替え、これを新往来と名付けられたようです。
備前藩(岡山藩)は初めは勤王佐幕という折衷派だったのが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が総崩れになると討幕派になったそうです。
百聞川を渡ります。
旭川を渡ると岡山城が見えます。岡山城は厳密には西国街道沿いではないのですが、せっかくなので入城することにします。
岡山県庁です。なかなか威厳のある建築です。
ちょうど今、キムタクと綾瀬はるかの信長テーマの映画が公開中です。キムタクって何を演じてもキムタクなんですよね~。まぁ、ファンの女性達はそれを期待しているのですけど。
岡山城を本格的な城として建築したのがさきほど出てきた宇喜多秀家ですが、関ケ原の戦いの後、宇喜多家は改易されてしまい、西軍を裏切った小早川秀秋が代わりに入城しました。
ちなみに小早川秀秋も秀吉に可愛がられ養子となり、秀次の次の豊臣家の跡継ぎとまで言われましたが、秀頼が誕生、秀次は切腹させられ、秀秋は小早川家の養子となりました。秀頼が誕生するまでは子供ながら取り巻きの接待攻撃を受け、12歳にしてアル中になってしまったそうです。そのせいか知りませんが秀秋は21歳の若さで岡山城で急死してしまいます。
天守閣です。黒漆喰が特徴的で黒いので烏城(うじょう)とも呼ばれています。天守は空襲で焼失した後、昭和に再建、令和4年までに大改修が行われました。
城の中の展示室は見やすく整理されています。以前の岡山城のジオラマを iPhone のポートレートモードで撮影。
金のシャチホコ。
これも城の中にあったプロジェクションによる説明。西国街道が岡山城の外堀に沿って南に大きく迂回しているのがわかります。
秀秋の急死により早くに途絶えた小早川家の後を継いで岡山城に入城したのが池田氏で、このアゲハチョウは池田家の家紋。ちょっとモスラのようですが。
こちらは着物コーナー。
旭川側から見るとゆるやかな三角になっており、反対側が平面なので全体的に不等辺五角形をしているのが岡山城の特徴と書いてあります。
農業用水のために南北に掘られた水路がきれいな緑道になっています。京都の高瀬川を思い起こさせます。
4時半に予約していたスーパーホテルにチェックインしました。スーパーホテルは以前、加古川で使いましたが天然温泉の湯を張った大浴場があり清潔なホテルです。今風のホテルだけあってとても寝心地のよいベッドが部屋の7割くらいを占めていますが、まぁ寝るだけなんで問題なしです。
お風呂に入って着替えたあと、近くのイオンモールの串カツ屋でビールの大ジョッキを流し込みます。腰に気をつけながらなんとか一日目を無事に終えました。
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