鯖街道は、小浜と京都を結んだ物流ネットワークです。小浜で取れた鯖を塩でしめて、京都まで運んだ頃にちょうど食べごろになっているということで重宝された街道です。
最もポピュラーなのが若狭街道で全て車道になっています。今回は若狭街道の中継地である朽木(くつき)を訪ねます。
若狭街道より一歩、山地に踏み込んだ街道が鞍馬街道で、今年歩く予定ですが、このルートは山道もあります。上根来から小入谷を針畑峠というので、このルート自体を別名、針畑越えとも呼びます。
針畑越えルートは、小浜と京都の最短ルートで古代は、若狭で作っていた塩を奈良まで届けたという由緒ある道です。東大寺二月堂の「お水取り」の香水は、このルート沿いに流れる遠敷川(おにゅうがわ)に流されるのです。室町時代は、日本で初めて上陸されたゾウを小浜から京都に運んだのもこの道だと言われています。
鯖だけじゃないのです。
さらに奥に入ったルートを雲ヶ畑街道といいますが、ここは完全に尾根沿いの山道なので、どう機能していたのかわかりません。材木の運搬用か、修行道か。
朽木で今回訪れた場所のマップです。
朽木(くつき)の名前の由来ですが、東大寺建築の際、木材を安曇川(あどがわ)から琵琶湖経由で奈良まで運んだ記録があるそうで、古事記でイザナギ・イザナミの子供の一人、久久能智神(ククノチノカミ)が変化してクツキになったと言われています。
奈良には木材が豊富なように見えますが、取りつくしたのか、ものすごい遠回りでも水運のほうが楽だったのか、朽木の木が東大寺になったというのはオドロキです。
まず初めに興聖寺(こうしょうじ)を訪ねます。このお寺は、足利将軍義晴をかくまい、仮御所だけでなく庭園まで造ったことで有名です。
朽木を散策したあとは、朽木温泉に立ち寄りました。塩分の多い京都市内の温泉と違って、朽木のお湯は、アルカリ成分が多くてヌルっとしています。少し寒かったですが露天風呂が気持ちよかったです。
まず初めに興聖寺(こうしょうじ)を訪ねます。このお寺は、足利将軍義晴をかくまい、仮御所だけでなく庭園まで造ったことで有名です。
下が案内板にあった当時の仮御所(岩神館)で、東は川が自然の防壁になっていますが、西南側が弱点なので土塁を築いた跡が残っています。
興聖寺の入り口。山奥の寺といった自然と一体化したような静けさがあります。
こちらが池泉鑑賞式の庭園。遠くに見える山は蛇谷ヶ峰山(じゃたにがみね)。比良山の北の端です。
足利家も末期に近づくと細川家を背後にお家騒動でぐちゃくちゃになり、11代将軍の義澄は、いとこの10代将軍の義材に追われて近江に落ち延び、12代の義晴が晴れて京都で将軍になれたと思いきや、兄弟の義維と争って、この地、朽木に逃れています。
この庭園を見ても、心休まることもなく、義晴の心は京を追われた憎しみに満ちていたと思うとさみしい気がします。下々の農民たちからすると、エゴの争いでいい迷惑、といったところでしょうが。
こちらが本堂。
さて、次に朽木の中心部である市場町を訪ねます。この地は、古来から材木を集積して、安曇川(あどがわ)から筏で琵琶湖に流す大きな機能を持っており、鯖街道の中間地点としての宿場町としても栄えた場所であり、昔の立派な街並みが残っています。
用水路も幅広く、洗濯などのために川面に降りれるようになっている。
なんと百貨店もありました。昭和8年に開業されたというので、湖西線が整備された昭和40年代までは結構栄えていたように思えます。
今はコミュニティーカフェで、元気なおばあちゃん達がおもてなしをしてくれます。本当に元気で楽しそうにしているので、逆にこっちが元気をもらいました。
おばあちゃんが見せてくれた当時の町内地図です。映画館や旅館、呉服屋、時計屋さんとなんでもありです。
コミュニティーカフェで、栃餅(とちもち)ぜんざいを頂きました。写真の栃の実をおみやげにもらったのですが、栃ノ木はとても優良な材木だそうなので朽木でも重宝されたのでしょう。
栃の実は澱粉質が多くて栄養源になりますが、アク抜きにかなりの手間がかかるそうです。栃餅は、なにやらコーヒーのような香りがしましたが、栃の実の独特な香りなのかもしれません。
昭和13年の造られたヴォーリズによる建築。近江八幡ではヴォーリズの建築物をいくつか見ましたが、朽木でも活躍されていたのですね。アメリカ人の建築家で、メンソレータムを広げた人でもあります。
安曇川(あどがわ)です。結構川幅があります。何万本もの材木が筏で流されたと思うと感慨深いです。
山神神社(さんじんじんじゃ)。創祀(そうし)については不明だそうですが、材木による村の繁栄を山の神様に祈ったのでしょう。
朽木氏の陣屋跡。朽木氏は佐々木氏の分家で、室町時代は足利将軍をかくまい、戦国時代は織田信長が浅井長政の裏切りから京へ逃げかえるのに手助けするなど、将軍の親衛隊的役割を果たした名家です。関ケ原では徳川の側に付き、江戸時代においても準大名格の扱いだったそうです。
敷地内には、御殿、剣術道場、馬場まであったらしいので、城郭に近い位置づけだったのでしょう。
立派な藁ぶきの古民家がありますが、これは朽木の近隣から移築されたもので、陣屋とは関係ありません。入り口に「ムカデ注意」と張り紙がしてあったので、入るのをやめました。
隆盛を誇った朽木家の陣屋も明治維新後はすべて取り壊されて、残っているのは井戸くらいです。
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