朝9時に山科駅スタート
オカメザクラでしょうか。カンヒザクラの色の濃さが特徴。
このあたりの地域は安朱(あんしゅ)といいます。
山科疎水沿いの道に菜の花が咲き誇っています。菜の花は別名アブラナといい、食用油の原料になります。菜がタネの油で、菜種油です。実際の原料は西洋アブラナが使われています。
毘沙門堂門跡は、2017年に訪れて記事を書いています。毘沙門堂は元々御所の北にあったものが徳川家綱の時代にこちらに移設されました。門跡(もんぜき)とは皇族が住職を務めている寺院のことであり、家綱の時代の後西(ごさい)天皇の皇子が入寺したことから門跡になりました。
宸殿。この中に有名な動く襖絵がありますが、今回はパス。
沢の横を歩いて大文字山に向かいます。
仁明天皇の女御(にょうご)である藤原順子の墓。女御というのは天皇の夜のお勤めのお相手。でもただのコンパニオンではなく、山科の安祥寺(あんしょうじ)を建立しておられます。地名の安朱の元にもなっています。
登山道は2年前の暴風雨の際の倒木の後が未だに痛々しく残る。
大文字山の尾根まで登ると京の街が開けます。
せっかくなので頂上に向かいます。
今日は三連休初日ですが、山頂は人がまばら。これもコロナウィルスの影響なのでしょうか。
天気も良く、眺望が素晴らしい。
ここで、何とN氏が、パーティのみんなのために桜餅を持ってきてくれました。なんて良い人なんでしょうか。桜の葉の塩加減と餡の甘さのブレンドがなんとも良い。
大文字山頂上から大津方面へ向かいます。このルート(如意越え)はマイナーなのでほとんど誰ともすれ違いません。倒木処理も最小限の状態。
如意ケ岳は、大文字山(466m)よりも若干高く、東山の最高峰(472m)になるのですが、頂上には、航空無線標識所があり、立ち入り禁止になっています。
巨大な円盤のような形をしているので、ヘリポートかなと思いましたが、電波発信設備で、航空支援が目的ということです。
東山最高峰を越えると、琵琶湖が見えてきます。大津プリンスホテル、近江大橋の向こうには鈴鹿山脈が見えます。頂上は雨乞岳(1238m)でしょうか。
京都側を見ると追分の街が見えます。正確に言えばここは大津市ですが。
ここからは見えませんが足元には逢坂山があり、遠くに見える山が音羽山です。
航空支援標識所に続く道路の脇に登山道への道がありますが、これはGPSがないと絶対わかりません。
長等山へのルートが出てきました。
途中に見かけた巨石群。
浜大津の街が近づいてきました。
児石(ちごいし)と書かれたお地蔵さん。
さて、ここから先は三井寺のエリアということで、大人は600円をお納めくださいと書いてある。比叡山も延暦寺に近づくと同じような標識があります。
桜餅のN氏は、無信仰ということで、どうしても払いたくないよう。。。
三井寺への道です。
お寺が守る山なので、里山のように切り倒されずに残っている樹木があります。
コナラでしょうか。
イザナギが長等山に降臨したという伝説があり、その際、三つの帯がヒラヒラしていたことから、三尾明神と言われるようになった。
この石は、三尾明神が座ったと言われる石です。
平家物語にも、源頼政が担いだ以仁王(もちひとおう)の反乱の際に、三井寺が以仁王をかくまったとのことで焼き討ちにあったり、延暦寺と三井寺(園城寺)が教義をめぐって争ったりと、京都の様々な戦火に関連していますが、今はいたって静かなものです。
金堂前で記念写真
一切経蔵。一切経とは、いろんなお経がすべて一切合切(いっさいがっさい)集められているとの意味。この経蔵は毛利輝元が山口県のお寺から移設しまものだそうですが、八角形の建造物の各側面に設けられた棚にそれぞれの経典を収めた箱がびっしりと入っています。
一切経蔵を横から眺めた。
エノキかな。立派な姿です。
この三重塔は、豊臣秀吉が、奈良の世尊寺が、当時の伏見城(指月伏見城)に移設したものを、徳川家康が三井寺に寄進したもの。なので、2回引っ越ししています。
長等山をバックに石垣の美しい琵琶湖疎水。ここから先が山科、蹴上とつながっています。
これは以前に疎水記念館に行った時の説明図です。今回の毘沙門堂門跡あたりの、安朱から御陵、日ノ岡に行ってトンネルをくぐって蹴上へとつながっています。
このあと、S氏のおススメで、近くの近江牛専門店の品川亭で、牛肉コロッケと、豚カツをみんなで購入。マリーナ横の公園でビール片手にいただきました。
天気もよく、とても楽しい春めいた一日でした。
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