2017年1月21日土曜日

大覚寺、祇王寺と滝口寺



【大覚寺の龍の天井画】



今日のサイクリングにスマホホルダー(サンワダイレクト800-BYHLD001/002)を装着した。



京都は細い道が多く、自分は、そういう道が大好きな割には方向音痴なのでGoogle Mapは欠かせませんが、マップを見るたびに停車してポケットからとりだすのが非常に面倒くさい。このホルダーは着脱がすごく簡単なのがいい。

東西を走るときはこんな風にヨコにもなる。Xperia Z5のボタンの配置にもフックがかぶらないし、素晴らしい!オススメです。



さて、本日は祇王寺(ぎおうじ)を目がけて走っていったのだが、祇王寺と大覚寺がセットでお得(合計200円オトク)な拝観券があったので、大覚寺にまず最初に行くことにした。

道の途中で、道案内の標石を見つける。



読めないので、調べると、「右 あたご(愛宕)、左 きょくうぞう(虚空像)」と書いてあるらしい。虚空像とは法輪寺。愛宕方面は目指す祇王寺などがある地区。

この標石の左を覗くと、黒い地蔵さんがある。


なんだろうと思うと、油掛地蔵だった。初めて見るが、本当に水の代わりに油が地蔵さんの足元にヒタヒタになっていて、それを柄杓でタラーリとかける。地元のおばさんがまるで日課のように掛けておられた。

説明書きを見ると、どうやら地蔵というのは自分の勝手な勘違いで、阿弥陀如来様で、鎌倉後期の作だそうだ。


拡大、エンハンスしてみました。確かに、仏様だ。


さて、大覚寺に到着した。
門の前に堀がある。残雪が写真に色を添える。



入ってみると大きい!祇王寺の「ついで」によるなどとんでもない風格でした。大覚寺は元々嵯峨天皇の離宮として作られたとのこと。嵯峨天皇は平安京を興した桓武天皇の子供。離宮は退位後に作ったそうだが、財政を圧迫させただけでなく、退位後も政治に干渉したらしい。

その後、嵯峨天皇の孫の恒貞親王(つねさだしんのう)が出家して、恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう)に名前を変えて開山したのが大覚寺の発祥ということ。




石造りの舞台を囲んで、御影堂(みえどう)、五大堂(ごだいどう)が見える。




狩野山楽の襖絵がすばらしい。大覚寺はご本尊さんでなければ基本的に写真OKなのもよい。



残雪がピクチャラスクです。



お堂も撮影禁止と書いてないので撮っちゃいました。



天井の龍はよく見ますね。



これは何の草でしょうか。紅葉と雪が美しい。




一番気に入ったのがウサギの絵。扉の杉の戸板に書いてあります。渡辺始興(わたなべしこう)という江戸時代の画家が描いたもの。重要文化財。ウサギは飼ったことはないが、所作はなんとなく犬っぽく感じる。特に下の黄色いウサギはヘタウマ画と言われそう。




光が美しかったのでお庭を撮りました。


鴨がプカプカ浮かぶ大沢池。時々頭からダイブして魚を捉えるんだけど、ダイブする前にどうやって下に魚がいることを察知するのだろう?




ということで、大覚寺を後にして祇王寺へ。Google Map通りに行くと、林の小道にさしかかり、「ここは入口ではありません。Uターンして下さい」との札が。やはりGoogleに頼って来てしまう人が多いのだろう。正式な入口もまわりにお店があるのだが決してわかりやすくはなく、細い階段を登っていくと、祇王寺と滝口寺(たきぐちでら)に行けるようになっている。




基本的に小さなお庭があって、お庭の奥に草庵があるだけ。草庵も失礼ながらそんなに歴史的芸術的価値があるようには見えなかったので写真は撮らず。だからこの二枚だけ!
元々は浄土宗のお寺だったのが、明治時代に大覚寺の支配下になって、真言宗に改宗したという。だから大覚寺の拝観券と二枚セットだったんですね。しかし祇王寺のついでに大覚寺を観るという私はなんと不届き者なのでしょう。




祇王寺の草庵の中には平家物語に登場する祇王、祇女、仏御前の木像がある。

その時代、祇王と祇女は白拍子(しらびょうし)の踊り手として有名で、平清盛は特に祇王を寵愛していた。ところが、仏御前という若い新たな踊り手が現れると、清盛はそちらに心を移してしまい、祇王は暇をだされてしまう。祇王、祇女と母は皆そろって出家すると、罪を感じた仏御前までもが追って出家してしまうというお話です。

こちらに詳細なストーリーが載っていました。

このお話は、吉川英治の新平家物語の第四巻に乗っています。祇王(作中では妓王)がまだ小さい女の子で明日香という名前だったころから、その美少女ぶりが有名で、白拍子として買われたあとも、ご主人を助けた清盛の腹違いの弟である忠度(ただのり)に思いを寄せ、忠度にお礼にいったところを清盛に目を付けられてしまったのです。

さて、次は滝口寺

滝口寺は、「拝観券を買わないヤツは写真を撮るな!」的な張り紙がやたらめったら英語で書いてあってかなり感じ悪い。写真くらいいいじゃん!

祇王寺のように真言宗大覚寺の支配下に降りることなく、浄土宗のまま。祇王寺のついでにこちらも一緒に手に入れらなかったのは何か事情があるのだろうか?

こちらのお寺もとても小さく、細い段を登っていくと、小さな草庵があるだけの造りです。


草庵も大して価値を感じなかったのだけれど、雪の屋根が綺麗なので撮りました。

この草庵の中には滝口入道(斎藤時頼)と横笛の像が祀られています。



これも平家物語に出てきます。詳細ストーリーはこちら。

斎藤時頼(さいとうときより)は、清盛の嫡子の重盛に滝口武者(たきぐちのむしゃ)として仕えていた。滝口武者とは内裏(だいり、天皇の私的区域)の警備係。彼は下仕えの女、横笛に恋をしてしまったところ、父親にそんな身分の低い女を相手にしてはいかん!と怒られ、往生院に身を隠してしまう。

一言もなしで出ていった時頼に会いたいあまり往生院を訪ねた横笛に、時頼は敢えて居留守を使う。心動かされた時頼は、高野山に出家してしまい、滝口入道となる。

それを知った横笛も出家してしまう、というお話しです。


横の部屋に横笛と思われる女の絵が飾ってありました。恋する人を想うが、実らぬ運命の悲しさが表情に現れています。



祇王寺もそうですが、昔の人はハートブレイクすると出家してしまうのですね。特に女性は二度目、三度目の恋にチャレンジするのはふしだらだと思われるので、恋に破れる、イコール、未亡人と同じになってしまったのでしょう。まだ旦那がちゃんと死んでくれたら再婚もできたのでしょうが、相手が生きていると尚難しいのでしょうね。


草庵の周りには竹林が。横笛の絵の背景と同じです。


帰ろうかと思いきや、入口の横に新田義貞の首塚を発見。


新田義貞は鎌倉幕府を倒幕し、一時は総大将となったが、足利尊氏との天下争いに敗れて戦死してしまった人です。義貞の妻だったと言われる勾当内侍(こうとうのないし)が、その首を埋めたとされているようですが、調べてみると、「伝説」の域を出ないような話で、義貞の首塚もここ以外にいろいろあるそうです。


ということで、瀬戸内寂聴や、「殺人事件」の舞台となる、「女の人生」的な色合いの強い京都嵯峨の中心となる祇王寺と滝口寺でした。


おまけですが、帰りに、このような石碑を見つけました。別名海正寺というお寺がそばにあるようなのですがお寺は発見できませんでした。次回探索してみよう。



こういう細い道に入ってもGoogle Mapで常にチェックできるので迷わなくてよいです。


2017年1月15日日曜日

雪の金閣寺


【雪の中に佇む金閣寺】

朝起きると外は雪景色。去年も一日だけ積もったけど今日はそれ以上だった。毎週日曜日朝は東山テニススクールに行くのだけれど本日は閉校とのこと。

だったら、ということで、金閣寺に向けて出発!最初は自転車で行こうとしたがすぐに無理ということがわかった。

いつも人気のカフェBiblioticの芭蕉の木もかわいそうな状態。



烏丸通りはこんな状態。札幌に行ったときを思い出す。



地下鉄に乗って北大路通までいって、そこからバスに乗る。バス乗り場が屋内になっていて整備されている。満員のバスに乗って金閣寺に到着。

ある程度予想はしていたが、想像を上回るすごい人出。いつもの観光地は半分以上が外国人なんだが、雪の金閣寺はレアモノだけあって、ほとんどが日本人だった。みんな写真を撮ろうと前へ前へ押すので、外国人がつたない日本語で、「押したら前の人が崖から落ちますよー」と怒られるしまつ。


そういう状況でしたが、ようやく苦労して撮りました。落ち着いてじっくり見てみると、やっぱりいいねぇ。真っ白な世界に輝く金色。しかもいわゆる黄金色ではなく、上品な色がいいと思います。


場所を変えてもう一枚。



金閣寺を建てたのは室町時代の足利将軍三代目の足利義満。金閣寺を見ると足利義満の野望が見えてくるのです。この図は、井沢元彦氏「天皇になろうとした将軍」に載っていたものです。織田信長と並ぶ強烈な個性を放つ足利義満と、その祖父であり室町幕府の創始者、足利尊氏がうまくまとめられています。




さて、金閣寺ですが、一階が金で覆われていないのは見ればわかりますね。さらに、一階は寝殿造りといって公家風の造り、二階は武家造り、そして三階は禅宗仏殿造りと、スタイルが違っているのです。

本来一番偉いはずの公家を一番下に置き、しかも金箔を敢えて張らず、武家をその上に載せているのは、幕府のほうが朝廷よりも偉いというメッセージなのです。そして、その幕府の上に乗っかっているのが仏教。これは当時禅宗に身を置いていた足利義満自身を表しているのです。




さて、写真の戻って。

この角度の画もいい。雪化粧の木が主役でその後ろにそっと佇む金閣寺。わびさびですなー。



これも敢えて枝を主役にしてみました。金閣寺はボカシて。



押しくらまんじゅうと人混みに疲れたので、近くのコーヒー屋さんで休憩したあと、歩きはじめました。満員バスは御免なので、とりあえず建勲神社(たていさお)まで行ってみようと。

この大雪の日に厄払いをしていました。夫婦かな?



狛犬君は前が見えないよーー



帰りに出会った雪だるま君。メガネと耳がかわいい。これを作ったコはアートのセンスがあるね。



船岡温泉にはいったろか~とちょっと思ったけど本日は午後3時からだそう。



ちょうどお昼になったので船岡温泉の並びにあった、「さらさ」というカフェに入る。ここは、前は銭湯で、しかも和製マジョルカタイルがあしらわれている、とのこと。



マジョルカタイルがどんなタイルなのかよく知らないけれど、こんな感じ。ここがちょうど女湯と男湯の境目。左下にお湯の出口があり、出口にもきっちりとタイルが貼られている。とても丁寧なつくりだ。それに対して、壁のぶち壊し方がめちゃくちゃ荒い。お店に改装する前は廃墟だったのではないか?




キーマカレーをいただきました。お値段ちょうど1000円。



お腹も膨れたし、もうここまで来たら歩いちまえ!ということで、晴明神社を目指す。
こちらは、普通の(?)雪景色でした。やはりお庭があるところでないど風情が出ませんな。




ということで、エンジニアブーツが重くて距離以上に疲れてしまった一日でした。


2017年1月14日土曜日

京街道 高麗橋~守口



【高麗橋の京街道のスタート地点を示す標石】

今日はいよいよ京街道を歩くと決意した。今年一番の寒さなので上下ヒートテックで完全防備。

まずは、中之島の大阪国際美術館で、イタリア絵画を観た。大昔にイタリア旅行したときに、そういえば、ティントレットって見たな、と思い出す。中世の西欧絵画って受胎告知、キリストの誕生がやたら多いので確かに素晴らしい絵なんだけど、だんだん飽きてくるのは否めない。むしろ中世の画風で自由なテーマで描かれたラファエル前派の作品達が観たくなった。またやってくれないかな。


体がガシガシに凝っていたので、美術館のそばのマッサージ屋さんでマッサージをしてもらってから、いざ出発。

まずは京街道の出発地点である高麗橋。この橋は江戸時代は役人たちが通る非常に位の高い橋(公儀橋)だった。しかし横堀川の上に高速道路を建ててしまったせいで、本当に大阪の美観は死んでしまったなぁ。



右手に大阪城を見ながら歩く。大阪城っていつも思うのだけれど地面から撮ると樹木が邪魔でちゃんと写らないんだよなぁ。


OBPのクリスタルタワーはいつ見てもかっこいい。今の大阪の好きな景色の一つ。
クリスタルタワーの横に、なにやら大きなビルが建設中だ。調べてみると、新MID大阪京橋ビルというらしい。完成したらクリスタルタワーの2/3くらいの高さになるみたい。


京橋に行く前に、野田橋跡の石碑を見つけた。こんなところに昔は川があったんだな。調べてみると昭和の初めに埋め立ててしまったらしい。新地にあった蜆川みたいだ。野田橋跡はわびさびの欠片もない殺風景な場所となってしまった。昔は人々が橋を渡っていたなんて歴史好き以外は誰も知らないのだろう。


京橋を通り過ぎてからひたすら歩くが、正直あまりおもしろいものではなく、被写体もない。京街道には地元の商店街が時々あるのだが、無残な状態。なんとなく荒んだ感じで寂しく感じた。

もう少し歩こうかと思ったけれど、京阪守口駅から先は、京街道と京阪駅がどんどん離れていくので、今日はここまでにした。

商店街にあるたこ焼き屋さんで明石焼きを食べた。なかなか美味しかったけど、となりで4時なのにおばさんが一人でビールを飲んで店長に大声で自分の話をしていた。大阪らしいけど、正直うるさかったわ。


大体2万歩弱。