吉川英治の新・平家物語を読んで、屋島に行くことにしました。
京都から新幹線で岡山、そこからマリンライナーで瀬戸大橋を通って高松下車。通算約2時間で行けてしまうことに驚きです。
高松駅に到着すると、これまた(失礼ながら)結構近代化されていて驚きでした。
ちょうど車内で最後の巻である第十六巻で全話読み終えたのですが、そこから吉川英治さんのあとがきが200ページほどあったのでそれを読みながらの旅となりました。
まずは高松城跡へ。
立派な松。
一本でしたが梅が咲いていました。今年の冬は寒いし、春の訪れが待ち遠しいです。
高松とよばれるまえは「野原」だったんですね。これは改名で正解。
堀の水は海水です。
披雲閣。江戸時代に高松城の城主となった松平家の別邸であり、迎賓館でもありました。
さて、高松城を後にして、屋島に向かいます。海沿いを東西に、また高松駅から南に運行している琴電、琴平電気鉄道です。
高松駅近くのショッピングエリア。ルイ・ヴィトンなどの一流ブランドの路面店もあり、あらためて高松の発展度に驚きました。
商店街に入ります。讃岐バージョンの広告。
お昼はやはりうどん。商店街で見つけた「川福」。
つやつやしたうどん。京都の丸亀うどんとは、やはり一味違う。でも、昔食べた讃岐うどんの感動はない。やはりどこでも手軽に讃岐うどんが食べられるようになったからでしょうか。
続いて商店街を東へ進みます。琴電琴平線が、商店街の間を走ります。
屋島に行く前の立ち寄り地点である平家物語歴史館。場所は埋め立て地の倉庫や事務所が立ち並ぶようなところにありました。
思ったよりかなり大きい建物なので期待感が膨らみます。
歴史館というよりは、歴史ろう人形館と言った方があっています。
1Fは四国出身の著名人なのですが、時間がないので軽く通り過ぎて期待の平家物語は2Fになっています。
いきなり一ノ谷の闘い。義経と弁慶が崖から馬でなだれ落ちてくる場面です。
馬の蹄は岩には弱いらしく、しかも崖を下るとは考えにくいのでこの闘いも真偽のほどは怪しいと言われています。
源氏も平家も元をただれば天皇の血筋です。姓を与えられて皇族から外にでることを臣籍降下(しんせきこうか)と言います。
源氏は嵯峨天皇から、平家は葛原親王(かずらわらしんのう)がルーツになっています。
これは清盛が福原遷都をした後、清盛の寝所に妖怪がでたという話。おそらく作り話でしょうが、やはりお公家さん達はみな京都を恋しがった気持ちはよくわかります。
でも迫りくる東国反乱と、宋との貿易で大きく発展した福原を考えれば清盛の決断は正しかったように思えます。
頼朝討伐のために数万の平家軍が京都から富士川まで遠征したが、水鳥の羽ばたきの音に驚いて慌てて逃げ帰ったという逸話。
歴史館にあったこの記事では、平家が恐れていたもう一つの大きな要因として、富士川で陣を敷いていた平家の背面を突こうと、源氏系の武田信義の軍が参戦してきたことをあげている。
いずれにせよ、京の都で安穏としていた半分公家みたいな武士達は、関東平野で野を駆け回っている坂東武士には戦々恐々としていたことは間違いないようだ。
平家はこの情けない敗退の後、今度は木曽義仲を成敗しようとこれも平維盛を大将に大軍をあげるが、俱利伽羅峠の戦いで、火のついた牛の大群を義仲にけしかけられ、あわてふためいて崖から数千人が落下する惨敗を演じている。これによって平家の戦力は完膚なきまでに殲滅してしまった。維盛は、屋島でも活躍することもなく、ひそかに自殺している。
東大寺の大仏が焼き打ちにあったところ。清盛の横暴ぶりがクライマックスに達した事件。吉川英治さんは、清盛の意図は、思いあがった南都を驚かすだけだったのが、火のまわりが速く不本意にも壊滅的打撃を与えてしまったように書いてあります。
壇ノ浦の戦いの名場面。那須与一が、玉虫が持つ扇子を見事射る。この振る舞いはその後頼朝には悪く思われ、与一のその後の生涯は暗いものでした。ちなみに「与一」という名前は、一郎、次郎、ときて十一番目の子供という意味。
母、建礼門院に言われて海に身を投げようとする6歳の安徳天皇。その後、建礼門院は熊手にからめとられて救われたが、安徳天皇と三種の神器のうち刀は見つかることはありませんでした。朝敵の平家と共に逃げた安徳天皇を後白河上皇はもはや天皇とは認めず、すでに後醍醐天皇を正式な後継者にしています。
吉川英治さんは、小説のあとがきで、壇ノ浦で平家が全員身を投げたなどなかった、と言っています。実際九州では平家の残党が多く残り、頼朝はその後討伐に兵を送っています。
お土産コーナーにあった屋島の戦いのマップ。敢えて暴風雨の中四国にたどり着き、桜庭良遠(さくらばよしとお)の館を落とした後、義経の軍は、二部隊に分かれる。海岸線沿いの部隊を本隊に見せかけて、義経自身は山中から屋島を攻めた。
歴史館を後にして屋島に向かいます。これは屋島の西側。
途中で再びうどん屋に立ち寄り休憩。地元のセルフ方式なのですが、うどんによってプロセスが違うようで、わかりません。
おばちゃんに教えてもらいながら、食べたうどんは、ちょっとイマイチでした。
志度街道沿いをずっと歩いていますが、いよいよ屋島の全貌が見えてきます。
琴電屋島駅のあたりから、いよいよ屋島に向けて北上します。
てくてくコースが歩きで、りんりんコースは自転車。
屋島ケーブルカーの残骸。吉川英治のあとがきには、吉川さんが屋島を訪れた際、ケーブルカーに乗ったことが書いてありました。車掌さんたちのサービスがよかったそうです。
今は多くの人がマイカーを持っているのと、訪れる人自体が減っているのでしょうか。残念です。
ケーブルカーの中をのぞいてみると、こんなメッセージが。泣けます。
大宮八幡宮。
で、この大宮八幡宮の裏から登山道らしき道があったのですが、間違いでした。
八幡宮をいったん下りてから西側の道に行きます。
舗装された道がありました。
階段が出てきました。
つづら折りを登っていくと、景色が少し開けてきます。
一万九千回近く登っている人がいますが、どんな人なのでしょう。一万四千回登っても一位になれない悲しさもあります。
屋島寺到着。奈良時代、鑑真が開創。
ハイキングコース。南が上になっています。
源平合戦の後、武士たちが血のついた刀を洗ったとされる血の池。
瀬戸内海一帯の大地は、風化にもろい花崗岩でできているのに対して、屋島は、どこからかの火山から流れた溶岩が花崗岩の上部を覆ったため、風化することなく残ったということです。メサとはスペイン語でテーブルの意味。確かに上部が平面です。
翌朝です。望海荘。こうしてみるとすごいところに建っていますね。
今朝はまず屋島北嶺に向かいます。たまに人を見かけますが、ほとんど誰もいません。
ずっと気になっていたのが屋島の東にあるノコギリの歯のような山。五剣山。
屋島はこの地図のように以前は「島」だったのです。江戸時代に塩田開発のために地続きになりました。塩で有名な播州赤穂から移動してきた人々が作ったそうです。うどんも、塩が重要な要素なので、讃岐うどんが発達したのも塩が発端だったのでは?
屋島の戦いでも、義経率いる部隊は、干潮時には馬で屋島に渡れることを見つけて攻めたのです。てっきり海から船の大群で攻めてくると思っていた平家の軍は不意をつかれます。義経は一ノ谷でも相手の裏をかく戦略が得意ですね。
北嶺の先端には遊鶴亭というのがあるらしい。どんなところだろう。お土産とか売ってるお茶屋かな。
北嶺にいく道程に、魚見台という場所があり魚影を探していたということです。
でも、無線とか無い時代、どうやって船上の人たちに情報を共有したのでしょうか。
高松の港がかなり遠くになってしまいました。
こちらは南嶺側。この下あたりに降りる道もあるようです。
ついに遊鶴亭に到着。名前はお茶屋さん感100%ですが、展望台があるだけでした。車が入れないので当然ですが。
でも瀬戸内海の大パノラマがひろがり、その素晴らしさは写真だけでは表しきれません。
屋島の先端は「長崎の鼻」と呼ばれています。
女木島です。フェリーが走っています。
五剣山。
北東方向の先にうっすらと見えるのが小豆島。
女木島の向こうに見えるアポロチョコのような△の山が大槌島(おおづちじま)。その左側の小粒なのが小鎚島。
再びメサ型溶岩台地の説明。
墓石に使われる御影石も花崗岩の一種。
五剣山が気になるのでついつい撮ってしまいます。
眼下の右奥あたりが、檀ノ浦で、死闘が行われた場所。那須与一の話もここです。最初、檀ノ浦と聞いて、平家が最期に滅んだ門司ではないか?と思ったのですが、あちらの壇ノ浦は「壇」、こちらは「檀」。土へんと木へんの違いがあります。土へんの方は、ひな壇、木へんの方は檀家、ビャクダン。
吉川英治さんのあとがきにありましたが、この二つのダンノウラは、もともと団ノ浦と書き、軍船が団をなす基地であったところから来ているそうです。白村江の戦い(はくすきのえ)の頃など、平家物語の以前からの軍事基地に適した場所だったのです。
さて屋島の東から檀ノ浦方面に向けて遍路道があるので、下っていきます。
下に降りてきました。遍路道、お地蔵さん、海、山、すべて納まるよいショットです。
義経を守って弓の盾となって戦士した佐藤継信(さとうつぐのぶ)の墓。ただ「吾妻鏡」によると継信も、継信を討った強弓で有名な平教経(のりつね)も一ノ谷の合戦で戦死していることになっている。何が真実なのか誰もわかりません。
安徳天皇神社です。清盛の娘、徳子(建礼門院)と高倉天皇の間に生まれた子で、清盛の存在を絶対なものにした。高倉天皇は平家と後白河上皇の間をうまく取り持った人格者として平家物語では描かれていますが残念なことに二十歳を迎えるまえに病死してしまいました。
先の佐藤継信の首をかきとろうとして、継信の弟に射抜かれて死んだ、菊王丸の墓。教経に仕えていた。
那須与一が矢を射たとされる場所。玉虫と的の扇子。
距離的にはこんなにある。ライフルでもこれだけの距離を当てるのは難しいと思う。平安時代の武士というのは、馬に乗って矢を射るという「芸」を職業としていた人々という説もあります。いまの流鏑馬のサラブレッドと違い、当時の日本の馬はもっと小型の馬で、馬に乗る理由は、重い鎧の負荷を馬に負わせることが一番大きかった言われています。
さて、ここから、ずーっと気になっていた五剣山に行ってみようと歩きはじめるのですが、途中で、讃岐うどんの大御所、山田屋があったので立ち寄ります。
昔と違って、店内オペレーションもすっかり近代化されていて、昔の讃岐うどんのイメージがなくて少し寂しい気がした。
でも、さすがにお味は今回の旅行で食べたなかで最高でした。
五剣山にある八栗寺(やくりじ)に向かいます。
レトロなアメリカンな雰囲気のケーブルカーに乗ります。
八栗寺マップ。
この本堂の裏から五剣山への登山ルートがあって、何人かの人が進んでいきました。鉄梯子を使うことが多いようで、それはいいのですが、岩が脆いなんて書いてあるので、リスクが高そうです。
近くでみるとモコモコした感じ。
ココから見る屋島は、まるで着陸した超巨大宇宙船のようで、素晴らしく美しい。
うどんの山田屋さんと関連があるのか、うどんの他に運送屋や石材屋もやっているようです。
途中にあった弓流しの跡。
全然関係ないが、昔懐かしいプラッシーの看板が。
源氏の陣の跡。
ということで、琴電八栗駅に到着。これで今回の旅も終わりです。平安時代は遠い昔で、源平合戦を身近に感じることはさすがにできませんでしたが、戦略的な屋島の立地や戦いのスケール感は理解することができました。
でもなんといっても屋島から見た瀬戸内海の美しさが一番印象的でした。
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