2020年12月15日火曜日

【中山道】桶川、鴻巣、熊谷

 三年半から始めた中山道歩きですが、長野県の西端の三留野(みどの)宿から西半分は京都三条まで完遂しているのですが、江戸日本橋からの東半分は去年(2019年)の春に桶川宿までいったままです。

新幹線で東京まで行かねばならないという投資に対して、埼玉の中山道は道路沿いを歩くだけで割に合わず敬遠していたのですが、「やるしかない」という決意で、久方ぶりに再スタートです。

せっかく新幹線代をかけるので、三泊して四日間連続で歩きます。四日間連続で長距離を歩いたことがないので若干不安でしたが、こんな結果になりました。

  • 一日目 北本(桶川)、鴻巣、熊谷 2.9万歩
  • 二日目 熊谷、深谷、本庄 4.0万歩
  • 三日目 本庄、新町、倉賀野、高崎 3.3万歩
  • 四日目 高崎、板鼻、安中 2.3万歩

地図で見るとこんな感じ。歩行距離約100キロで、京都から神戸くらいまでの距離なので、我ながらよく歩いたもんだと思います。

全体を振り返ると、上毛三山(じょうもうさんざん)と言われる赤城山(1828m)、榛名山(はるなさん)(1449m)、妙義山(みょうぎさん)(1103m)と、その後ろに控える真っ白な浅間山(2568m)に少しずつ近づいていく楽しさが旅の醍醐味でした。



【一日目】桶川、鴻巣、熊谷まで

ちょうど今日(12/15)、「コロナ対策さえしておけば通常通りお店などに出歩いてもいいんだ」というマインドセットが日本国中に定着しつつある中、コロナ感染者数が再び最高記録を更新し、やはり冬の感染状況を甘く見た結果となり、GoToトラベルを急きょ停止することになりました。

京都を7時前の新幹線に乗車し、前回の終了地点であるJR高崎線の北本駅に10時過ぎに到着しました。

今年は暖冬で12月になってようやく冬らしくなってきたのですが、今週はいよいよ大寒波が来ると言われています。


鴻巣はひな人形で有名なようです。安土桃山時代に京都伏見から人形師が移住してきたのがきっかけで大繁栄し、関東一の着付けと言われたそうです。

写真の広田屋さん以外にも大きなひな人形のお店があるようですが、あまり売れてないだろうなと思うと少し寂しいです。


埼玉縣信用金庫。敢えて旧字体を今でも使っています。銀行の申請用紙に記入するときに「字が違う」とか言われて訂正印を押したりして面倒くさそう。伝統を守る銀行はあまりうれしくない。


道路沿いを歩くだけで99%昔の面影がないのですが、一応、鴻巣宿の石碑があります。


鴻神社(こうじんじゃ)。コウノトリの卵を狙う大蛇を親鳥が突き殺してから祟りがなくなったという逸話があるそうです。



コウノトリだけあって、絵馬の代わりにたまごにお願いを書くようになっています。


イチョウの大木が立派です。冬空はカメラで撮ると蒼さが引き立ちます。


鴻神社を北に行く日光裏街道。埼玉の中山道より北部を「忍(おし)」と言い、日光裏街道は、忍から群馬の館林(たてばやし)に向かって延びています。


道路沿いの理容店。目立つように、グルグル回るサインポールを複数設置しているのが面白い。巨大な一本のサインポールにしたほうがもっと目立つし、コストもかからないと思うのですが。


羅生門鬼退治の一人が開基した箕田観音堂。源経基(つねもと)が兜に入れて戦ったという一寸八分の馬頭観音が本尊で、しばらく行方不明となっていたが修復工事の際に発見されたそうです。


この観音堂、樹木が全て伐採されて異様な体です。二本のイチョウが胴体から切られて多数のヒコバエが成長していました。なぜこのイチョウも切ったのでしょうか。


生活用水を確保するために利根川の水を荒川に引き入れた武蔵水路。昭和40年に完工。全長15Km。

このあたりから、商業地から町村っぽくなってきます。歩くには面白いのですが、空き地があっても私有地で、かと言って公園もなく、12時すぎているのに昼食用のカップヌードルを食べる場所がありません。


まだ新しく見えるお地蔵さんは、微笑みが優しそうでよい。


吹上駅そばまでやってきました。大きな寿司屋はもう閉店していて、13時近いのにお昼にあぶれそう。


Googleマップで見つけたお蕎麦屋さんの瀧乃屋。地元の良い感じのお店です。野菜あんかけそばをいただきました。関東風で濃い色ですが、味はさほど濃くなく太めの二八そばを美味しくいただきました。


妙徳地蔵。眼病を患った娘が、六十六部(ろくじゅうろくぶ)として法華経を全国の66か所の霊場に収めた結果、目が見えるようになったのだが、その後、盗賊によって殺害され、娘は恨みから大蛇になったのだが、その後得度成仏して地蔵尊となったという複雑な話。

なにやら少し悲しみをたたえたお顔をしておられます。。。


道路から脇道にはいります。道路を歩くのは退屈なのでどんどん脇道に行ってほしい。


吹上神社。


江戸時代は富士の山容まで見える景色だったのですね。

吹上は春先に砂塵を吹き上げることからその名が付いたそうですが、鴻巣宿と熊谷宿の間の休憩所として大いに栄たそうです。さし足袋が名産だったそうです。

ちなみにこの浮世絵を書いた英泉(えいせん)、隠号を淫乱斎といい、妖艶な美人画を得意としたそうです。




榎戸堰。田用水のために造られたそうですが、風光明媚な名所だったそうです。いまではよそ見をしていると見過ごしてしまいそうですが、確かにレンガ作りで、周りが田園だったらさぞかし美しいことかと思います。


ここから荒川の土手に上がります。


今日は大寒波と言われていた割には強烈な寒さはなかったのですが、さすがに荒川の土手は向かい風がビュービューと吹いてキツイです。京街道の淀川の土手を冬に歩いた時を思い出しました。


南西の方角にとんでもなく大きな山があると思いきや、富士山です
やはり日本の天上界を司る第一神です。


北方向には赤城山(あかぎさん、1828m)が見えます。さらに北西には浅間山の影が見えたのですが雲に覆われていました。荒川の土手は山好きにはこたえられないですねぇ。


寒さにウンザリしたころに土手をくだって久下(くげ)地区に入ります。写真は久下神社。鎌倉時代の久下直光(くげなおみつ)の領地だったころからその名が付いた。


このあたりも、ほとんど中山道の面影がないのですが、かろうじて白壁が美しい旧家屋が残っている(新井家)。


家屋の横を流れる小さな水路ですが、世界にここだけにしか生息しないムサシトミヨが住む川と書かれています。たしかに水は透き通って水草も美しいのですが、目視では魚は確認できませんでした。


こんなお魚だそうです。


久下の後は熊谷にやってきました。熊谷は、久下と同様、鎌倉時代の熊谷直実(くまがいなおざね)のから来ていると初めて知りました。

熊谷直実は平家物語にも登場する武士で源頼朝に仕え、一ノ谷の合戦で若き平敦盛を殺害してから世の無常を悟ったとされています。

熊谷直実は、以前長岡京の光明寺を訪ねた際、法然上人を招いて自らは第二世として光明寺で修行したように記憶していましたが、その前に、恩人である久下直光と領地争いをしていたとのことです。久下地区と熊谷地区の間の橋は両方の名前をとって、熊久橋という名前が付いています。

幹線道路に出てきたら銀座一丁目の名前が付いていました。ちょっと恥ずかしい気がします。


銀座一丁目の隣の筑波交差点が、鎌倉時代のそんな話の片りんもない熊谷駅の周辺が、熊谷宿があったところです。今日はちょうどこの交差点にある、キングアンバサダーホテルに宿をとることにします。




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