2021年12月25日土曜日

【西国街道】高槻~西宮

 2021年12月25日、クリスマスの日です。少しずつ育った冬野菜が採れました。

野菜は寒いと凍らないように糖分を増やすので甘くなります。


さて、本日は7月に始めた西国街道の続きです。前回は真夏で大変暑かったのですが、今回は真冬。今年の冬は寒めですが、歩き始めれば平気で、真夏に比べれば全然快適です。

さて、西国街道は、京都~西宮間を言う場合もありますが、京都から下関までを言うときもあります。

京都と下関間の距離は650km、宿場の数は50か所です。ちなみに中山道は540kmに宿場は69か所あります。

京都と西宮間を山崎道、神戸と下関間は山陽道とも言われます。前回は京都三条大橋からJR高槻駅まで歩きました。


今回の行程はJR高槻駅からJR西宮駅、西国街道の宿場で言えば、芥川宿から西宮宿までです。京都からの道のりと同様、国道171号線に沿って歩きますが、おおむね国道わきの住宅に面した道を歩くので、昔の風情も若干感じられる道です。

道のりは37km、47,000歩。休憩入れて8時間20分の行動でした。早めに歩きましたが、ゆっくり楽しんで歩くのならば、阪急石橋駅そばの瀬川宿で2回に分けて歩いても良いかもしれません。

朝9時30分にJR高槻駅から出発。クリスマスの装いの商店街。


芥川宿の一里塚跡。塚の上のエノキが目印で、旅籠が33軒あったというから、大きな宿場町だったのでしょう。


2週間前に摂津峡を歩きましたが、渓谷を流れる芥川がこちらを通過して淀川に合流します。


民家の入り口にたたずむ右近灯篭。高山右近は10歳で洗礼を受けた正真正銘のキリシタンで、織田信長、豊臣秀吉に仕え、一時は高槻城のまわりの神社仏閣が無くなるほどの隆盛を誇ったが、秀吉のバテレン追放令で金沢へ身を落とし、さらには家康のキリシタン追放令でついにはマニラにまで流亡した。マニラ到着後1カ月で亡くなってしまったと言う。


この灯篭は右近が財産を捨てて、金沢へ移った際に置いていったもののレプリカらしい。
良く見ると、お地蔵さんの前に十字架が彫られています。


今城塚古墳(いましろづか)。6世紀前半の継体(けいたい)天皇の墳墓というのが通説。継体天皇は、仁徳天皇の10代あとの天皇です。

こちらは宮内庁管理の正式な天皇陵ではないので、公園になっています。


高槻市から茨木市に変わり、しばらく行くと、再び古墳があります。古墳の西にある太田神社に行ってみましたが、古墳の眺めは全くありません。😭


こちらの古墳は、太田茶臼山古墳という名前の全国21位の巨大古墳で、宮内庁指定の正式な継体天皇の墳墓になっています。中が見れないのはそういう訳でした。

ところが、調べてみると、学術調査上は、どうやら継体天皇の墳墓は、さっきの今城塚古墳が正解だそうです

いったん宮内庁のお墨付きになると、撤回できないのでしょうか。それにしても、本当の天皇の墓が公園になっていて町民が歩きまわっていて、知らない人の墓が立ち入り禁止になっているのは変な話です。


宮内庁のサイトに歴代天皇陵の場所のリストがあったので、それをGoogle Mapにアップロードしてみました。平安京の桓武天皇がすでに第50代なのに改めて驚きますが、それまでは奈良と大阪を葛城山ごしに行ったり来たりしていて、高槻にある継体天皇(26代)は例外のようです。

それ以外に9月に訪れた四国の宋徳(すどく)天皇(75代)や淡路の淳仁(じゅんにん)天皇(47代)はいずれも追放された結果です。

当然ですが、大正天皇と昭和天皇(124代)は東京にあります。


名神を越えたあたりにある阿為神社御旅所(あいじんじゃおたびしょ)。このそばに、耳原古墳がある。先の古墳と近い時期の6世紀末で、6世紀ごろはこのあたりに天皇や貴族たちが住んでいたのでしょうか。



西国街道と亀岡街道の交差点である中河原。現在は国道171号と大阪府道110号の交差になっています。昔から交通の要所だったのでしょう。6世紀ごろの古墳が多いのも何か関係があると思います。



少し歩くと郡山宿(こおりやま)に出ます。石畳で整備されている道には立派な本陣(椿の本陣)があります。


大阪モノレールの豊川駅。この手前で171号沿いの一蘭でラーメンを食べました。


春日神社御旅所。ここから箕面市です。


楠木龍王。九州から押し寄せる足利尊氏の大軍に対して、楠木正成が決死の戦いを挑んだ湊川決戦に向けて行軍する途中、ここで冷たい水を飲んだと言われています。


立派な日本邸宅が並ぶ小野原西地区。


勝尾寺鳥居。勝尾寺まで歩いて1時間もある長い参道です。


左手の大きな石垣は箕面霊園です。


今宮交差点。


萱野交差点。京都に住む前は豊中に住んでいたので、この交差点はよく車で通った。


西国街道は萱野交差点からすぐ南を通りますが、さきほどの小野原西と同様、立派なお屋敷が並びます。このあたりは、豪族萱野氏の土地で、浅野内匠頭に仕えた萱野三平の出身地です。


萱野三平は江戸城での浅野内匠頭の刃傷(にんじょう)事件を知るや否や、早籠を飛ばして4日で赤穂へ事件を知らせに走った。途中、この萱野の地で母親の葬式に出くわすも、御家の一大事と通り過ぎたと言う。

主君の仇を討ちたい三平であったが、親の実家が吉良家に世話になっている関係で、父親から反対され、忠義と孝行の狭間で苦悩し、討ち入りの約1年前に自害してしまった。

(Wikipediaより)


萱野のそばの高札場跡。



萱野から171号の北側にある牧落の高札場跡。


牧落八幡宮。


関西屈指の高級住宅街といわれる百楽荘。小林一三の箕面有馬電気鉄道が大正時代に開発した住宅地。


阪急桜井駅。このあたりは高級感はない。大金持ちは電車には乗らないからでしょうか。
ここから少し進んだところが瀬川宿があった場所のようです。今は面影はありません。


171号線を越えて南に進みます。


このあたりは道路や線路でややこしく道を間違えましたが、旧街道は図のようになっています。

阪急石橋駅が、2019年に「石橋阪大前」に改名されていました。理由は周辺の価値向上のためとのことですが、阪大にそんなにブランド価値があるのでしょうか。

(阪急電車のサイトより)

中国自動車道を渡ります。


新開橋。この下を流れるのは箕面川です。ここから伊丹市に入ります。


浄源寺。後ろの大イチョウが一里塚の代わりになっていたそうです。


猪名川(いながわ)を渡る軍行橋からは伊丹空港、さらにその先には大阪キタのビル街が見えます。コロナ禍なので、離陸する飛行機も数分に一度といった程度です。

飛行機を見るなら、北の離陸側よりも、南の着陸側のほうが断然面白いです。

軍行橋は、明治44年(1911年)に陸軍大演習の際に造られた橋の名前からきているそうです。日露戦争と第一次世界大戦の間の頃ですね。


伊丹坂という名前が付いています。下に行くと猪名川の渡しに接続していたのでしょうか。


陸上自衛隊の駐屯地。千僧は「せんぞ」と読む。


伊丹市庁舎。4時半なのでもう暗くなってきました。日没は5時前です。このあたりが昆陽(こや)宿だったところです。本陣1軒、旅籠7軒なので小ぶりな宿場町。


いよいよ武庫川まできました。甲武橋まで川沿いを南に下ります。さすがに足がだるくなってきました。


自分は出身が西宮北口なので武庫川にはよく遊びに来ました。甲武橋の向こうはふるさとです。でも日が暮れてしまいました。


瓦木中学校に毎日通った中津浜線。中津浜線は甲子園浜から宝塚までつながっている西宮の市道です。昔あったダイエーは、ずいぶん前にイオンに買収されました。大学の時ダイエーでバイトしたけど、感じ悪い店だったなぁ。


こちら御手洗(みたらし)川。晩飯のあと、ときどき親父が自転車で連れてきてくれました。なつかしいんだけど真っ暗で何も見えません。💦


6時過ぎにようやくJR西宮駅に到着しました。西宮宿はまだちょっと先ですが、次回に回します。5万歩近く歩いたのは久しぶりですが、さすがに足に来ました。それでも翌朝は今年最後のテニススクールに行きました。



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