もう最後であって欲しい緊急事態宣言が終わる9月末に、四国の名山、剣山登山をメインに二泊三日の旅です。
京都から丸亀駅まで新幹線と特急で2時間半、丸亀のレンタカーでヤリスを借りて、1日目は、こんぴらさん、2日目に剣山登山、3日目は大歩危観光の日程です。
フィリピン海で発生した台風の影響を心配していましたが、特に問題なく、特急しおかぜで瀬戸大橋を渡ります。瀬戸大橋は、3年前に屋島に源平合戦を訪ねて以来です。
平日の朝10時半、丸亀駅は、なんだか寂しげです。
崇徳天皇(すとくてんのう)の史跡を2か所訪ねます。はじめは、雲井御所。
御所と言うにはあまりにも小さい、川と田畑に囲まれたような場所でした。保元の乱(ほうげんのらん)に敗れてここに流されたのが37歳で、そのまま讃岐の地で、46歳で亡くなりましたが、最初の3年間を、こちらの御所で暮らしました。崇徳天皇が植えたとされる蘇鉄の葉が香川の空に映えています。
保元の乱は平家物語の冒頭に出てきますが、平家、源家がそれぞれ2派に分かれて、肉親同士が殺しあう戦闘でした。
ちょうど昨日、岸田総理が誕生しましたが、昔の天皇や将軍の時代は、三権全権力を握り、公私の区別もはっきりしていないし、生涯任期どころか一族郎党の登用も保証の上、側室持ち放題、子供生み放題なので、権力のレベルが違います。
その権力を、親子、兄弟に加えて、側室、乳母の一族が奪い合ったわけで、こういった血みどろの権力争いが現在無くなっただけでも、人類の文明の進歩を感じます。
保元の乱も、もとはと言えば、父親の鳥羽天皇が、崇徳天皇の母親の藤原璋子よりも、15歳も若い藤原得子を寵愛して、得子との間の子を近衛天皇にして、崇徳天皇を追い出したことに端を発しています。
次に訪れたのが、鼓岡(つづみがおか)神社。雲井御所での3年の後、亡くなるまでの残りの約6年をこの場所で過ごしました。当時は、木の丸殿(このまるでん)と呼ばれました。
雲井御所から車で10分程の場所ですが、雲井御所に比べると少し広い。
それでも御所と言うには侘しすぎる場所です。配流されて3年経ち、都に戻る希望も薄れて内陸寄りの広い場所に移動されたのでしょうか。
歌が好きだった崇徳天皇が詠みました。
啼けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす
村の人が気を遣って、ほととぎすを捕殺したそうです。
崇徳天皇は日々、写経にいそしみ、自ら仕上げた写本を京の寺に納めて欲しいと、京へ送ったところ、罪人の写本として送り返され、それをきっかけにして崇徳天皇の生活は荒れ、死後は怨霊となったと伝えられています。
崇徳天皇を偲んだあとは、景色が良いという評判の城山山頂展望台まで車で登ります。462mもあるので、結構標高があります。
評判通り360度の眺望が楽しめます。
こちらが、瀬戸内海側の展望。
拡大します。瀬戸大橋がよく見えます。
こちらは東側の府中湖です。
こちらは西側。手前のきれいな紡錘形の山は、讃岐富士とよばれる飯野山(422m)。
これが南側の眺望です。
剣山がそびえ立つ姿をちょっと期待していたのですが、どれが剣山なのかよくわかりませんでした💦
調べてみると、手前の讃岐山脈は1000mクラスの山々が連なり、その向こうの四国山地は、1800m以上の山が並んでいます。剣山は東側では最高峰ですが、そんなに目立つほど抜きんでていません。西側では四国山地最高峰の石鎚山(1982m)があります。
城山の地形ですが、比較的やわらかい花崗岩の上に、局所的に硬い安山岩がコーティングしたせいで、風化せずに残りました。
屋島の成り立ちも同じ原理で、讃岐の安山岩は特に硬く、サヌカイトと呼ばれているそうです。石器時代は重宝したみたいです。
花崗岩の上を安山岩がコーティングしてアポロチョコのようになっているのは、甲山もそうですし、大和三山(畝傍山、耳成山、香久山)も同じです。
ユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが潜り込み、その圧力で山脈が形成されたのですが、山脈と山脈の間でも、ニキビのようにポツポツと噴火して出来たのが、こういうアポロチョコ系(?)の山々なのでしょう。
お昼は、讃岐うどんと決めていましたが、せっかくなので2軒回ります。
一軒目は、参道からすこし離れた「こんぴらうどん工場」です。最近は日本国中どころか海外でも丸亀製麺が食べれるので、90年代のうどんブームの頃に讃岐で食べた感動はありませんが、それでもコシがあって美味しい。
お店の人が、「どうぞ」と言って、地元で採れたらしいイチジクを分けてくれました。
こういうところが、地方の温かみを感じられて嬉しい。
参道そばの駐車場に車を停めて、金刀比羅宮に向けて参道を歩きます。
やはり平日で、コロナの影響もあってか、人影はまばらです。
二軒目は、「中野うどん学校」です。こちらのほうが、丸亀製麺のうどんに近いかな。
だしもカツオが効いたものですが、丸亀製麺のほうがおいしい。
エビの天ぷらは硬くてイマイチ。
こちらが大門。ここまで階段が365段で、本宮までが785段。その先の奥社まで1368段です。
ただ、段の高さがまちまちなので、3割くらいは一段飛ばしで登れます。
神馬の白馬が運動(?)をしていました。カメラを向けると走り出したのでいい写真が撮れました。このコは月琴号のようです。
こちらが書院。
御本宮手前の階段。雰囲気があります。
785段の本宮そばの展望台。讃岐富士やその先の瀬戸内海がきれいに見えます。
こちらが御本宮です。
祭神は、大物主神(オオモノヌシノカミ)とされていますが、この神様は、大国主命(オオクニヌシノミコト)に、自分を奈良の三輪山に祀るように命令した神で、なぜ讃岐?と思っていたら、元は、金比羅権現が祭神だったのを明治の廃仏毀釈の時に大物主神に統一されたようです。
金比羅権現は山岳信仰の神で、役行者を祖とするので、金峯山寺の蔵王権現つながりで、大物主神が登場したのかも知れません。
金毘羅船々 追い手に帆かけて シュラシュシュシュ
回れば 四国は 讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり)
象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現
北前船など江戸時代は大阪や神戸から瀬戸内海を通って下関をぐるりと回り、北海道まで米、着物、魚を運んだので、その際、象頭山に荘厳な姿を見せる金刀比羅宮を目印にしたのでしょう。
さて御本宮の裏にある道をさらに行くと奥社に続きます。
白峰神社。金刀比羅宮は、金比羅権現改め大物主神に加えて崇徳天皇を合祀(ごうし)しており、この神社は特に崇徳天皇をお祀りしています。
こちらは菅原道真を祀る菅原神社。
崇徳天皇も菅原道真も、罪人扱いし島流しの憂き目に合い(道真は九州大宰府)、その後、怨霊となり京に災難をもたらした後に、神様となり、1000年後もお祀りされているわけで、そう考えれば、「敗けて勝った」と言えるのではないでしょうか。
こちらが奥社です。祭神は、厳魂彦命(いずたまひこのみこと)というローカルな神様ですが、明治時代に金刀比羅宮存続に寄与した僧侶が神様になられたもののようです。
さて、本当は、ここからさらに登って「こんぴらふねふね~」の歌に出てくる象頭山(ぞうずざん)の頂上まで行くつもりだったのですが、道が整備されておらず、草ボウボウで、大きな女郎蜘蛛が巣を張っており、クモの巣を顔にへばりつけながら歩くのを想像してヤメにしました。
後で調べてみると奥社から象頭山頂上までは100m以上あるようです。
帰りの参道沿いの売店で、おばあちゃんからラムネを買いました。象頭山頂上のことを聞くと、「最近は登る人がいなくて、ハミが出よるよ」と言ってました。
ハミって何じゃろ?と思い、調べてみると、マムシでした。
やっぱり登らなくて良かったと思いました。
ここまでが第一日目です。明日の剣山登山に向けて本日は阿波三好のビジネスホテルに泊まることにします。
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