【大覚寺の龍の天井画】
今日のサイクリングにスマホホルダー(サンワダイレクト800-BYHLD001/002)を装着した。
京都は細い道が多く、自分は、そういう道が大好きな割には方向音痴なのでGoogle Mapは欠かせませんが、マップを見るたびに停車してポケットからとりだすのが非常に面倒くさい。このホルダーは着脱がすごく簡単なのがいい。
東西を走るときはこんな風にヨコにもなる。Xperia Z5のボタンの配置にもフックがかぶらないし、素晴らしい!オススメです。
さて、本日は祇王寺(ぎおうじ)を目がけて走っていったのだが、祇王寺と大覚寺がセットでお得(合計200円オトク)な拝観券があったので、大覚寺にまず最初に行くことにした。
道の途中で、道案内の標石を見つける。
読めないので、調べると、「右 あたご(愛宕)、左 きょくうぞう(虚空像)」と書いてあるらしい。虚空像とは法輪寺。愛宕方面は目指す祇王寺などがある地区。
この標石の左を覗くと、黒い地蔵さんがある。
なんだろうと思うと、油掛地蔵だった。初めて見るが、本当に水の代わりに油が地蔵さんの足元にヒタヒタになっていて、それを柄杓でタラーリとかける。地元のおばさんがまるで日課のように掛けておられた。
説明書きを見ると、どうやら地蔵というのは自分の勝手な勘違いで、阿弥陀如来様で、鎌倉後期の作だそうだ。
拡大、エンハンスしてみました。確かに、仏様だ。
さて、大覚寺に到着した。
門の前に堀がある。残雪が写真に色を添える。
入ってみると大きい!祇王寺の「ついで」によるなどとんでもない風格でした。大覚寺は元々嵯峨天皇の離宮として作られたとのこと。嵯峨天皇は平安京を興した桓武天皇の子供。離宮は退位後に作ったそうだが、財政を圧迫させただけでなく、退位後も政治に干渉したらしい。
その後、嵯峨天皇の孫の恒貞親王(つねさだしんのう)が出家して、恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう)に名前を変えて開山したのが大覚寺の発祥ということ。
石造りの舞台を囲んで、御影堂(みえどう)、五大堂(ごだいどう)が見える。
狩野山楽の襖絵がすばらしい。大覚寺はご本尊さんでなければ基本的に写真OKなのもよい。
残雪がピクチャラスクです。
お堂も撮影禁止と書いてないので撮っちゃいました。
天井の龍はよく見ますね。
これは何の草でしょうか。紅葉と雪が美しい。
一番気に入ったのがウサギの絵。扉の杉の戸板に書いてあります。渡辺始興(わたなべしこう)という江戸時代の画家が描いたもの。重要文化財。ウサギは飼ったことはないが、所作はなんとなく犬っぽく感じる。特に下の黄色いウサギはヘタウマ画と言われそう。
光が美しかったのでお庭を撮りました。
鴨がプカプカ浮かぶ大沢池。時々頭からダイブして魚を捉えるんだけど、ダイブする前にどうやって下に魚がいることを察知するのだろう?
ということで、大覚寺を後にして祇王寺へ。Google Map通りに行くと、林の小道にさしかかり、「ここは入口ではありません。Uターンして下さい」との札が。やはりGoogleに頼って来てしまう人が多いのだろう。正式な入口もまわりにお店があるのだが決してわかりやすくはなく、細い階段を登っていくと、祇王寺と滝口寺(たきぐちでら)に行けるようになっている。
基本的に小さなお庭があって、お庭の奥に草庵があるだけ。草庵も失礼ながらそんなに歴史的芸術的価値があるようには見えなかったので写真は撮らず。だからこの二枚だけ!
元々は浄土宗のお寺だったのが、明治時代に大覚寺の支配下になって、真言宗に改宗したという。だから大覚寺の拝観券と二枚セットだったんですね。しかし祇王寺のついでに大覚寺を観るという私はなんと不届き者なのでしょう。
祇王寺の草庵の中には平家物語に登場する祇王、祇女、仏御前の木像がある。
その時代、祇王と祇女は白拍子(しらびょうし)の踊り手として有名で、平清盛は特に祇王を寵愛していた。ところが、仏御前という若い新たな踊り手が現れると、清盛はそちらに心を移してしまい、祇王は暇をだされてしまう。祇王、祇女と母は皆そろって出家すると、罪を感じた仏御前までもが追って出家してしまうというお話です。
こちらに詳細なストーリーが載っていました。
このお話は、吉川英治の新平家物語の第四巻に乗っています。祇王(作中では妓王)がまだ小さい女の子で明日香という名前だったころから、その美少女ぶりが有名で、白拍子として買われたあとも、ご主人を助けた清盛の腹違いの弟である忠度(ただのり)に思いを寄せ、忠度にお礼にいったところを清盛に目を付けられてしまったのです。
さて、次は滝口寺
滝口寺は、「拝観券を買わないヤツは写真を撮るな!」的な張り紙がやたらめったら英語で書いてあってかなり感じ悪い。写真くらいいいじゃん!
祇王寺のように真言宗大覚寺の支配下に降りることなく、浄土宗のまま。祇王寺のついでにこちらも一緒に手に入れらなかったのは何か事情があるのだろうか?
こちらのお寺もとても小さく、細い段を登っていくと、小さな草庵があるだけの造りです。
草庵も大して価値を感じなかったのだけれど、雪の屋根が綺麗なので撮りました。
この草庵の中には滝口入道(斎藤時頼)と横笛の像が祀られています。
これも平家物語に出てきます。詳細ストーリーはこちら。
斎藤時頼(さいとうときより)は、清盛の嫡子の重盛に滝口武者(たきぐちのむしゃ)として仕えていた。滝口武者とは内裏(だいり、天皇の私的区域)の警備係。彼は下仕えの女、横笛に恋をしてしまったところ、父親にそんな身分の低い女を相手にしてはいかん!と怒られ、往生院に身を隠してしまう。
一言もなしで出ていった時頼に会いたいあまり往生院を訪ねた横笛に、時頼は敢えて居留守を使う。心動かされた時頼は、高野山に出家してしまい、滝口入道となる。
それを知った横笛も出家してしまう、というお話しです。
横の部屋に横笛と思われる女の絵が飾ってありました。恋する人を想うが、実らぬ運命の悲しさが表情に現れています。
祇王寺もそうですが、昔の人はハートブレイクすると出家してしまうのですね。特に女性は二度目、三度目の恋にチャレンジするのはふしだらだと思われるので、恋に破れる、イコール、未亡人と同じになってしまったのでしょう。まだ旦那がちゃんと死んでくれたら再婚もできたのでしょうが、相手が生きていると尚難しいのでしょうね。
草庵の周りには竹林が。横笛の絵の背景と同じです。
帰ろうかと思いきや、入口の横に新田義貞の首塚を発見。
新田義貞は鎌倉幕府を倒幕し、一時は総大将となったが、足利尊氏との天下争いに敗れて戦死してしまった人です。義貞の妻だったと言われる勾当内侍(こうとうのないし)が、その首を埋めたとされているようですが、調べてみると、「伝説」の域を出ないような話で、義貞の首塚もここ以外にいろいろあるそうです。
ということで、瀬戸内寂聴や、「殺人事件」の舞台となる、「女の人生」的な色合いの強い京都嵯峨の中心となる祇王寺と滝口寺でした。
おまけですが、帰りに、このような石碑を見つけました。別名海正寺というお寺がそばにあるようなのですがお寺は発見できませんでした。次回探索してみよう。
こういう細い道に入ってもGoogle Mapで常にチェックできるので迷わなくてよいです。