2021年1月6日水曜日

逢坂の関(鰻丼かねよ)

 2001年が明けたのですが、冬になってコロナの第三波が発生、東京都の感染者は大晦日に1000人、1/7に2000人をあっという間に超えてしまいました。

一方、アメリカでは、トランプが扇動した暴徒がワシントン国会議事堂を占拠するという信じられない事件が発生。映画「インディペンデスデイ」では巨大UFOがホワイトハウスを破壊する衝撃的シーンがありましたが、敵はエイリアンではなく、バッファローの着ぐるみのバカだったとは。アメリカの意外な脆さが露呈しました。


冬山は避けることにしているので、今回は、逢坂の関コースを辿ることにします。ここは東海道/中山道の一部なのですが、前回、中山道で野洲駅から京都市の自宅まで歩いた時は、小関越えルートを辿ったので、逢坂の関コースは初めてです。

ただ、以前、音羽山から逢坂山へ歩いた時は、今回のルートを直交しています。

この直交ポイントにある鰻の名店かねよで、鰻丼をいただくのが今回の裏目的です。

ルートですが、山科駅をスタートして、国道一号線沿いを進み、びわ湖浜大津駅がゴールです。約8キロ、3時間程度の半日ハイキングです。


これは、逢坂の関にあったルートマップを示した案内板です。


朝10時半に山科駅を出発。年初の大寒波が来ると言われている前日でお天気に恵まれました。


旧三条通りを東へ進みます。東海道の石碑の後ろに積まれているのが車石(くるまいし)と呼ばれる輸送用の牛車の車輪のレール。江戸時代までは大津から京都まで陸送だったのが、北前船の開発により徐々に船便へ移行していく。

このあたりの話は今読んでいる司馬遼太郎の「菜の花の沖」に詳しく書かれています。


若干、街道らしい風情も残っています。


天孫降臨のニニギに仕えた二柱神を祀っている諸羽神社(もろはじんじゃ)。この地域の4つめの宮だったことから、このあたりを、四の宮(よんのみや)と呼ばれています。

ちなみに神戸の三宮は、生田神社が3つ目の宮だったことが由来だそう。


こちらが山科地蔵と呼ばれる徳林庵。


井戸跡がきれいに保存されています。「宰領」とは運送の人夫や荷物の取り締まりを意味する言葉で、逢坂の関を超えて全国から運送屋が行き来していた様子が想像できます。


右にある6色のリボンみたいなものは、「お幡(はた)」と呼び、京都を守る六地蔵を現しています。

六地蔵は、小野篁(たかむら)による彫刻で、色が白くてとても大きいです(3メートルくらい)。


京阪のサイトから拝借しましたが、六地蔵のある位置です。


こちらが、以前歩いた小関越えルートと旧三条の合流地点。ここから大津までの街道は今回初めて歩くことになります。


国道一号線沿いにある東海道歩きのための案内版。


一号線から離れると街道の風情が残る。


大津絵は、東海道の道中の庶民向けに描かれたイラストみたいなものですが、ご利益的なことも信じられていたようです。

京都で出世できなかった仏画師達が飯の種にしていたのかも知れません。


追分(おいわけ)は、今回歩く東海道と、伏見宿経由で奈良に向かう奈良街道の分岐点になります。

分岐に沿って、「馬を追い分ける」というのが語源だそうですが、そもそも、「馬を追う」という言葉がよく分からず、調べてみると、馬を操縦するという意味のよう。走る馬を後ろから追っかけるのとは違うようです。


ここが追分の地点。みぎは京みちと書いてあります。見えませんが、ひだりは伊勢みちと書いてあるようです。


一号線の北側にコロニアル風の巨大な集合住宅がありました。調べてみると、「ティアラ・ガーデンシティコート」という名前の分譲マンション。なんだか周りと違和感があります。


京都市と大津市の境界を示した標識。


GoogleMapで見る大津市と京都市の境界です。大雑把に言って、旧東海道と逢坂山の四ノ宮までの間が大津市になっていることがわかります。


京都市と大津市の境界をよく見ると、大文字山と如意ヶ嶽の間の雨神社あたりまで強引に手を突っ込んだように大津市の領地になっています。なぜ滋賀県はここがどうしても欲しかったのでしょうか?調べてもわかりません。


逢坂の関ルートの観光名所として書いてある月心寺(がっしんじ)。申し込み制で一般公開しておらず、中に入れない。お寺のような名前ですが、元がお茶屋で、その後日本画家の橋本関雪(かんせつ)の別邸となった。


塀の上から中をのぞくと、結構広い。

ホームページを見ると予約制で精進料理を出しているようですが、なにせ、真ん前が一号線で、大型トラックなどがブンブン走るので、落ち着いてお食事ができるのか少し疑問。


東海道で、大津算盤というそろばんを売っていた店があったことを示す石碑。
追分出身の片岡庄兵衛という人が長崎で中国人(明人)から教わって製作したそうです。


歩道橋を超えて、一号線と名神高速の間の東海道に入ります。


今回の裏目的である鰻丼の「かねよ」が見つかりました。平日ですがマイカーで来ている人が結構います。

「かねよ」はフロア席になっている大きな建物以外に、個室で食事のできる写真の入り口があります。

個室だとサービス料10%が追加されるそうですが、せっかくなので、こちらに行ってみます。


お庭は思った以上に広く、回遊式庭園のようになっています。



個室はこんな感じでなかなかくつろげます。庭はサッシになっていて、すぐ横を走る京浜の電車の音を消してくれます。


敷紙がイラストによる「かねよ」の誕生の説明になっていて面白い。京極にも「かねよ」があり、仲居さんに関係を尋ねると、こちらの逢坂「かねよ」の姉妹店として京極「かねよ」が出来たけれども、その後、京極は別の方に譲渡したそうで、今は関係はないそうです。


これが名物「きんし丼」。思った以上にタマゴが大きいのですが、薄焼き卵のレイヤーがふわっとしていて美味しい。ごはんもたっぷり盛ってます。

イラスト解説の通り工程短縮して錦糸(金色の糸)じゃなくなっているのに、きんし丼というのも若干変な感じ。


巨大なタマゴに押しつぶされている肝心の鰻は、香りがよくとても美味しいのですが、タマゴやごはんに比べると、ちょっと少ないかなぁ。


「かねよ」のすぐ横にあるのが蝉丸神社。蝉丸神社は、全部で3つありますが、これは上社です。


階段を上がったところの社殿です。


関所があったと思われる場所がここ。


谷あいの一号線沿いに進みます。天然の通路のようです。歩道が狭くてあまり楽しい道ではない。


立ち寄りませんが、蝉丸神社の上社です。


山のどてっ腹をブチ抜く複線の名神高速の橋。その下を一号線と京阪が走り、生きた心地がしない。

それでも民家がいくつか立ち並んでいます。


少し行くと、旧逢坂山隧道(ずいどう)がありました。日本初の山岳トンネル。


逢坂山のトンネルについて調べてみると、こんな感じ。これ以外にも、京阪や名神高速のトンネルもあってややこしい。

ついでにリニアも見てみると、京都ルートもまだなくなったわけではないようです。もし作られるとすれば、栗東ICあたりに設置される予定の滋賀駅(仮称)から新大阪まではず~っとトンネルになるようです。しかも京都から大阪は大深度トンネルといって、地下40メートル以上の深さだそう。

日本で一番深い地下鉄駅は、大江戸線の六本木駅で地下42メートル。以前使ったときに、なかなか地上に出られなかった記憶がある。


立ち合いの道から脱出して開けてくると、近江の落ち着いた空気に変わります。

神功皇后に仕えた将軍が、忍熊王(ぬしくまおう)と会ったのがこのあたりだったので、逢坂の語源になったそうです。


こちらが、三つ目の蝉丸神社である下社です。ここが一番大きい。


境内にある関清水神社。湧き水があったように見えます。


蝉丸というと百人一首の坊主めくりで有名で、お笑いキャラのカードですが、実はこんな悲しいストーリーがあったのですね。


蝉丸は、神社の説明には延喜帝、つまり醍醐天皇の第四皇子と書かれてありますが、出生は諸説ありはっきりしないようです。逢坂山に庵を結んだそうで、東西にひっきりなしに通行する商人や旅人達を眺めては、世の無常を愛用の琵琶「無名」で弾き語っていたのでしょう。

別れては、知るも知らぬも」という部分は、「世の中の人たちは一緒に集まっているように見えるけれど、一人一人は結局孤独なんだ」と言っているように思えます。




京町一丁目交差点。以前中山道歩きをしたときは、この右の道をすすんで、小関越えルートをたどりました。


抜け目のない奥さんが和菓子の名店でお土産を買います。



大津宿を過ぎて草津宿へ向かう道。きれいな石畳をあしらっていて美しい。
屋根の形を見ると、道幅を広げた際に、家々の前面が削られたことがわかります。


雪化粧をした武奈ヶ岳をみて、びわ湖浜大津駅から帰路につきました。


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