それで、ただ道後温泉だけというのもつまらないので、事前にブラタモリ本を入手して松山の歴史散策の旅にテーマ変更しました。
二泊三日の行程で、初日は何もせずホテルでのんびり、翌日一日かけて三津の港から松山城を経由して山頭火に思いをはせて道後温泉でお湯につかるルート(松山の旅一日目)。
翌日は石出川の江戸時代工事跡を含めお遍路さんコースをたどるルート(松山の旅二日目)。
京都から松山までは、新幹線で岡山までたったの一時間。そこから特急しおかぜに乗り換えて、2時間40分で松山到着です。
瀬戸大橋からの景色も素晴らしいですが、本当、よくこんな橋をつくったもんだなと思います。
しおかぜですが、ちゃんと窓側の指定席を選んでくれています。ずっと景色を見ていても楽しい。駅弁の楽しみもあるし、一人旅なら絶対に電車がいいと思います。
松山駅に到着。
今回2泊3日の宿としたのが、たかのこホテル。松山駅から伊予鉄道で約10分の久米駅下車でそこから7分ほど歩かなければいけません。
「鷹ノ子」が地名で弘法大師が見つけたという歴史ある温泉がホテルに併設されている。
最近多いスーパー銭湯と兼用で宿泊者には無料というものです。宿泊者にとっては混んでいて落ち着かないものの、広々とした湯につかれるメリットもある。
このホテルは夕食もバイキング形式でコストパフォーマンス重視だけれどフリーオーダーメニューと組み合わせることでバイキングのチープ感が出ないようにしています。
到着した日は鷹ノ子温泉にゆっくりつかりました。アルカリ性でとろみのある泉質で、ぬるめの温度の源泉かけ流しというのが素晴らしい。松山からはちょっと遠いけれどこの温泉があるだけでまた来たいと思う。そのあとのマッサージも上手だった。
翌朝、気分もリフレッシュしたところで、伊予鉄道で松山を通り越して三津(みつ)に向かいます。
阿波藩、徳島で生産された藍玉が運ばれ、三津で絣の着物になって三津から各地に売られていったそうです。ちなみに藍から生まれるのはインディゴ。ジーンズと同じです。
この港は銀行なども建って戦前まで松山の玄関口として大いに栄えました。ちなみに、瀬戸大橋ができる前のフェリーの港としても使われていたようですが、主要路線は宇野から高松へのフェリーでした。いまでも運行しています。
港というより運河の出口のように奥に入り組んでいる地形で、水路は中の川と言われ松山城までつながっています。江戸時代は水路に荷物を浮かべて陸を歩く人が引っ張ったそうです。
海運を営む小規模な会社がたくさんありますが、どれも昔日の感があります。
とてもきれいにメンテされているハチロクです。走りそう。
すぐ目の前の川の向こう岸との間を行き交う渡し舟です。呼び出しボタンを押すと来てくれる仕組みになっていて、無料なのが申し訳ないです。
油槽船とは今でいうオイルタンカーです。そんな大型の船を建造していたのですね。
この煙突のある町屋は「遠藤味噌醤油醸造場」。おみやげに醤油を買いました。このあたりに醤油屋さんが多いのは塩田があったからだそうです。屋島がつながってしまったのも塩田のせいですが、そのおかげで讃岐うどんが誕生しました。
ブラタモリに載っていたお好み焼き屋。まだ開店していません。
松山の町のあちこちに張られていたポスター。地方を感じさせます。このお二人、全国の地方をまわっているみたい。
頭に黒がはいっているのでアオサギかな。真っ白なのがシロサギ。
写真だと小さくてわかりませんが、向こう側斜面の一面にオレンジ色の柑橘類が栽培されています。ああ、愛媛だなぁ。
遠くに松山城の天守閣が見えてきました。
庚申さん。
城山公園にきました。天気がよい。
城山公園の案内図です。堀の中に城があるわけではなく、その先の小山の上にあります。
これが発掘調査でわかった当時の様子。堀の中には三の丸がありますが、主には武家屋敷だったそうです。堀の外近辺は位の低めのお武家さん。
左手の二の丸の右方向の先に見えるのが愛媛県庁。
二の丸に回り込んでくると上に天守閣が見えます。
二の丸跡は、松山城二之丸史跡庭園になっていますが、一応行ってみます。
中にはちょっとした資料館がありました。この地図は松山藩が当時参勤交代で江戸に向かったルートが描いてあります。三津港から出立し、翌日広島の御手洗に到着、そこから陸路で西国街道、京街道、それから中山道を通って江戸中屋敷に到着するのが28日後ですからほぼ一ヶ月の長旅です。これは費用もかかるはずです。
御座船の解説です。江戸時代は四国には伊予、讃岐、阿波、土佐の4つの国があったことがわかります。4つの国全てを松平家が治めています。伊予国には、松山藩以外に七つの藩があり、それぞれ御座船の家紋を持っています。
庭園の松の葉の向こうに見える天守閣。
こちらの庭園はいろんな種類の柑橘類があります。ネーブル、はっさく、伊予柑、柚子等々。
ここでは、ロシア人捕虜と日本人看護師の名前が刻印された金貨が出土したことから、恋人の聖地と言われるようになりました。というか自分達で言っている。
二の丸を出て天守閣に向かう道を登ります。とても気持ちの良いハイキングコースといった感じで城内といった風はありません。
やはり江戸時代は石垣で守られていたようです。
天守閣の入り口の手前は割と広い公園のようになっていて食事やお土産屋があります。
創設は加藤嘉明(かとうよしあきら)。秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦いでは家康側に従軍し20万石の大名として伊予を任され、松山城工事に着手しました。
天守閣から南方向の景色。遠くに見えるのは引地山、標高1000メートルくらいの山です。元々登ろうとしている寒風山(1763m)はもっと東(左)のほうで見えません。
やはり海が見えるのが素晴らしい。遠くにポツっと見えるのが由利島。無人島です。
きれいな形をしているのが伊予小富士といわれる山で興居島(こごしま)にある山です。ちなみに伊予富士(1756m)は寒風山のすぐ南西にあります。
あの鉄塔の下のすぐ左がこのあと向かう山頭火の一草庵です。
天守閣の内はこんな感じ。露出を変えて重ねたものです。なかなか良い写真。
天守閣出入口にあった名前と日付を刻印できる記念メダル。昭和のコンピューターが現役で動いているのがすごいです。故障したらもう修理できないのでしょうね。
天守閣前の公園からのパノラマ。
伊予小富士が見えるよい写真。今回のベストショットかな。
これは樹を撮りたかったから。樫の樹かな?
ずっと歩き通すのがポリシーなのですが、どうしても乗りたかったのでリフトで降りることにしました。足をブラブラさせるのが気持ちよい。
さて松山城から少し東に行ったところに公園がありますが、以前堀だったところを埋め立てられたものです。ブラタモリで紹介されていました。
このように左側が壁になっています。左側は堀を作るときにでた土を持って作った土手です。
平和な公園を遠くから見下ろす天守閣。周りの住民たちの多くは昔は堀の水底だったことを知らないのでしょう。
さあ、ここから山頭火を訪ねに北に向かいますが、市電が並んでいたのでパチリ。
ちょうどお昼時で、うどんも食べたかったのですが、ミシェランガイドに載ったラーメン屋を偶然見つけたので衝動的に入る。麺や新倉というお店。まあまあ美味しいかな、という感想。
護国神社。
これは北が下になっています。お遍路道と同じかなと思います。左の石手寺あたりは翌日(二日目)ルートで通ります。
一草庵に到着しました。山頭火についてはは松山に来る前に本を読んでいたので親しみを感じます。
昭和14年、1939年12月にこちらに移り住み、約10か月後に亡くなっています。
移った時に
おちついて死ねさうな草枯るる
と詠んでいます。在住の場を与えられても、一所に落ち着かず、西日本をひたすら歩き続け、59歳。
「歯は一草庵で最後の一本も抜けて歯ぐきであらゆるものを噛んでいた」そうです。
もう死ぬ時と場所を探していたのでしょう。
山頭火は「清貧」を大切にしていました。「添えるよりも捨つべし。言い過ぎは言い足らないよりもよくない。おしゃべりは何よりも禁物なり。言葉多きは品少なしとはまことに至言なり」。
亡くなる前は終日庵にこもって、「無門関」を味読したり句作したりしていたそうですが、こんな句もつくっています。
七夕の天の川より降るか
七夕の日に雨が降ったのでしょう。短いけれど素直な感動を覚える句です。
でもこんな悲惨な、でも笑える句もあります
銭がない物がない歯がない一人
最期は脳溢血で倒れてうんうん唸っているのを、いつものように酒に酔って寝ていると思った句仲間たちは、倒れている山頭火の横で句会を楽しんでいたそうです。
それでも心配になって翌朝訪ねてみると冷たくなっていたそうです。山頭火が望んでいたコロリ往生を遂げることができました。
残念ながら内部の案内はお休みだったようですが、外から見る限り一人暮らしには広々としたスペースです。ただ、山とお寺の隙間にあって庭もなく、物置小屋みたいな雰囲気があって、決してゆったりのびのび過ごせるような空気はないです。
そばの小さな資料館にあった建て替えられる前の当時の一草庵。
「わが庵は、御幸山裾にうずくまり、お宮とお寺にいだかれている」
御幸寺(みゆきじ)です。この奥から御幸山に登ろうとしたのですが、土砂くずれで道が崩れていたので途中であきらめました。
龍泰寺です。
一草庵を後にして道後温泉への道。道幅といい曲がり具合といい昔からの道っぽい。
山頭火が句仲間からもらった土産代で道後温泉に行って大好きなお酒を飲みすぎ、湯上りのせいもあって、「どろどろぼろぼろ」になり炎天下の田んぼの畔に倒れて寝てしまったのは、このあたりかな?と思う。
一草庵とは打って変わって風俗地区に出てきました。
道後ヘルスビルって。そのまんまじゃん!
最近オープンした飛鳥之湯です。
道後商店街。楽しそうなお店がいっぱいあります。
道後温泉本館には4つのコースがあります。全コース神の湯に入れますが、霊の湯(たまのゆ)にも入れるのが2コースです。三階の個室で休めるが最上コースですが、私は二階の大広間で休める上から二つ目のコースを選びます。お値段1250円です。整理券を貰って電話番号を入力します。約30分後に自動的に電話がかかってくる仕組み。この辺は最近のデジタル技術を使ってますね。
30分あるので、周りの写真を撮ります。
道後温泉本館のすぐ横にこんもりとした丘があります。そこにあるのが湯神社。
道後温泉の長い歴史で地震で埋まったり、お湯が止まったり存続の危機に遭遇した際、この神社で祈願することでお湯が止まることなく今日まで来れたということです。
イチイガシの巨木です。
年間100万人が訪れるだけあって手際よくまずは二階の大広間に案内されます。乱れ籠にジャケットとバックパックを入れると浴衣を持ってまずは霊の湯へ。
ホームページの写真。5人くらいがリミットな空間。広さは小さな旅館のお風呂くらいですが、若草色のお湯は酸化されていない地中から出てきたばかりのフレッシュなお湯である証拠。湧出口から派手にバシャバシャとお湯を出すとすぐに酸化してしまうので、このように静かに湯舟にたらすのが正しいお風呂です。
もちろん源泉かけ流し。鷹ノ子温泉のお湯もとろみがあって素晴らしかったですが、道後温泉のお湯は、「ダシ汁」といった感じの柔らかさととろみのある究極のお湯です。さすが西日本一のお湯と言われるだけのことはあります。
ここで山頭火の句を一つ。
朝湯こんこんとあふるるまんなかのわたくし
霊の湯からあがって浴衣に着替え、大広間に戻るとお茶とお菓子を出してもらえます。その後、一階の神の湯に行きます。同じお湯なので別に行かなくてもよいのですが、どんな感じか見てみたい。
ホームページの写真を見ると大変上品ですが、大衆コースだけあって日本国中から老若男女多くの人がいます。人数の調整をしていますから肩肘が触れ合うほどの混み具合ではありませんが、霊の湯と比べればずいぶんな混み具合です。
これは湯釜の前の像のアップです。これは大国主命(オオクニヌシノミコト)と少名毘古那(スクナビコナ)の像です。少名毘古那はとっても小さくて一寸法師のモデルと言われていますが、大国主命と二人で各地で農業を興したり国造りに励んでいた時に少名毘古那が病気で苦しみだします。それを大国主命が温泉に浸かったところ、すっかり元気になったという逸話があります。
お湯に浸かってじっくりこの像を見ると少名毘古那が大国主命の男根として描かれているようにしか思えませんでした。
また大広間に戻ります。
外にも出られます。
あったまった体で商店街を通って駅まで行きます。
伊予鉄道で松山駅で乗り換え、久米駅まで戻ってホテルでゆっくり休みます。今日は大体二万歩くらいの行程でした。
さて松山の旅、二日目です。行程を再掲します。ホテルから松山の東の山沿いを歩いて道後温泉までの道のりです。
ホテルからほぼまっすぐ北に進むと浄土寺があります。
浄土寺の裏から山に向かう道があります。
いい感じの道があります。うれしい発見。
朝の素晴らしい景色です。
日王山にある展望台。
実はここからの景色が今回の旅で最高でした。パノラマモードです。
伊予郡方面です。奥に見えるのが障子山かな?手前の丘陵が神秘的に見えます。
海側の景色も素晴らしい。伊予小富士の姿が見えます。
展望台からの下り道を進むと日尾八幡神社に出ます。
さてここから先の目的地は石手川の岩櫃なのですが、距離があるので、できるだけ旧道っぽいルートを進むと、偶然遍路道と一致しました。右に赤で遍路道を示すマークがあります。
遍路道を進むと八十八か所の第五十番、繁多寺(はんたじ)。なかなか立派なお寺です。白衣と菅笠のお遍路さんもおられました。
こちら東山神社。また樹木に見とれてしまいます。路地としか思えないような道を歩きます。遍路道なのかもしれません。
石手川に近づくと何やら山頂付近に巨大な仏像が見えます。
拡大図です。調べてみると石手寺が建てた日中友好弘法大師像で高さ16メートル。顔はインドで体は中国の方向を向いているとか。でもここまで巨大になると、ありがたみというよりも、やりすぎ感があります。
岩櫃まできました。
説明によると、加藤嘉明の松山城築城に際し、普請奉行の足立重信が城下を洪水から守るために石手川に対して大規模な改修工事をしたとあります。
まずここ岩櫃に立ちふさがる数十間(一間=1.8m)の岩盤を切り開き、ここから流れを西南に向け、余戸で伊予川に合流させたそうです。
ブラタモリでも紹介されていましたが、石手川の洪水被害を防ぐために、昨日訪れた土器堀など土手を造っただけでなく、石手川そのものの流れを変えました。
まず岩櫃の川底を深くしたのですが、川底が岩盤で、当時は重機などもなく、なんとノミでコツコツと岩を削ったそうです。岩くず一升を持っていくと米一升と交換してもらえたというので、モチベーション効果は抜群。それもあって一年間で200メートルの掘削ができたのでしょう。
具体的にはわかりませんが、水路を造りつつ、最後は伊予川に合流させたのです。
この赤い橋が風景とマッチしています。
橋から見ると、手作業で掘り下げられた様子がよくわかります。ミノの跡のない部分が昔の深さだったことを想像すると確かにその浅さだとすぐに氾濫したことも納得できます。
岩櫃を後にして第五十一番、石手寺に到着しました。
このお寺ですが、戦争反対、憲法改正反対、日中友好など政治的メッセージが多いです。お寺の雰囲気も、気品を大切にしているというよりも、魂を揺さぶるような大味感があります。
住職さんがアジアのどこかを訪ねた写真があります。国際感覚を持たれていることがわかります。さきほどの巨大な弘法大師像を造られたのもこの方ならば、という気がします。
木造も、なにやらアジアの密林にいそうな感じ。
さて、石手寺の裏にも山道がありました。
遍路道でした。次の五十二番は太山寺(たいさんじ)、ここから10km以上もあるので今回は行けませんが、いずれ八十八か所巡りはすることになるので、その時までこのブログを続けていられることを願います。
展望台がありましたが、眺望は今一つ。
ちょっとした登山道のようでワクワクしながら歩いていましたが残念ながらすぐに道路に出てしまいます。
湯快リゾートの裏の道路をしばらく歩くと伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)に着きます。青空に朱色が映えます。
さてここから湯築城のあった道後公園に向かいますが、とても長い階段を下ります。
下から見上げるの図。これを登るのはいいトレーニングになりそうです。
道後公園内にあった武家屋敷跡に入ると、よくできた人形が。句会らしく良い句をひねりだそうと苦悶している様子がいいです。
湯築城は南北朝時代に河野通盛(こうのみちもり)が築城したが、約200年後、秀吉の命を受けた小早川隆景(こばやかわたかかげ)に攻められて落城した。
スタート地点を振り返ります。この山裾に沿って歩いてきたわけです。
明治二十七年まで使われていた湯釜。
本格イタリアンレストランを一階に設えたホテル、オーベルジュ道後。
さて昨日じっくり見れなかったのですが、道後温泉は谷に位置しているせいで、地中の温泉が地表に湧きだしたものなのです。それを確かめに来ました。
多くの温泉は火山のそばにあるのですが、道後温泉は非火山性と言われていて、山の岩のすきまからしみ込んだ水が地中にはいり、地熱で温まったところに断層の隙間から湧き出ているのです。有馬温泉と同じ仕組みですが、有馬の場合はしみ込んだ海水が噴出しているので非常に塩辛いのに対して道後は雨水なので飲めます。
ブラタモリで紹介されていましたが、この場所から見ると確かに谷に位置することがわかります。
明治27年(1894年)に、伊佐庭如矢(いさにわゆきや)が当時老朽化して行き詰まっていた道後温泉を100年後のことを考えて誰もが真似できないようなものを造ろうと、今の感覚で30億円規模の投資をしました。そのための資金集めには自分の給料を全額投入しただけでなく地元の人たちが自分たちの不動産を抵当にいれてくれました。そのお礼として永代終身優待券を発行し、今でも長男であれば優待券を引き継ぐことができるそうです。
帰りの特急しおかぜから四国や瀬戸内海を見ると、陸も海も小さな山々が非常に多いことに気づきます。ちょうど先週、橿原神宮を訪ねた時の耳成山や天香久山もそうだったな、と思い調べてみると、なんと同じ地質帯に属していることがわかりました。
フィリピン海プレートがユーラシア大陸プレートに沈み込んでいるのがこの一帯なのですが、沈む境目の部分はカルデラ火山が多発し冷えた巨大な花崗岩が地面を盛り上げたために石鎚山、剣山、大峰山と高い山が多い。一方、中央の瀬戸内の帯の部分は大地の亀裂にところどころマグマが貫入してきたので小さな山々が点々と生まれる結果となった。
まあ、ニキビみたいなものです。なので、瀬戸の島々も大和三山も兄弟みたいなものなのです。
瀬戸内海に浮かぶポツポツの山々を因幡の白兎が辿っていきましたが、古事記の舞台になっていて、どことなく温和で美しく、何か日本の原風景であるような気がします。
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