前回6月に、守山宿の手前のJR野洲駅で中断してから、2カ月ぶりの中山道です。登山も含めて6月から活動していなかった理由は、今年の酷暑のせいです。35度を超える中歩くと熱中症の危険があるし、とにかく不快なだけで全然楽しくない。
今日8月17日は曇りか小雨の天気予報で久しぶりの平年並みの暑さ。それでも30度は超えています。
とりあえず、JR野洲から中山道に入って歩きはじめます。まずは近くの守山宿を目指します。
朝鮮人街道追分標識。ここで朝鮮人街道と中山道が合流します。朝鮮人街道は別名彦根道とも言い、琵琶湖沿いに信長の安土城を通る街道で、将軍と朝鮮通信使だけが通行を許された道であったのが由来です。
野洲川橋を渡ります。JR東海道本線の橋が見えます。淀川くらいな川幅がある。
アパート一棟が廃墟になったまま打ち捨ててある。下にはダッジらしき車が草に覆われている。なんとなく人が住んでいた空気が漂う。
守山宿到着。比叡山の鬼門である東を守るという意味から「守山」という名前がついたそうな。
旅籠の町屋を再現している記念館。
中に入ると織田信長の人形が展示してあったが、なかなかよく出来ています。元総理大臣だった宇野さんの出身地のようで、宇野さんのビデオがずっと流れている。
こちらが比叡山の東門という意味で東門院。東門を守る、というだけあって仁王さんがにらみをきかせています。
十王寺焔魔堂。多芸で有名な小野篁(たかむら)作の閻魔像が祀られているそうだが、見ることはできなかった。
綣(へそ)という交差点で、このあたりを綣というようだ。綣一丁目、綣二丁目、とかなんとも変わった町の名前ですね。この漢字を読める人が日本に何人いるのでしょうか?
伊砂砂神社(いささじんじゃ)。
ここは草津市で、このあたりを渋川というようです。ちょうど戦後くらい、町のおじいちゃん、おばあちゃんがうっすらと覚えているくらいの頃の町の様子。見ているとほのぼのする。
草津市民センターの前にあったモニュメント。調べてみると鈴木典明さんという人が創ったものでタイトルは「時の旅人」。二人の人物がすれ違う様を表現しているのだが、そのスピード感を金属材料で見事にあらわしている。スピード感だけでなく、人間同士のつながりと疎外感まで感じてしまう。
そんな有名な芸術家ではないようですが、街角アートにしては、超一級品。
草津宿ですが、特に旅籠や本陣を感じさせるものはなく、昔ながらの酒屋さんみたいなものがあるくらいでした。JR草津駅から近いので商店街がありましたが、さびれがち。
でも草津宿は中山道と東海道の分岐点かつ、琵琶湖舟運に向かう地点でもあったので、かなりな賑わいをみせていたはずです。
立木神社。なかなか立派な神社です。
神社にあった東海道五十三次の草津の様子。昔は街道から琵琶湖が見えたんですね。これは建物がなかっただけでなく、田んぼで埋められてしまったのも原因です。
2キロほど歩くといまでも泉がこんこんと湧き出ている荻の玉川跡があります。井戸みたいな底から出てくるので濁っていて飲みたくても飲めない。
弁天池。琵琶湖の竹生島に祀られている弁財天を勧請(かんじょう)した祠がなかの小さな島にあるようです。勧請とは、神様を分霊すること。
JR瀬田駅付近にある一里塚跡。こうなってしまっていては以前の姿も想像だに出来ない。
さて、瀬田川に向けての下りあたりから、いよいよ音羽山、醍醐山など山科の東に位置する京都の山々が見えてきます。
瀬田川の渡す瀬田唐橋。
琵琶湖方面を眺めています。琵琶湖には数多くの川がつながっていますが、琵琶湖から外へ流れる川は、この瀬田川だけなんです。
瀬田川を渡り、石山商店街沿いにJR石山駅を北に超えます。このあたりですでに25キロほど歩いているので、いつもだったら打ち止めにして帰るところですが、今回は敢えて終点の京三条大橋まで行っちまう決断をしました。石山商店街の喫茶店で高校野球をテレビで見ながら疲れた体をコーヒーでしばし休めると再度歩きはじめます。
ロームなどの電子関連の工場を琵琶湖沿いに抜けていくと、膳所(ぜぜ)に入ります。
こちらは地蔵祠。
若宮八幡神社。なかなか広くて立派な神社です。鳥居のすぐ後ろに門がありますが、この門は膳所城の門(犬走り門)を移築したものだそうです。
膳所城は、ここから少し北に琵琶湖に突き出したような部分に建っていた城で、関ヶ原の戦いの直後に家康が東海道の押さえを目的に造った城です。藤堂高虎の作です。
このあたり京阪電車も通っていて歴史を感じさせ、また町の空気もとてもよいです。
道にちょっと迷いましたが目印の音羽軒を発見。
今日は町のお祭りのようで、家族で神社に向かう人々が見えます。こういう風景が見られる町っていいですね。実はこの和田神社、樹齢650年の銀杏があり、関ヶ原の戦いのあと捕らわれた石田三成が京へ護送される途中繋がれたそうです。なんで繋がれたのだろう?
めったに見ないコルベット発見。黄色のC6です。私は黄色のC5に乗っていたので懐かしい。C7はすごくかっこいいと思いますが値段が一千万超えてしまったし、もう速い車に乗りたいとも思わなくなりました。歩くのが一番楽しい。
石坐神社。いわいじんじゃ、と読む。
膳所城の西の入り口になっていた場所。
駐車場の脇に雑然と並べられていますが、以前は総門の石垣の一部だったような感が漂います。
膳所から西に向けて進むとお寺がいくつかあるのですが、その中の、義仲寺(ぎちゅうじ)は、平家物語においる中心人物の一人、源義仲の墓があるというので参拝することにしました。
とても狭いのですが、一応入場料をとられます。
これが義仲の墓。源義仲といっても、木曽の山奥の豪族の親方みたいだったので、頼朝からは、疎まれていて、木曽義仲という名前で祀られています。
義仲は平維盛率いる大軍を俱利伽羅峠で完膚なきまでに叩きのめし、平家を京都から追い出した人物なのにあまり知名度がないのは、田舎者のイメージで京都ではバカにされいたからなのでしょうか。
このお墓の脇には、妻でありかつ武士であった巴御前の墓もあります。また、義仲が好きで、亡くなったあとは義仲のそばに墓を立ててほしいと願った松尾芭蕉の墓もあります。
亀がゆっくりと動いていました。
滋賀県庁。ゴシック風の立派な建物です。早稲田大隈講堂と同じ設計者が昭和14年に建てたもの。京都市役所もそうですが、昔の建物は威厳があります。
祇園っぽい道。
京町一丁目交差点。京都への入り口ということですかね。ここを左折すると東海道で名神沿いの道になり、直進すると小関越えのルートになります。いずれもJR山科駅の手前で合流するので、どちらでもよいのですが、道路沿いを歩くのも面白くないので、あえてチャレンジングな小関越えを行くことにします。
「右 小関越え」、ちなみに、左は、三井寺と記されています。
小関越えルートは、三井寺のある山(右側)とその南にある神出開町(かみでひらきまち)の山(左側)の間を抜けて山科へ向かうルートになります。
後ろが三井寺の山。このお家は洋館風だけど屋根は瓦葺きです。
途中から山道っぽくなってくる。でも一応車道。
小関越えハイキングコースは、三井寺駅につながっています。このコースも面白そう。
峠の地蔵。こんなところにあるお地蔵さんもちゃんと手入れしている人たちがいるんですね。次の世代にも引き継いで行ってほしい。
ここから車道を通らず、山道を下ります。この途中に琵琶湖疏水第一竪坑があります。
西大津バイパスの下をくぐると、東海道本線と湖西線のトンネルが見えるところに出てきます。
小関越えルートが終わり、京阪電車の線路南側に沿った道に出てきます。昔の人たちはここから普通に三井寺に向かって歩いたのです。
今の三条の少し北側のこの道は旧三条を呼ばれています。日が暮れてきました。
南に折れると五条橋に向かう分かれ道。いまは碁盤の目のようになっていてどこでも五条に向かうことができますが、昔は道がもっと簡素だったのでしょうか。
旧三条通りはそのまま府道143号線に接続しますが、旧東海道は住宅地の中を歩いていきます。
かなりうらびれた峠を越えると、府道143号線に合流します。北側に自動車のスクラップ処理場みたいな場所がありました。日暮れ時に見るとかなり不気味です。
ちょうどこの道路を挟んだ南側に粟田口(あわたぐち)刑場があります。なんと1万5千人の罪人が処刑されたとのことです。でも京都は三条河原をはじめ、あちこちに刑場があり、罪人が殺されたり遺体を見るのは市民のエンターテイメントみたいなのだったのでしょう。
蹴上駅までやってきました。
蹴上交差点の美しい夕焼け空。蹴上(けあげ)という名前は、粟田口刑場に向かった罪人を蹴り上げながら強制連行させたのが由来という説があるそうです。
最終目的地の三条大橋。ここも昔はさらし首の陳列場だったのですが、本日は8時から五山の送り火でもあり、7時30分なのにたくさんの外国人達がカメラを持って大文字山の火を待ち構えていました。
ということで、本日は約40キロを歩き、歩数は最高記録の5万1千歩。三留野(みどの)宿から終点の京都三条大橋までの中山道を踏破したことになるます。バンザーイ!残りの東側の踏破は新幹線になんども乗らないといけないのでまだまだ時間がかかりそう。
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